第3話天使と画家と発明家

 次に優が目を覚ました時、窓の向こうは真っ暗だった。部屋の電灯が灯されているから室内は明るい。だか、カーテンが開け放たれた外は暗闇が広がっている。どのくらい眠っていたのだろう……と、優はずきりと痛む頭を抱えながら思った。


「それでさ、あいつったら……」

「分かるよ。そういう性格だよね」


 部屋の向こう、どこからか話声がする。声の主はランスとポーンだ。優はベッドから抜け出すと、その声を辿った。玄関を通り抜けて別の部屋に入る。優は辺りを見回した。豪邸、とまでは言わなくても、この家はとても広い。廊下の壁は優しいクリーム色で日焼けの跡すら見られない程、綺麗に掃除されていた。天井からはモダンな灯りが柔らかい光を放っていて、その灯は優の心をどこか安心させた。

 優は、ふと壁に飾られた一枚の絵に心を奪われた。それは黒い猫の絵で、毛並みとは対照的な水色の瞳が印象的だった。きっと高い絵なんだろうな、と立ち止まってそれを眺めていると、足音がこちらに近付いてきた。優は身構える。


「ああ、起きたかい? 今、呼びに行こうと思っていたんだ」

「……ランスさん」


 足音の主はランスだった。彼は目を細めて笑い、優の頭を撫でた。


「おはよう。と言っても、もう夕飯の時間なんだけれどね」

「あの、俺……すみません。いろいろ迷惑かけちゃって……」

「気にしなくて良いんだよ。そうだ、服が乾いたから着替えると良い。ほら、お風呂場に行こう」

「はい……」


 優は言われるがままに、ランスの背中を追った。風呂場は一番奥にあった。ランスは優を中に入る用に促すと、脱衣所の洗濯機の横のカゴに入れてあった優の服を手渡した。


「はい。僕は外で待っているから。ああ、今着ているシャツは洗濯機に放り込んで置いてくれるかな? ごめんね、サイズが合わなくって」

「とんでもないです! 貸してくれて、ありがとうございました」


 それじゃあ、と言ってランスは風呂場から出た。がちゃり、とドアが閉まると優は密かに息を吐いた。そして、着せられたシャツを脱ぐ。外でランスが待っている、早く着替えなくちゃ、と思うと気持ちが急いてボタンが上手外せない。優はもう一度息を吐いて、心を落ち着かせた。

 ――落ち着け、落ち着け……。

 どうにか自分のシャツとズボンを身に着けて、ランスのシャツを洗濯機に丁寧に入れた。そして、ドアをゆっくりと開けると、腕を組んでいたランスと目が合った。


「それじゃあ、次はご飯を食べよう」

「ご飯、ですか?」

「そう。僕が作ったんだよ。食べてくれる?」

「でも……申し訳ないです」

「そんなこと言わずに、ね? 自信作なんだ。それでも嫌かい?」

「嫌とか、そう言うんじゃなくって……分かりました。いただきます」

「良かった! さあ、キッチンへ行こう!」


 機嫌を良くしたランスは優の手を取り、今来た道を元に辿って行く。優は繋がれた手のぬくもりにどきどきしながら、歩幅の広いランスの足取りに精一杯ついて行った。


「やあ! ユウ! 気分はどうだい?」

「……ポーンさん」

「ポーン、もう呑み始めているのかい?」


 ポーンはグラスを二人に掲げて見せた。中には紫色の液体が入っている。ワインだろうか、と優は思った。


「悪いね! 先に始めさせてもらってるぜ!」

「まったく……ポーンのお酒好きは相変わらずだね」

「こんな美味いものを発明した奴は、俺の次に天才だ!」


 ぐび、とグラスを傾けるポーンを呆気に取られたように優は眺めた。頭上でくすり、とランスが笑う。彼は優の背中を軽く突いて言った。


「ポーンはね、発明家なんだよ」

「は、発明家!?」

「しかも、王宮付きのね。国王様から厚い信頼を得ているんだ」

「それを言ったらランス、お前もじゃないか! ユウ、こいつは王宮御用達の画家なんだぜ? 国王、王妃、それからその子供たちの肖像画も全部こいつが描いたんだ! 凄いだろう?」

「画家、なんですか?」


 優がランスを見上げて問うと、彼は照れたように頬を掻いた。


「ポーンが僕を国王様に紹介してくれたんだ。それまでは無名の画家だったんだよ」

「謙遜するなよ。お前の腕じゃ、有名になるのに時間はかからなかったさ!」


 機嫌よくグラスを空にしたポーンは、テーブルの上に並べられている焼かれた鶏肉に手を付けた。他にもキャベツやトマトを使った色とりどりの野菜のサラダ、湯気が立っているじゃがいものスープ、まだ焼き立てでほかほかのバターロール、デザートにはみずみずしく揺れるプリンが並んでいる。豪華な卓上に、優は思わず唾を飲み込んだ。こんな御馳走を見るのは久しぶりのことだった。


「さあ、ユウ。席に付いて」

「はい……」


 遠慮がちに椅子に座ると、隣のポーンが肩を抱いてきた。そして、グラスを優に差し出す。


「ユウ、いける口かい?」

「いえ……俺はまだ未成年ですから」

「ほう……いくつだい?」

「十八歳です」

「なら、この国じゃ成人じゃないか! そら、一杯注いでやろう!」

「でも……」

「ポーン。無理強いは良くないよ」


 ランスはポーンからグラスを奪うと、淡い緑色の瞳でポーンを睨んだ。怒るなよー、とポーンは頭を掻く。ランスは優に別の、オレンジ色の液体が入ったグラスを手渡した。


「オレンジジュースだよ。これなら飲めるかい?」

「あ、ありがとうございます」

「それじゃあ、ユウとの出会いを祝して乾杯ー!」

「乾杯」

「か、乾杯……」


 二杯目のワインを半分程口に入れたポーンは、思い出したように優に言った。


「ユウはベッド派? それとも布団派?」

「えっ?」

「寝る時の話さ。聞いておかないと、準備できないからな」

「準備?」

「そうさ。夕飯を食べたら俺の家に来ると良い。そこでこれから一緒に暮らそう。なに、細かいことは気にしなくて良いからな! 取引を持ち出したのは俺だし。約束通り、助けてやるさ!」

「ポーンさん……」


 良かった、と優は胸を撫で下ろした。これからこの世界で生きていける……。けれど、どうしてだろう。胸の奥がちくりと痛む。このままポーンの世話になれば安泰なのだろう。けれど、何故だかランスと離れたくない。そんな思いが優の心を支配した。


「ねぇ、その話、ちょっと待ってくれる?」

「どうした、ランス?」


 グラスをテーブルに置いたランスは、優を真っ直ぐに見つめて言った。


「ユウのことなんだけど……僕に任せてほしいんだ」

「何?」


 ポーンは驚いて、取り分けたサラダのトマトを皿の上に落とした。優もランスの言葉に目を丸くして固まる。そんな二人をよそに、ランスは興奮した様子で続けた。


「ユウ、僕の絵のモデルになってくれないか?」

「モデル……?」

「君はとても魅力的だ! 是非、ユウの絵が描きたい! 僕に描かせてはくれないだろうか?」

「お、俺なんかがモデルだなんて……ランスさんは王宮の画家なんでしょう? そんな立派な人に描いてもらうなんて恐れ多いです」

「何を言っているんだい? ユウ、君は自分を良く見給え!」


 壁に吊るしてあった鏡を手に取ると、ランスは凄い勢いで優に近付いた。その距離に心臓が跳ねる。


「ご覧。雪のように白い髪、宝石のように赤い瞳、絹のような肌……こんなに美しい人を僕は見たことが無い……一日中、ユウのことを眺めて居たいよ。どうか僕と一緒に暮らしてくれないか?」


 うっとりと優を見るランスは、どこか別の世界に飛んでしまっているようだった。やれやれ、とポーンは溜息を吐いた。


「こうなったランスは止められないな」

「ポーンさん!?」

「ユウ。俺と暮らす話は一旦白紙だ。しばらく、こいつと暮らしてやってくれ。悪い奴じゃ無いんだ……ちょっと、芸術馬鹿って言うか……」

「ユウ、お願いだ。君の絵を描かせておくれ!」

「っ!」


 両手をぎゅっとランスに握られ、優の心臓はまたせわしなく、ばくばくと高鳴り出す。


「わ、分かりました! 俺で良ければどうぞ、モデルにして下さい!」

「ああ……ありがとうユウ!」


 手を離されたかと思うと、次は固く抱きしめられた。優の心臓は悲鳴を上げている。


「おい、ランス。ユウが困ってる」

「ああ、ごめんよ? じゃあ、さっそくクロッキー帳を……」

「待て。今は夕飯の時間だろう? それにユウは世界を飛び越えてきたんだぜ? かなり疲れているはずだから、今日は休ませてやれよ」

「……そうだね。ごめん、僕、周りが見えなくなってしまって」

「いえ……」


 ようやく解放された優は、盛大に息を吐き出した。

 ――俺が、モデル……。

 優はまた鏡を見つめた。昔、まだ学校に通っていた頃に「女みたいな顔だ」と馬鹿にされたことはある。こんなにも情熱的に容姿を褒められたことなんか無かったので、とても照れ臭かった。


「俺、魅力ありますか?」


 小さく呟いた優の言葉は、ランスにしっかりと届いていた。彼は目を細めると、優しい口調で優に言った。


「とても魅力的だよ。君は僕が思い描いていた天使そのものだ」

「俺が、天使だなんて……」


 顔を赤らめる優の頭を、ランスはふわりと撫でた。


「これからよろしくね、ユウ」

「はい。よろしくお願いします」


 こうして、優とランスの生活が始まった。

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