3 2008年06月

 一四才の蘇芳は、まるで部活動であるかのように、放課後になると喧嘩に巻き込まれていた。人生で初めて殴り合いの喧嘩になり謹慎を食らってからというもの、毎日のように取っ替え引っ替え、懲りずに手合わせを申し出られる。

 もちろん本当に『申し出る』ような行儀の良いものではない。半ば拉致のように校舎内のどこかに連れ去られては、どうにか蘇芳が後込みするようそれぞれ汚い言葉を吹っ掛けてくる。よくもまぁそんなにバリエーションがあるものかと、蘇芳は三週間もすると「言葉の勉強」だと思うようになっていた。

「また喧嘩したんですか?」

「『した』んじゃねぇの、『吹っ掛けられた』の」

 喧嘩を終えた蘇芳は、いつも律儀に社会資料室へとやってくるようになった。枩太郎がその場に居ない時は、枩太郎がいつも座っている窓辺の小さな事務机に突っ伏し、大概は窓の外の野球部へ視線を向けている。

 この日は社会資料室の扉をガラッと開けると、既に枩太郎が事務机にて調べ物をしているところであった。そして、ボロボロの顔になった蘇芳へ「やぁ、派手にやりましたね」と目を丸くしたところであった。

 蘇芳は、中学校で唯一の居場所となってくれた枩太郎の傍にさえ居られれば、それだけで心から安心できた。

「『あの事』があってから、上級生に絡まれることが増えたんだね」

 喧嘩による怪我の手当ては、枩太郎がいつも率先して行う。この時口の端を切っていた蘇芳は、枩太郎によってそこへ絆創膏を貼られていた。その手は優しくて大きく、蘇芳は無意識の憧れを抱く。

 やれやれ、と肩を落し苦笑する枩太郎は、「終わりました」と救急箱の蓋を閉じた。

「なんかさぁ、仇討ちってよりチャレンジファイト的な? なんかそんなのにされてんだって、俺」

「それは困ったな。蘇芳が喧嘩馴れしてしまうのは、先生ちょっと心配です」

「いンだよ別に。負けねぇから」

「良くないよ」

 珍しく、枩太郎はキッとしたまなざしを蘇芳へ向けた。蘇芳はそれに圧倒され、思わずグッと息を呑む。

「あんまり大きい声では言えないけど、蘇芳は先生にとって特に大事な生徒……いや、『友人』みたいに思ってるんだから。キミが僕のことどうとも思ってなくたって、先生はキミに感謝こそしてるんです」

 やけにはっきりとそう言い切ってから、枩太郎はハッと瞬きを重ね、繕うように普段どおりの柔らかく優しい表情で微笑み直した。

「ややっ。これだけ聞かれると、なんか怪しい人みたいだね、ごめんなさい。そういう意味じゃないからね? 僕、恋人はいますから、女の人だし」

「知ってるよ。つーか、そんな風に写真飾ってたら、また教頭に怒られっぞ」

 ハハッと笑い飛ばす蘇芳は、事務机上の窓に近い所に立てられている写真に視線を向けた。

 優しい肌触りの木枠の写真立てで、そこに収められているのは枩太郎と一人の女性。色素の薄い栗色の髪の毛を顎のラインよりも下で切り揃え、やや内巻きのボブカットにしてある。センター分けの前髪は長めで、その合間から覗くくるりとした大粒の瞳が、利発そうな上、愛らしい。

 仲睦まじい枩太郎と彼女の二人の写真は、見ている側が満腹になるほどである。

「やあ、本当だ。危ない危ない! ははは」

 パタンとその小さな写真立てを倒し、枩太郎は照れ笑いを蘇芳へ向ける。逃れるように蘇芳は窓の外を眺め見た。

「いいかい、蘇芳」

「ん?」

 蘇芳はピクリと体を震わせ、野球部から枩太郎へ目を戻す。

 夕焼けに少し染まった枩太郎は、どこか懐かしい表情で微笑んでいた。

「どれだけ腹が立つ事をされたって、同じことをやり返していいってわけじゃない。やり返してスカッとするのは一瞬だけです。蘇芳はその一瞬の快感のために拳を突き出してるの?」

 蘇芳は静かに小さく首を振る。

「そうだよね。まぁけど、黙って殴られ続けなさいって言ってるわけじゃない。全力で自分を護ったり、友達を助けたいから前に出る蘇芳は何も間違ってないんだ。でも──」

 枩太郎はチラ、と蘇芳の右拳の赤黒くなり始めてる痣を見て続ける。

「──捩じ伏せてやろうとしてこっちから攻撃を仕掛けるのだけは、僕は間違いだと思ってる」

 まるで三〇分前の喧嘩を見ていたかのようにそう言った。蘇芳はついドキリとし、ばつが悪くなるなりシュンと俯く。

 自分から仕掛けた右の一発を思い出す。相手がちょっと怯んだ隙に、「死ね、クソ野郎!」という気持ちをこの一発に込めたはずだと、奥歯をギリギリさせていた。

 やがてヘナヘナと頭を項垂れる。

「俺にはまだ、ムズカシイわ」

「またまたァ。わかってるくせに」

 枩太郎はそうして椅子から立ち上がった。頼りなさ気に見上げる蘇芳のまなざしに、いつかの彼が繰り返しかけてくれた言葉を思い出す。


 ──大丈夫だ、大丈夫だから。


 今の自分と同じようにあの頃の蘇芳も不安だったのであろうか、と常々考えるようになった。不安にさせたくない、安心できる場所になってやりたいと、枩太郎はせめてもとずっと微笑みを絶やさない努力をしていた。

「さ、もう遅い。そろそろ帰りなさい」

「うん……」

「また明日、ここで待ってますね」

「う──ハイ」

 身支度を整え、枩太郎と蘇芳は並んで社会資料室を出る。声や足音が響く廊下は人気がすっかりない。

「ずっと訊こうと思ってたんだけどさ、あの写真の人が枩太郎先生の彼女で合ってる?」

「うん、そうだよ」

「ふぅん。ドーセーしてんの?」

「いえ、いわゆる遠距離恋愛中です。先生は一人寂しく学校の近くのアパート暮らしです」

「あぁ、だから写真飾ってんのか。彼女はどこにいんの?」

「都心の方です。今は大学院生」

「へぇ、頭いいんだな。付き合って長ぇの?」

「そうですねぇ。ここだけの話、彼女になってほしいと言えたのは、知り合ってから三年くらい経ってやっとだったかな」

「先生、やっぱ草食系なんだな」

「フフっ。まぁ当時の僕は腐ってましたから、彼女に申し出る勇気なんて持ってなかったんです」

 腐っていた、とゆっくりと声にならないようになぞる。

「でも不思議なものでね、腐ってる時に限ってハッとするような出来事ってのはなんとなぁく起こるものなんだよ。先生はその時に彼女の大切さに気が付いたし、生涯の恩人にも出逢いました」

 枩太郎が廊下のずっと先の方を眺める視線があまりにも切なげで、しかしやけに雄弁で、蘇芳は見てはいけないものを見てしまっている感覚に陥った。

「だから僕は、その恩人にしっかりと恩を返そうって決めたんです。今、こうしてまた出会えて、こんなに近くに居られるんだから」

 目を逸らさなければと思いつつも枩太郎のその視線に釘付けになる。やがて枩太郎が蘇芳を向くと、視線はバチッとかち合って、蘇芳は口元をあわあわとさせた。

「そ、そうなんだ。恩人の近くに居れるようになって、よかったな、先生」

 ぎこちなく笑う蘇芳は何の事なのかすらわからないであろう。そのうちに、口の端の傷を「イテ」と押さえ、苦い表情を浮かべた。

 これでいい、きっとこの先の高校生になった蘇芳が、この事をなんとなくわかればいいのだ。そう思いながら枩太郎は、優しく彼の背にポンポンと触れた。

「あのさ、先生」

 じっと、何かを決めたまなざしを枩太郎へ向ける蘇芳。枩太郎はほんの少し首を傾げて「ん?」と返す。

「信じてもらえないかもしんないけど、俺、いつも自分から手を出してるわけじゃないからね」

 枩太郎はじっと蘇芳の言葉を待つ。

「喧嘩吹っ掛けられるのは止まんねぇから、せめて次から俺は『いなそう』って思う」

「『いなす』……ですか」

「反撃とか殴りかかるのは『俺の攻撃』だから、俺が悪くなる。けど、かわしたり、いなしたりするなら俺は悪くならないよね? それなら俺は──」

 ゆらり、蘇芳の表情が不安に揺れている。

「──喧嘩したことに、ならないよね?」

 枩太郎はうんと頷くことも、大丈夫と同調することも出来なかった。不安そうな幼い蘇芳の表情が、ただただ頼りなく、きっちりと自分が護ってやらなければと枩太郎へ思わせた。

 枩太郎は、そっと微笑むことしか出来なかった。



   ◆   ◆   ◆



 皆がそれぞれ戻るべき処へ、きちんと戻れますように。

 皆がそれぞれ逢いたい人と、きちんと会えますように──。



   ◆   ◆   ◆



 六月末の放課後のこと。

 なかなか社会資料室に顔を出さない蘇芳を心配した枩太郎は、走り出したい気持ちを抑え、廊下を縦横無尽にしかしゆったりと歩き回っていた。時折「先生バイバーイ」などと生徒らから声がかかり、その都度柔らかく「気を付けて帰ってください」と微笑みを向ける。その間も耳は研ぎ澄まし、蘇芳の声や音が聴こえないかと捜していた。

 物置の裏、体育館の裏、開かない屋上までの暗い階段、用務員のおじさんが手入れをし続けている畑の方向。そうして校内を捜し尽くし、やがて春の空を仰いだ。

「どこやろか、蘇芳」

 呟いてみると、ふと中庭に人気が無い場所があることを思い出した。

 行ってみるかと枩太郎はそちらへ足を向ける。小走りになるその速度は、一般的な大人の足にすると『早歩き』に相応しい。顔面はどんどん真顔になっていき、なんと言葉をかけて彼らの殴り合いを止めに入ることが出来るのであろうか、と枩太郎はぐるぐる考えが廻り続ける。

 なかなか陽が入らない中庭の一角に辿り着くと、そこでぐったりと頭を垂れ下げ膝を立ててへたり込んでいる蘇芳を見つけた。周囲は踏み荒らされており、バチバチとやっていた後であることは明白であった。間に合わなかったか、と枩太郎は口の中を噛む。

「…………」

 湿った草を踏みしめて近付いてゆく。蘇芳はピクリとも動かなかったが、一歩一歩と詰まる距離を感じ、枩太郎へジリジリと背を向けた。

「派手にやられましたね」

 足を止め、やや距離を開けたまま枩太郎は肩を竦め立ち止まった。

 いつも着ている白衣のポケットに両手をそれぞれ突っ込み、蘇芳をじっと見下ろす。そのポケットの中では、ぎゅうと強く拳を作っていた。自らの力及ばなさをただ悔やんでいる。

「それなりにやり返した?」

 反応のない蘇芳へ加えて質問をする。

 蘇芳は一度枩太郎へ鋭いまなざしを向けたものの、ばつの悪そうに視線を泳がせ、結局ふいとまたそっぽを向いてしまった。

 蘇芳の頬や口元は血が滲み青痣になっている。両手の甲の第二関節の赤黒さは、防御や牽制に使ったものだと簡単にわかる。

 今回のやられ方はこれまでで一番酷い。枩太郎は自らのやるせなさからつい溜め息をひとつ溢した。

 蘇芳が今何を思い、何に苦しんでいるのか。枩太郎はボロボロの彼を目の前にしても、明確に理解できなかった。手当て以外に何をしてやれるのだろうと、ひたすら棒立ちになる。

 蘇芳は疲弊した身体をググと起こし、全身を引き摺るように枩太郎の左脇をすり抜けようとした。

「先生からも逃げるのか」

 頼って欲しくて、枩太郎はなぜか挑発的に口を開いてしまった。蘇芳は掠れた声で刺々しく返す。

「焚き付けてくんなよ。こんな状態の俺でも、先生より強ぇか──」

 枩太郎は、蘇芳の右腕を半ば捻り上げるようにして引っ張り上げ、顔をぐっと近付けた。

 不安そうな蘇芳の表情が先日のそれと重なる。しかしそれは一瞬で、酷く睨みつけるまなざしに切り替わった。

「ンだよ、離せよ」

「離さない。先生は質問した、『やり返したのか』?」

「だったら何だよっ」

 そうして蘇芳の大きな舌打ちが響き、枩太郎は目を細めた。

「これで俺によーやくガッカリしたろ?! 俺のことはもう放っ──」「辛かったな」

 枩太郎は、捻り上げた腕をゆっくりと下ろし、そっと離した。

「はァ?」

 目を丸くし、ポカンと口をだらしなく開けて、蘇芳は意外そうに枩太郎を改めて見上げる。

「キミは防御ばかりなのに、喰らう打撃はなかなか弱まらなかったんだろ。『いなす』ために出した拳の証拠がこの痣……あとこっちね」

 そうして指すのは蘇芳の前腕。学ランの長袖の下はいつも彼が防御に使う場所だ。

 痛かったろう、腹が立ったろう、やり返したかったのによく我慢したな──枩太郎は言葉をいくつか用意するも、震えて言えなさそうだと覚り全てを呑み込む。

「……何でだよ。どうしてアンタは俺に優しくすんだよっ」

 蘇芳は再びその場にズシャリとへたり込んだ。

「カンケーねぇじゃん、腐らしとけばいいじゃん! いつも俺に『恩がある』とか言うけど何のことなんだよ?! 恩ってのは『前にやってもらったことに対してアリガトって思うこと』だろーが、俺アンタに感謝されるようなこと、なんもしてねぇよ!」

 そう吐き出す蘇芳が、大正時代で腐っていた自らとよく重なった。


 ああ、蘇芳は本当に優しいヤツだ。

 返すのは、この時なんだ──。


 小刻みに震えている蘇芳の肩に、枩太郎の右掌がそっと置かれる。

「先生の説教なんてもう聞きたくないかもしれないけど、お待ちかね『今日のお小言』です」

 蘇芳はそろりと瞼を上げる。

 枩太郎は肩を貸し、力の入らない彼の体をどうにか起こした。蘇芳が慌てて擦り拭った目元に、枩太郎はふっと優しく微笑んだ。

「いいですか? 言いたいことは、ちゃんと自分の声と自分の言葉で確実に伝えないとダメです。確かに後悔するのも勉強かもしれない、でも後悔それは一回ですよ、たった一回。同じ後悔を繰り返すのはいただけない」

「後悔は、一回」

「そう。蘇芳はどうして攻撃をいなしてるの? 自分から手を出さないって決めたからだ。じゃあもう一歩前へ進もう。蘇芳はチャレンジファイトになっていることが不本意だ、そうですね?」

「うん……」

「ほら。キミはもう、彼らに『言いたいこと』がある」

「けど、何言ったって力で捩じ伏せてぇから、アイツらが俺の話なんて聞くとは思えねぇよ」

「それもいけない。相手の考えてることを正しく、なんてわかりません。だから顔突き合わせて眼を見て話をすることが、どんな時も大事なんだよ。話をして聞いてもらえなかったら、その時はまた別の策を考えましょう」

「別の、策?」




 これは全てキミが教えてくれたことですよ。

 優しく熱いキミが、僕に教えてくれたこと。

 泥沼の中で必死にもがく僕の腕をハシと捕まえて、力強く引き上げてくれたのはキミでした。


 だから、今度は僕の番。


 人は、どんな状況からだって絶対にやり直せる。

 キミは、そう教えてくれました。

 きっといつか、また折れても大丈夫なように。

 きっといつか、折れてしまった人に優しくなれるように。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます