5 2011年11月

 中学二年を終えた蘇芳は、春休みである三月にも胡桃と枩太郎から数日間勉強を教わり、やがて三年生になった。

 胡桃によって理数の基礎を徹底的に固められ、枩太郎によって国語の基礎と地歴の底上げが成されたことで、それらの知識地盤が蘇芳にきちんと出来上がった。

 やがて夏になり模試が増えてくると、そのことが如実に点数として反映されたので、中学三年の蘇芳はひとつの決断をする。


「俺、工業高校受けてみる」


 正直なところ、目指すと決めたその高校のランクはそこまで高くはない。平均よりも少し下回る偏差値で充分挑める高校である。蘇芳はようやく平均値で安定してきたところであり、夏までで取れた点数を受験まで保つことができれば、といった具合であった。

 胡桃は長期休みになると飛行機を利用し枩太郎の元へやって来ていたが、「卒業論文やらのやることが山積みになってて」と、中学三年の蘇芳と会えずに終わる。

 蘇芳の高校受験対策は、枩太郎とマンツーマンで非公式的に行われることとなった。



 一方。



 胡桃と『初対面』した冬休みを境に、蘇芳が校内で喧嘩を売り付けられることは徐々に減っていた。

 これまでは上級生から主に挑まれており、彼らが卒業してしまうと蘇芳に手合わせを願う者などほぼ居なくなった。年度が変わったことによるクラス替えや、最高学年となったこともあり、蘇芳を取り巻く人間関係がほんの少し変わった。

 喧嘩の件を知っていても普通に蘇芳と関わってくれるような友人がちらほら戻ったり、蘇芳の身体能力を見込んで今更ながら運動部に引き込もうとする仲間が増えたり。そうして周囲が賑やかになるにつれ、蘇芳は徐々に社会資料室へ入り浸る時間が減っていった。



       ◆



「蘇芳、合格おめでとう」

「あんがと。枩太郎先生と胡桃先生のお陰だ。マジで高校に入れてくれて、すんげぇ感謝してます」

「全て蘇芳の実力ですよ。キミがきちんと頑張ったから、結果がついてきたまでです」

「胡桃先生にも伝えといて」

「もちろん」


 二〇一〇年三月、蘇芳は中学校を卒業した。


「ごめんね、結局今年いっぱい胡桃来られなくて」

「しゃーねぇよ、ずっと大学院忙しいって言ってたんだし。胡桃先生の卒業式は明後日だっけ?」

「そうなんです。だから僕も夕方には空港に向かおうかなって」

「へぇ! 相変わらずお熱いこって。付き合って何年だよ、まったく」

「はは、ありがと」


 北国の春は、まだ桜が咲かない。


「気ィつけて向こう行けよ、先生。都会でぼーっとしてっと人波に呑まれるからな」

「ありがとう。あ、ねぇ蘇芳」

「ん?」

「高校に行っても、永遠にサヨナラではないですからね。僕らはもう、こんなにも近くに居られるんですから」

「ははっ! サンキュ、先生」

「僕は……僕たちは、いつもここにいます。いつでも恩人であるキミの力になりますよ、蘇芳」


 同年四月、蘇芳は希望していた工業高校へと進学した。



   ◆   ◆   ◆



 皆がそれぞれ戻るべき処へ、きちんと戻れますように。

 皆がそれぞれ逢いたい人と、きちんと会えますように──。



   ◆   ◆   ◆



 長く冷たい雨が降っていた晩秋のその夕刻、高校二年生の蘇芳は、いつもの道を通り下校中であった。地元の工場の煙突がデカデカと見えるその国道沿いは、こんな雨の日ですら嫌気がさすほどキラキラと光る。

(この鉄粉も雨に流されればいいのに)

 そうぼんやりと考えていた折、蘇芳の数歩先で黒猫が一匹ぐったりと倒れているところに遭遇した。

 国道を行くどんな車も、速度を上げて横を通り過ぎるばかりで停まる気配はない。歩いているのは天気のこともあり、後にも先にも蘇芳しか居なかった。

 初めは「猫の死骸か、縁起ワリーな」などとなるべく目に入れないよう努めていた蘇芳であったが、すれ違う間際に微かに呻くような苦しげな声を聴いてしまった。

「…………」

 蘇芳は義務感からピタリとその足を止めた。

 自らに差していた透明のビニル傘を黒猫へ差し掛け、しゃがみこみ覗く。ビクリビクリ、と手足を痙攣させているかに見えた。蘇芳は咄嗟に黒猫を抱え、その冷えきっていた身体を温め、なんとかやろうと走り出したその時であった。

「──ヌシを待っておったぞ」

 突然そうして黒猫はぱっちりと目を開け、蘇芳を見上げた。

「え──ん、あ」


 ザーッと長い雨音が耳に張り付いていた。


 意識がはっきりとしたままきちんと目を開けていた気がするのに、微睡みからじんわりと醒めたようなフワッとした心地に蘇芳の理解が置いていかれている。

 アスファルトに叩きつけられ跳ね返る雨粒は、比較的新しいスニーカーを容赦なく濡らし汚す。右肩には見知った鞄。傘から垂れる雨粒らによって一部が随分濡らされている。

 右手にしっかりと握られている白い取っ手、ビニル傘のそれを見て、蘇芳は瞼を伏せた。

「これを、何かに差してやろうと思って立ち止まった、ような気がする」

 蘇芳はそうフワリと思う。

 何かに──この足の先に何かがあって、それに向かった、ような気がする。

「んー」

 首を捻るも、全くわからない。眉を寄せども、雨が降っていることしかわならない。

「なんだっけ」

 鼻で吸った一息に、「ん?」とおかしな気配を覚る。

 傘を持っていない左手が触れたのは、自らの頬。そこについていたのは、自らの目から流れていた一筋の涙の痕。鼻の奥には涙の味が残っていた。

「は? なんでだ」

 右の頬も拭う。同じように涙の痕がある。

 降り続く雨の中、立ち竦む蘇芳。そして、両目から伝っていた涙。

「わけがわからん」

 もう一度首を捻り、蘇芳は歩み進む。

「……『誰かを、ずっと前から捜している気がする』」

 鉄粉でキラキラと汚れたこのアスファルトの上を、蘇芳は静かに歩み進む。

「つか、肩痛ぇー。どっかで怪我したっけかな、クソー」

 なぜか少しだけズキリと痛む左肩に、蘇芳はこれからしばらくハテナが止まらない。学ランの上から肩にふわりと掛けられた砥粉とのこ色の羽織に気が付くのは、家に着いてからとなる。

 蘇芳はキッと、右手方向に見える工場の煙突群を睨み付ける。

「待ってろよ、クソ工場ども。俺が鉄粉をこの道の上から失くしてやる」

 アスファルトに叩きつけられ跳ね返る雨粒を、やがて蹴り上げながらぐんぐんと進む。駆け行く先は、ひとまず自宅。

 ポケットから携帯を取り出し、進みながら電話をかける。

「あ、もしもし、枩太郎先生? 久し振り。……うん、元気。あのさぁ、俺、大学考えてるんだけど、どう思う?」

 進路相談はいつだって枩太郎へ行う。これは中学生の頃から変わらない。

「だよなぁ。なぁ、とりあえず今度会えねぇ? 点数とか成績表とか必要なら持ってくし……え、話? 先生も? 何だよもったいつけん……うん、わかった、うん、うん。んじゃ今度の土曜な。ウース」



       ◆



「ただいまー。母ちゃん、鞄とか雨で濡れたからタオルくれー」

 帰宅し、粗めの石が埋め込まれた玄関土間からそう叫ぶと、「はいはい」と言いながら母親が出てきた。

「おかえり、はいタオ──やだ、アンタ何それ。文化祭の衣装? 着たまま帰ってきたわけ? もー、汚れたら大変だから、洗濯に出すなら別で出してちょうだいね」

 かけられた言葉の意味がわからず、蘇芳は玄関先で靴を履いたまま立ち呆ける。ひとまず鞄を拭こうと肩からそれを下ろすと、自らの袖の色がおかしいことに気が付いた。

「あん?」

 まじまじと自らの格好を見た。

 なぜか少し薄汚れた羽織を着ている。それも、学ランの上からだ。

「なんだこれ。こんなん学校で着てねぇけど。つか文化祭とっくに終わってんだろーが」

 羽織を脱ぎ、目の前で広げてみる。襟元を目の前にかざし、まじまじと上から下まで眺める。

「柔道着、でもねぇ。浴衣、とも違う」

 首を捻るもやはりわからない。見覚えもあるような無いような、ハッキリとしない。

 不意にふわりと、羽織から薫った一筋の匂いに胸がドキリと揺さぶられた。

「『誰かを、ずっと前から捜している気がする』……?」

 慌ててその襟元に鼻を押し当てる。スウとひと嗅ぎしてみると、不思議な花の匂いがした。甘く、しかし爽やかな、ずっと前に嗅いだような、しかし初めて嗅ぐような。

 もう一度、今度はゆっくりと嗅いでみる。

 瞼の裏に、匂いのあるじの顔が見えるような気がする。それは深い寒色を纏っており、薄ぼんやりと人間の形になって見える。

 ゆっくりと目を開け、羽織から顔を離した。

「洗濯は……しちゃダメなやつだな、うん」

 ひとまず蘇芳は、羽織を玄関の端の方へ丁寧に置き、鞄の湿り気をざっと拭い取ると、ようやく靴を脱ぎ二階の自室へ向かった。もちろん、羽織を優しく抱えて。

 自室へ戻ると、真っ先にクローゼットの中の空いているハンガーへ羽織を引っ掛た。そこへ、四五リットルの透明ごみ袋を逆さまにし、ハンガーの首が通るだけの掌大よりも小さいくらいの穴を切り開け、それを羽織の上から被せて埃や外気から保護する。

「うし。これでひとまずはなんとかなる……と思う」

 羽織は、クローゼットの端の方へ引っ掛け保管することにした。『捜している誰か』に関する何かがわかるような気がする、と、直感のような何かが働いた。

 蘇芳はそのまま制服を脱いでいく。

 クローゼットの中に残してあった制服用ハンガーへ、学ランとスラックスを綺麗にシワを伸ばし引っ掛けるのは彼の常だ。部屋着のスウェットパンツに履き替えたところで、(そう言えば)と中着のロングTシャツを左半分捲り脱ぐ。

「ん?」

 鏡に映し見た肩に、小さな小さな傷痕があった。

 それは丸い痕で、表面的にはすっかり『治って』いるもののふとした拍子に奥の方がチクリと痛む。まるで関節が痛むかのような、しかし健康体の一七才男子にとってはほんの些細な痛みである。気にならないといえば気にならないような些細なもの。

「こんなの、朝はなかった」

 よく見ると左脇腹にも同様の傷痕があった。しかしいずれも『貫通』はしていないようで、背面に傷は無い。

 蘇芳はそっと肩の傷痕に触れる。

「なんか……」

 まるでそこに矢でも突き刺さったかのような痕だな、と想像した。

「…………」


 傷を見ていると、ぼんやりと声が響きはじめた。

 頭の中心に淡く響き、霞のように溶けて消える。消えたかと思えばまた淡く響くを繰り返している。


 「すぅ、しっかりせい、蘇芳」

 「すぅちゃん、死なないですぅちゃん」


 遠くから聴こえるが、近い場所からかけられているような。そんな必死のふたつの声色はなかなか止まない。


「──んなわけねぇか!」

 パッと明るく声を張り、ロングTシャツへ腕を通し直す。すると淡いふたつの声は、もう聴こえなくなった。

「あ、成績表探さねぇと。土曜に先生ンとこ持ってくんだった」

 誰一人として気が付かぬところで、蘇芳の肩や脇腹の傷は、淡く紫色に発光する。


 それは、いつかの魔法の名残──。



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