4 2008年12月

「枩太郎先生。俺、高校行くの諦めるよ」

「やや、それはどうして?」

「だってヤバい回数謹慎になってる。いい加減、内申のこと考えねぇとさぁ」

「まぁ、それもそうですね。キミは今、中学二年生を終えようとしてる。本格的にマズイ時期です」

「だろ? だから俺が行ける高校なんて……いや、そもそも喧嘩ばっかやってる俺に、先の道なんてもうねぇんだよ」

「またそうやって腐る。ダメです。『キミらしくもない』」

「ンなこと……」

「いいかい? 蘇芳は、誰かのためにどうにかしたいことを見つけて、それを高校の進路にするといいよ。その方が蘇芳はきっと、いい将来を迎えられます」

「将来より目先の進路だろ? それに困ってンじゃんか……」

「大丈夫、キミはちゃんと高校へ入学する。それに、まだ内申評価の全部が終わったわけじゃない。大事な時期だけど、取り返すなら今からです。まだイケます」

「そーかな」

「誰がなんと言おうと、キミは絶対に高校へ行くよ。これは既に『普遍の事実』なんだ」

「フヘンの……?」

「変わることのない、ってことです。地層や歴史と同じだよ。人々が積み重ねてきたものは、いつだって何よりの証拠です」

「……先生ってホント、妙に不思議なこと言うよな」

「そーかな。ハハハ」

「先生。それ、信じてみれるかな……俺」

「フフ、ひとつの手だと、先生は思います。蘇芳の気持ちが、いつだって蘇芳の未来を切り開くんだよ」



   ◆   ◆   ◆



 皆がそれぞれ戻るべき処へ、きちんと戻れますように。

 皆がそれぞれ逢いたい人と、きちんと会えますように──。



   ◆   ◆   ◆



 日本国内の北方地方には、冬休みが長い地域がある。蘇芳の住む地域は、二〇日前後の冬休みが設けられているが、代わりに夏休みも同等の長さである。

 その一般的には『長い』冬休みを利用し、蘇芳は枩太郎の自宅アパートに呼ばれた。冬休み初日の平日の朝一〇時のことである。

 何事であろうかと半ば緊張しつつ、中学校から程近いそこそこに新しい小さなアパートに足を向ける。豪華なエントランスなどがあるわけではない、吹きっさらしの玄関扉が横並びに三つずつ、縦に三つずつと、合計九戸が積み上がっている。

 一〇三号室の前に着き、そこのカメラ付きの黒いインターホンを押し、すると中からバタバタと耳障りな音を立てて玄関へ真っ直ぐ向かってくる気配を察知した。

(げ。部屋番間違えた?)

 改めて部屋番号を確認するも、枩太郎に直接伝えられた番号と何ら間違ってはいない。しかし、聴こえてくる足音が枩太郎のものでないことはハッキリとわかった。枩太郎がこんなに陽気な音を立てて『走る』なんて、とただ眉が寄る。

 バンっ、とものすごい勢いでドアが開いた。思わず肩をビグッと跳ね上げた蘇芳は、ドアを開けた人物に目を丸くする。

「あっ、ご、すんません、部屋、多分、間違えましたっ」

 しどろもどろになりながらも、蘇芳はそう口を開いた。なぜなら、中から出てきてドアを開けたのは枩太郎ではなく、栗色の髪の毛をふわりとさせた丸い瞳の女性であったためだ。

 一七〇センチになったばかりの蘇芳よりも背は低いためやや見上げている。ぽっかりと口を開け蘇芳を上から下まで舐めるように眺めていたかと思うと、彼女は次第にぐしゃ、と顔を歪ませた。

「わぁ、わあっ、わああーっ!」

 彼女はそうして黄色い声を上げ、ドアから手を離すと、蘇芳の首元に勢いよく抱き付いた。

「すぅちゃああんっ!」

「だあっ!」

 どさ、と蘇芳は体勢を後ろへ崩し、尻もちをついた。その上にそのままのし掛かる彼女は、グリグリグリと顔を蘇芳の肩口に押し当ててくる。

「すぅちゃんだっ、すぅちゃん、すぅちゃん! ふええん、すぅちゃん『久しぶり』ぃ!」

 一方的にそうされ、蘇芳はハテナが止まらない。

「ちょ、は? な、なん──」

 そうして抱き付かれているがゆえに、蘇芳の上半身にムニと大きく当たる女性特有の柔らかさに一気に意識が持っていかれる。すると簡単に激しく全身が硬直し、吹き出す冷や汗やら、目がかっ開いたままになるやらで勝手に一人でせわしなくなった。

 蘇芳が『そんなこと』とはいざ知らず、彼女は肩口から顔を離し、ずいっと顔を覗き見てきた。

「元気そうだねっ、すぅちゃん!」

 そう言った彼女は頬を染め、真ん丸の瞳をキラキラとさせている。

「あれっ、アンタ写真──」「くーるーみぃ」

 開け放たれている玄関ドアの向こう、つまり部屋の奥から低いそんな声がかけられる。ジロリと睨み下ろした枩太郎がいた。

「せ、枩太郎、先生」

「わっ、ほんとに『枩太郎先生』って言ってる」

「いい大人が、外で中学生男子に馬乗りになるんじゃない」

「え?」

 馬乗りになっている事実を今更になって認識したようで、彼女は慌てて蘇芳から飛び退いた。

「やっ、やだあーっほんとだ! ごめんねすぅちゃん!」

「べっ、別、に」

 尻の汚れをささっと手で払い、立ち上がる。枩太郎と視線を合わせると、枩太郎はようやくいつものように優しく微笑んだ。

「いらっしゃい。待ってましたよ」

「お、おう……」

「さあさあ、上がって上がってぇ!」

「胡桃の家やないよ」

「先生って方言出るんだな」

 玄関扉が閉まると、先にコートを脱ぎ内側を剥き出しにして畳む。そして丁寧に靴を脱ぐと、それの踵側を靴箱の方向へ向け揃えた。コートは邪魔にならないような端の方へ小さく置く。

「やだ、すぅちゃんほんとにお行儀いい」

「は?」

「ううん、何でもない!」

 にこにこと微笑まれる彼女の存在に蘇芳はずっとハテナが浮かんだままになっている。

 枩太郎と彼女に続き、蘇芳はそこまで広くはないリビングに通された。

「適当に座ってください、飲み物何が好き?」

 キッチンへ入った枩太郎が冷蔵庫内をまさぐりながら問う。適当に、と言われたものの、正方形のコタツの一辺にはご丁寧に座布団が敷かれていた。ここに座れってことだな、と蘇芳は勘良く察し、遠慮がちに座る。

「いや、別にいい」

「すぅちゃんは緑茶が好きだよねぇ。しかも玄米茶」

「あのさ、何なんスかさっきから勝手に。それ、俺のこと? 『すぅちゃん』ってやつ」

 蘇芳の対面にパッと座った彼女をジロリとひと睨みする。しかし、彼女はけろっとした態度で「ああ」と目を丸くした。

「そうだよねぇ、ちゃんと言わなくちゃ」

 きちんと座り直した彼女は、枩太郎のようにそっと優しく微笑んだ。

「あたしは胡桃。今ね、別の街の大学院に行きながら塾の講師やってるの」

「塾の、講師? センセーなの?」

「そうだよ、一応ね。ど? スゴい?」

「……何が?」

「ふふふっ、ううん、なんでもなぁい!」

 胡桃はくすくすと肩を震わせながらとても喜んでいるようであった。

「俺、蘇芳っス。枩太郎先生に、ちょっと世話ンなってます」

「うんうん。けど、喧嘩はほどほどにしてよね」

「何でそんなことまで知ってんだよ」

「胡桃、気持ちはわかるけど自重してや?」

 枩太郎が三人分のマグカップを持って、蘇芳の右隣の一辺に座った。各々にマグカップをひとつずつ差し出す。

「はぁーい、ごめんなさぁーい」

「蘇芳、彼女の言ったことはあんまり気にしないでね。ちょっと舞い上がってるだけなんです」

 いいけど、と蘇芳はマグカップを覗き込んだ。本当に緑茶が注がれてある。なぜか好みを知られていることに、蘇芳はただ眉を寄せていた。

「なぁ、先生。胡桃さんって、あの写真の人だろ?」

「うん。先生の彼女です」

「先生の彼女でーす!」

 そう言いながら二人は目配せをし、にまにまと桃色の雰囲気を醸し始めた。(こんな大人にはならないようにしよう)と、蘇芳は眺めながら密やかに思う。

「っそ。で? 先生の彼女自慢するためにわざわざ呼び出したのかよ?」

「あぁいえ、違います。そうじゃない」

 枩太郎はそうしてマグカップに口をつけた。柔らかくコーヒーの香りが漂う。

「冬休みのいい機会に、キミに特別講習をしようと思って」

「はあ? と、トクベツコーシュー?」

「そう。彼女と先生で」

「かっ、く、胡桃さん、も?」

 蘇芳がきょとんとすると、胡桃は酷く首を傾げた。

「うーん、なんかいまいち慣れないなぁ」

「は?」

「あたしのこと、くぅって呼んでよ」

 言いながら胡桃は、その脇に置いたトートバッグの中から数冊の冊子を取り出し、微笑んだ。所作の度に栗色の髪の毛がふわりと揺らぐ。

 蘇芳はわけもわからぬまま顎を引き、枩太郎へ「いいのかよ?」と視線を送った。

「胡桃がいいなら、僕は別に構いません」

「じ、じゃあ、く、『くぅさん』?」

「違う! 『くぅ』って呼んでっ」

「ええー……。く、『くぅ』?」

 耳を赤くし小声で呼びつつ、そろりと胡桃を見やる。胡桃は口を山なりに曲げてふるふると口を震わせた。

「ふええーん、すぅちゃあん! ううーっ、懐かしすぎぃ」

「あーもう、だから言うたやろ胡桃。泣いてしまうからやめときって」

「だってぇ、だってえ!」

 えぐえぐと顔を被う胡桃を見て、ハアと蘇芳は面倒そうに肩を竦めた。

「俺はどうすりゃいい」

「『くぅ』でいいよっ。けど勉強中は胡桃センセーね」

 そう言って顔を上げた胡桃は晴れやかに微笑んでいた。涙の痕はどこにもない。大人の女はわからないことばかりだ、と蘇芳は深く溜め息をついた。

「実はね、蘇芳。『この前のこと』を先生なりに力になれないかって、いろいろ考えてみたんです」

 この前のこと、と弱くなぞり呟くと、月頭に漏らした進路に関する弱音を思い出した。


 「枩太郎先生。俺、高校行くの諦めるよ」


(あれか……)

 蘇芳は、向けられている枩太郎のまなざしと胡桃の微笑みを見比べ、照れ隠しに小さく舌打ちをする。

「ふざけんな。何でもかんでも彼女だからってベラベラ喋んなよ」

 枩太郎はしかし首をゆっくりと振った。

「もちろん断片たりとも話してないです。というか、こういうことは絶対に他言しません。これは僕とキミとの信用問題だしね」

「んじゃ何なんだよ?」

「『僕の友人に受験対策をしてあげたいんだけど、理数系を手伝ってほしい』と、頼んだだけです」

 ね、と枩太郎は胡桃へ視線を送る。胡桃はひとつ頷き、蘇芳へ言葉を続ける。

「枩太郎は地歴とかの文系は得意なんだけど、理数がそこまでぱっとしないの。あたし今、塾で数学の講師やってるから、理数系ならあたしが手っ取り早いってわけ」

 どさ、とコタツの天板に、抱き締めていた冊子を並べた胡桃。綺麗に五教科とプラスアルファの科目が揃っている。かち合った目元が細く幸せそうに湾曲した。

「あたし、すぅちゃんの役に立ちたいの。今はこんなことくらいしか出来ないけど、絶対にすぅちゃんを後悔させない自信だけはあるよ」

 食い入るように見つめてくる胡桃。右側にはにこにこと相変わらずの笑みを浮かべている枩太郎。

 二人に挟まれると、蘇芳は観念するしかなかった。はぁ、と肩を竦め、眼球をくるりと一回りさせる。

「あーもう、わかったよ。高校行けるように、ちゃあんとベンキョーすりゃいいんだろ?」

「やる気になってくれた?!」

 ウキウキと胡桃は前のめりになる。するとこたつの天板に、サイズの大きな女性特有の肉塊がポヨンと乗るのを目にしてしまい、蘇芳は目のやり場に困り果てた。

 胡桃の身体は全体的に引き締まり、肉付きのいい印象ではない。しかしどうにも胸部だけはそうではないようで、なんという目に毒加減だろうかと枩太郎を半ば恨み羨み、そんな思春期の蘇芳である。

「や、おぅ、わ、わかった、わかりましたっ」

 首までを真っ赤に染め、やれやれと首を振る蘇芳。

「よしよし、エライエライ!」

「あ、ちょっとバカにしてんだろ」

「ただ褒めただけだもぉん!」

 言い切ってから、このやり取りすらも懐かしい、と胡桃は胸の奥がウズウズとした。

「さあ! 胡桃先生にかかれば、テストの点数ちゃあんと取れるようになるからね!」

 なかなか大きく出てくる胡桃へ、蘇芳は少しだけ口角を上げた。

「う、ハイ」

「蘇芳が得意な教科は何ですか? 今更ながら、こんな話したことないね」

 枩太郎が優しく問いかける。

「んー。ちょっとくらい点数取れるのは、地理とか歴史、かな」

 並べられた冊子に目を落としながら、蘇芳は口を尖らせてそう答えた。

 枩太郎は思わず目を丸くする。

「先生の授業のは、取れてるってことですか」

「取れてねぇかな? 他のよりマシだと思うんだけど」

「枩太郎が採点してるんでしょ? 大体いつもどのくらいなの?」

「んーまぁ、確かに、いつも八割は取ってくれとるけど」

 それが一番抜きん出ているなんて、と枩太郎は喜びで舞い上がっていた。口元がヘニャヘニャに歪むのを掌で被い隠す。

「枩太郎、嬉しいって。すぅちゃんが、どの先生の授業よりもちゃんと理解してくれてるってわかって」

 コソリと身を乗り出して告げられると、蘇芳もボッと首から赤く染めた。

「じゃあ、すぅちゃんが得意なのから今日はやろうよ。初日だしね」

「と、取れてんだから、もう良くね?」

「ダメ。八割は取れてるかもしれないけど、二割は取り零してるってことだよ。もったいないよ! せっかく得意なら全部取って点数に変えよう!」

 ぐいぐい、と胡桃は持ってきた社会科のテキストを開き、蘇芳へ向ける。

「これ書き込んでいいから、一緒にやってみよ。ちょっとでもわかんないことは何でも聞いて。プロフェッショナルがここに二人もいるんだから!」

「そうそう。僕たちは、キミへの協力は惜しみません」

 そうして頼もしく二人が微笑み、蘇芳を温かく包んだ。

「すぅちゃん。『今度は』あたしたちを頼って」

 胡桃はそうして首を傾げてにっこりと微笑んだ。

「あ、ただし学校でこの事は口外しないでください。贔屓だと思われて先生学校で肩身が狭くなるのは厳しいです」

「ブッ! 自分のためかよっ」

「もう、枩太郎は怖がりだなぁ」

 まるで歳の離れた兄姉のようだと、蘇芳はようやくきちんと二人へ口角を上げた。




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