2 2008年05月

 一四才の彼は帰り身支度を整え、学校の廊下を歩いていた。

 彼の通う中学校はそれなりに古い。校舎の廊下はコンクリートが寒々しい印象で、生徒の声や足音がよく響く。体育館側の階段は人気が無いが、仲の良い友人らはその辺りでたむろしていることが多いわけで、敢えて彼はそちらを通って帰ろうとした。「誰か居るかな」などと鼻歌をフンフンとしながら。

「なぁ? だからさぁ、ここは金で解決ってことでもいいんだよォ」

 聞き捨てならない文言が耳に入る。咄嗟に鼻歌と自らの足音を消し、ピタリと立ち止まると、声のする方へ神経を研ぎ澄ました。

 会話の内容から、彼と小学校時代から仲の良い友人が、上級生から威圧的に詰め寄られているらしいとわかる。どうやら身に覚えのない事柄のようで、友人は首を横に振り続けたり、否定の文言ばかりを繰り返している。

(確かあのセンパイ、ガタイも良かったし喧嘩っ早いとかって有名だよな)

 二対四の不利な状況のようだ。喧嘩などしたことがない彼が入っていったところで三対四、と全く形勢は変わらない。焼け石に水とはきっとこの事であろうと彼は眉を寄せ逡巡する。

 しかし。

 小学生の頃から仲の良かった気の良い友人なのだ、と彼は右手に拳を作る。


 黙って見てるだけか、それとも不利な状況だけど割って入って何かしら打破するか。

 そもそも、俺が打破できるとでも思ってんのか?

 ボッコボコにぶん殴られるかもしれないんだぞ。


 そんな考えを頭の中でぐるぐるとさせていたはずであったが、彼はいくつかの瞬きの後、はたと気が付くと上級生を目の前にし彼らを睨み付けていた。

「あァン? んだテメェ」

「う、うるせぇ、俺が誰だってどうでもいい。とりあえずコイツらの話聞けよ」

「あ? 誰に向かって口聞いてんだ。調子こいてんじゃあねぇぞ、ガキ!」

「イッコ上ってだけでそんなエライのかよ、クソセンパイ共よォ」

「一緒に殴られてぇのか? それともテメェが金払うっつーの?」

「コイツらは違うとか知らないとかってずぅーっと言ってんだろーが。人の話聞かねぇのがそんなエライのか?」

「ベラベラいつまでもお話してんじゃねぇぞ、コラァ!」

 グウン、と、それまで管を巻いていた一番体格のいい先輩が、握り拳を彼目掛けて突き出してきた。

(あ、ほらな。俺はやっぱり殴られる──)

 彼はしかしそう思い、自らの左頬に受けるであろうダメージを予測した。

(奥歯を噛み締めておかないと、口の中を切るって漫画に書いてあった。顎に『入る』と頭がグラングラン揺れて、目の前が白くチカチカするらしいこともなんかのアニメで見た。こういうときに、クソつえぇ誰かが桁違いの何かしらで、みんなを無傷のまま助けてくれるんだよ。そういうお決まりの展開、期待するよなぁ)

「ぶぐうア!」

 不細工極まりないこの声を上げたのは、彼ではない。

「えっ」

 目の前の、体格のいい先輩であった。

 たまたま『防御のつもりで』突き出した左拳が、その先輩の腹に入ってしまった。決して強くも何ともない、実に情けない一打であるのに、ズムリと刺さるはミゾオチのど真ん中。

 本当にたまたまの事象。なにも彼が意図してやったわけではない。

 彼の左拳をその腹に受けた先輩は、ズシャリと膝を折り腹を抱えて苦悶を浮かべる。

「ゴファッ! カッ、カァあっ痛ぇえっ」

 そうして先輩がダメージを受ける姿を見て、取り巻いていた三人は掌を返したように蒼褪め後退る。

「ぐっ……そ、があアアッ!」

 膝を折っていた先輩がズン、ズンと立ち上がり、もう一度向かってきた。顔を真っ赤に憤慨し、周りが見えていないことは誰の目にも明らかであった。

 それを見て彼は、一瞬にして頭が冷静になり冴え渡る。

 先輩が撃ってくる打撃の軌道が全て見えた。避けることも、いなすことも簡単。なんならカウンターにだって出来てしまった。



       ◆



「で。どうして暴行沙汰になんかなったんですかっ」

 結果として、教員からしこたま怒られたのは彼であった。

「俺が先に手ェ出したんじゃねぇ、デス」

「でも現に負傷してるのは三年生たちなんだから」

 校内で暴力事件を起こすなんて、と彼はそうして酷く責め立てられた。彼が述べる反論意見など、少しも聞き入れてはもらえなかった。

「だって、友達がカツアゲされてたんだ! 俺はただそれを止めに入っただけで……助けただけだって!」

「でも、現場に居たのは三年生たちとキミだけだったじゃないかね」

「えっ」

 言われて初めて気が付いた。

 確かに職員室に並ばされていたのは彼を含む五人のみ。もともと被害に合っていた彼の友人二人は、いつの間にか姿を眩ませていた。


 翌日から、彼だけが三日間の自宅謹慎となった。

 そして謹慎が明けると、助けた友人は口を利いてくれなくなっていた。


 あんなに仲が良かったのに。

 あんなに俺が頑張ったのに。



       ◆



「──見つけました」

 謹慎が明けたその初日。

 教室でのあらゆる時間が苦痛すぎた彼は、給食を済ませたこともあり、今日はもう帰ってしまおうかと、ぎゅっと眉を寄せていた。椅子の背もたれに寄りかかった背をずり下げだらしなく座るのは、虚勢を張るためだ。

 そこへ、ふらりと現れた教員が一人。彼の教室の後ろ戸から、のたりのたりと蘇芳へ真っ直ぐ近付いてくる。

「蘇芳、くん、ですね?」

「あ?」

 彼は教員を睨み付けるように見上げた。

 教員は、薄汚れた白衣を緩く羽織り、中には緩いポロシャツと黒いスラックスを着ている。一七九・一センチの高身長、しかしひょろひょろと線が細く、ずっしり感はあまりない。蘇芳のひと睨みの効果はまるで感じられなかった。

「居てくれて良かった。ちょっと先生のお手伝いをお願いします」

 そう言って、その教員はにんまりと笑った。

「は、はァ?」

 ハテナを浮かべる彼の返答も聞かぬまま、半ば強引に彼の右腕を引っ張り、教室から出てい。掴んだ手は、連れ込まれた『社会資料室』に入るまで放してはもらえなかった。

「んだよ、いってぇなぁっ。いつまでも引っ張ってんじゃねぇよ」

 資料室の戸が閉められると同時に、彼はブンと掴まれていた手を振りほどく。

「やぁ、ごめんなさい。どうしても逃がしたくなくって」

 フフ、とそうして優しく微笑むのは、この春から赴任してきた社会科の教員。大学を卒業したての二三才だと、四月の初めの社会科の授業で言っていた。

 名前を枩太郎しょうたろうといって、常になぜか、なんとも嬉しそうな表情をしている。社会科の教員である彼にとって、白衣など本来何の意味も成さないのだが、やけに気に入っているらしくほぼ毎日それを羽織っている。

「んだよ、アンタまで俺に『あの事』でセッキョウたれるつもり?」

「まさか。僕は『あの事』についてとやかく言うつもりは毛頭ないです。だって──」

 枩太郎は資料室の奥の窓をカラカラ、と開ける。フワリと春風が資料室に入り込んだ。

「──蘇芳は友達を助けたんだ。ですよね?」

 入り込んだ春風は、柔らかく優しく枩太郎のふわふわの茶色い猫っ毛を揺らす。そのまま白衣の裾をはためかせ、その先の彼──蘇芳へも風は柔らかく向かってゆく。

「なん……」

 まるで目の前の霞がパアと晴れるようであった。『そんな事』、どれだけ本人が説明しようとも、誰も信じてはくれなかった。誰も蘇芳へ言わなかった言葉を、何も説明していない枩太郎は『わかって』くれた。

「あん時、見てたのかよ?」

「ううん、そうじゃない。あの日は職員会議があったから、教職員は誰も現場を見てないです。だけど、キミが好き好んで理由もなく他人を殴ったりするわけない。僕にはよくわかる」

 不思議なことを言う人だなと、蘇芳は眉を潜める。

 一方で枩太郎は、心の奥でこの再会を震えるほど喜んでいた。

 学校内に蘇芳が居ることは、初めての授業で各クラスを巡った時に既にわかっていた。それも、初めての赴任先で早速の再会となり、ウズウズしていたことは否めない。

 蘇芳はそれなりに真剣に授業を聞いてくれる二年生の一人であったけれど、直接的に話をすることはほぼなかった。廊下や教室で友人らと楽しそうに話す姿を目撃したり、「じゃあなセンセ」と帰り際に声をかけられるような、他の生徒と同じ上辺の関わりが緩く続いていた。

 蘇芳が孤立してしまったこの状況で、今度は自分が状況打破の鍵になる──枩太郎は、大正時代で『高校生の蘇芳』がくれた熱意や優しいまなざしを、『中学生の蘇芳』に返したいと心に決めた。力になれることならば何でもやろう、と強く思っていたわけだ。

 だから今回、蘇芳だけが謹慎になったと聞くや否や、教頭に強く謹慎の取り下げを申し訴えた。しかし、何だかんだと煙に巻かれ、枩太郎の意見は揉み消されてしまった。

「ごめんね。先生にもうちょっと威厳とか説得力があれば、キミだけを謹慎させたりなんかしないで済んだのに」

 窓辺からゆっくりと歩み寄り、蘇芳の目の前に立つ。大正時代の時とはぐんと差のついてしまった身長差を切なく想った。

 枩太郎自身もあれからじわじわと身長は伸びた。逆に蘇芳はあの頃よりも『若い』ため中学生らしい身長である。

 彼のギラついた目付きも、年相応の青々しさも、全て『高校生の蘇芳』とは違う未だ粗削りなものであるのに、無性に懐かしいと感じてしまう。

「もういいよ。結局余計なことすんのが悪いんだって、わかったから」

 そうしてふて腐れて口を尖らせる蘇芳へ、枩太郎は笑顔を向けつつ肩をポンポンと叩いた。

「そんな風に腐らないで。蘇芳は勇気ある事をしたなって、先生は思いましたよ」

「先生だけがそう思ったって、結局何にもならなかったじゃん」

「うん、そうなんだよ。だからごめん。先生が新任なんかじゃなかったら、なんて、実はずっと考えてました。本当にごめんね」

「先生が謝ったって──っぐ」

 そうして言葉が詰まり、蘇芳は枩太郎に背を向けて静かに泣いた。その背に枩太郎はそっと声をかける。

「ねぇ蘇芳。これは別に変な同情心で言ってるんじゃないんだ。そこは勘違いしないでほしいんだけど──」

 後ろを向いたまま、蘇芳は枩太郎の声に神経を集中させる。

「僕はもういつでもここにいる。今度は『僕ら』がキミを助ける番だ。だからね、蘇芳が困ったときは、いつでもここにおいで」

 しばらくの後に、蘇芳は小さくひとつ頷いた。

「あ、でも、先生の授業はちゃんと受けてください。教室にキミが居ないのに教壇に立つのは、先生寂しいです」

 おどけたその一言に、蘇芳は半身を振り返った。

「……あのさ、アンガト。しょ、枩太郎先生」

 そうして赤く染まる蘇芳の耳に、「あぁやっぱり彼なんだな」と枩太郎はもう少しだけ微笑んだ。



   ◆   ◆   ◆



 皆がそれぞれ戻るべき処へ、きちんと戻れますように。

 皆がそれぞれ逢いたい人と、きちんと会えますように──。



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