狭間

真の役割

 押し開けたノブから手が外れると、一呼吸置いた後に『ドア』は背後でバタンと閉まった。

 振り返り見た『ドア』は、やはり音もなく下から上へと、まるでシュレッダーにかけた重要書類のように霧散した。蘇芳は眉尻を下げ静かに肩を竦めた。


 そこは『狭間』世界。ただ闇のみが広がる空間である。

 前も後ろも左も右も奥行きすらもわからない。やはり自身の身体だけは薄ぼんやりと光って見えている。


 足元、胴体、そして腕へ視線をゆっくりと移していくと、蘇芳の衣服はよく見慣れたものへ戻っていた。

 汚れが目立つようになってきた白いスニーカー、光に当たるとやや赤く見える黒い学ラン、中に真っ赤な無地のロングTシャツ……すべて蘇芳の物である。学ランの上からは、撫子と交換した砥粉とのこ色の羽織を着ていた。ちゃんとあるな、と肩口を掴む。

 三日間だけ着ていた濃紺色の野良着は、既に見る影もない。

「すぅ」

 すぐに声がかかった。夜さまの声だ、とそちらを振り返る。

 肩に乗せていたはずの夜さまは、いつの間にか数メートル先に降り立ち、歩み寄ってきている。

「夜さま」

 蘇芳も歩み寄り、適度な間隔まで詰めるとそこへ腰を下ろし、夜さまと高さを合わせる。

「まこと大義じゃった。正大を戻してくれて、ありがとう」

「俺はなんもしてねぇよ」

「ヌシはいつもそれじゃ。そうしていつだって謙遜する」

 くしゃ、と夜さまが泣きそうな笑みを向ける。蘇芳はグリグリグリと夜さまの頭を撫でる。

「んーん、謙遜じゃない。枩太郎先生には中学のときに出逢ってるから……絶対元の時代に戻るって確証があったから。何より、もうくぅを泣かせたくなかった。サニーの決断、無駄にしたくなかったんだ」

「……ありがとう」

 手を放すと、夜さまは幼い少女の笑みで蘇芳へ向いていた。猫でない夜さまには、恐らく未来でしか会えないのであろう、と蘇芳はそっと思う。

 ボウ、と夜さまのその奥で淡い光が揺らめいている。

「夜さま、あれ」

「くぅと正大やもしれん」

「うん。行こう」



       ◆



 くぅを抱えた正大は、『ドア』の閉まる音と同時に蘇芳の背中を見失った。抱えていたくぅがそのまま腕に収まっている事実だけが、正大へこの上ない安心感を与える。

 立ち止まり、背後で『ドア』の閉まる音が聴こえると、きつくきつく彼女の身体を抱き締めた。鼻先に当たる彼女の髪も、首に回る腕の細さも、柔らかな温度も、失くした記憶のどこかでいつも求めていたものであったと気が付く。

「正、大さ、ん、苦じ……」

「あ、ごめんっ」

 そっとくぅを抱き締める腕を緩め、地に下ろす。

 くぅはアイボリーのセーターをワンピース様に着、つつじ色とたんぽぽ色のボーダー柄靴下と、その先端には真っ赤なエナメルの靴を着用していた。

 くぅが仰ぎ見る正大も、ザリザリの三分刈り頭ではなくなっていた。まるでパーマをかけているような茶色い猫っ毛に、優しく下がる目尻の、よく見知った『枩太郎』に戻っていたのである。

 ファー付きでカジュアルな黒いダウンコートを着、白と常磐色渋い緑の幅広ボーダー柄のポロシャツと、浅い色のゆったりとしたデニムパンツを穿いている。

 上から下までを舐めるように眺めたくぅは、目を口をまあるく開けて驚いていた。

「そのポロ、あたしがあげたやつ?」

「そう。真夏のオレの誕生日に袖長いのくれるから、くる──くぅちゃん、頭おかしなったんかと思ったん」

「あっ、あたしは、枩っ、ま、正大さんが秋になっても全然着てくれないから、め、迷惑になったのかと、思ってた」

 頬をカァッと赤らめ俯く。

「はは、違うよ」

 その彼女の仕種に、ギュウと心の真ん中をつねられた心地になる。とてつもなく懐かしく、いつでも手の届く範囲に置いておきたいと焦がれていた、愛おしいはにかみ方。

「もったいなくて着られなかったんだ。キミがくれたものだったから」

 しゃがみ、視線を合わせてくる正大からくぅは更に顔を背ける。

「毎年、いろんなのあげてたけど、他のは?」

「うん、だから白状すると全部キレイに取ってある」

「ええっ?! あ、もしかしてっ、だから食べ物じゃない方がいいって言ったの?」

「オレ、そんなこと言うた?」

「言った!」

「そやっけ」

 もう、とむくれるくぅへ、正大はぐにゃんぐにゃんの表情がバレてしまわないように口元を右掌で覆う。

「にしても。ちぃちゃいキミがもっとちぃちゃくなってそんな風に話してたら、ダメやわ」

「なにが」

「子猫やなくて、子犬みたいやもん」

「は、はァ? 意味わかんないっ」

「まだかわいなるんかーって、言いたかっただけやよ」

「なっ、へ……ばっ」

「大変オ楽シミノトコロ失礼シマス」

 低くそう声がして、正大とくぅはぎょっとそちらを向いた。

 目を細くしジトーっと二人を見つめる蘇芳が、右肩に夜さまを乗せて立っていた。

「す、すぅちゃんっ!」

「蘇芳、夜さま」

 ホッと二人同時に安堵に胸を撫で下ろす。蘇芳はぎゅっと眉間を狭めた。

「んだよ、帰るって決まった途端にイっチャイっチャしやがって。見せつけてくんなよなぁー。こちとらオアズケくらってんのによ」

「し、してないっ!」

「ちっ、違うっ」

「…………」

 二人の息がピッタリであることが、蘇芳の胸に羞恥心だけを残した。嫉妬すら覚えるほどのそれに向けて、わざわざ大きな溜め息を吐く。

「まぁよかったな、くぅ。ちゃんと本物、見つかったろ?」

 優しくふわりと微笑む蘇芳に、くぅはガクンと頷きその瞳を潤ませた。

「ありがと、すぅちゃん」

「二人共。どれだけ会話を重ねても良いが、未だ『仮の名』で呼び合わんとならんぞ」

「う、うん」

「はい」

 夜さまはヒョイと蘇芳の肩から飛び下り、夜さまを囲うように三人は順に腰を下ろしていった。

「ひとまず、ここはどこ?」

 静かに正大が問うと、夜さまは真っ直ぐに答える。

「『ドア』と『ドア』の境の世界じゃ。『狭間』と呼んでおる」

「夜さまの魔法空間だよ」

 くぅの補足に、正大は何か考えを巡らせていた。『魔法』についてわかんねぇんだろうな、と蘇芳は苦く自らの過去を思い出す。

「正大、そしてくぅ。これまで儂の身勝手の巻き沿いにしてしまったこと、改めて謝罪させてくれ。まことに、まことに申し訳なかった」

 夜さまは、黒く小さな鶏卵のような頭をかくんと俯き垂れ下げ続けた。

「やだ、夜さま。頭上げてよ」

「ならん。どれだけ詫びようと、足りんくらいじゃ」

 くぅは夜さまへ身を乗り出すが、夜さまはピシャリと言い切り微動だにしない。

 くぅと正大は顔を見合わせ、目配せのみで確認し合う。

「ねぇ夜さま、さっきも言ったけど訊きたいことが沢山あるんだ。話してもらえる? 手短にで構わない」

 夜さまはようやくゆっくりと頭を上げた。

「捕捉してもらいたいところは、後でくぅちゃんに訊けるんだよね?」

「…………」

 じっと口を噤んだままの夜さまに穴が開くのではと思えるほど、正大は夜さまを見つめ続ける。威圧感はないが、『枩太郎』のその視線は蘇芳が苦手とする、何事も見透さんとするまなざしである。

「──あぁ」

 吸った一呼吸をそうして吐ききると、ポツリ、ポツリと夜さまは事の顛末を紡ぎ始めた。



 夜さまに、大切な幼馴染がいること。

 『ドアの鍵』に願いを込めて、老いた蘇芳に埋めたこと。

 母親が亡くなって、代わりに夜さまが得たものがあったこと。

 『ドア』の向こうへ、その幼馴染を飛ばしてしまったこと。

 『代償』として自らの沢山のものと引き換えに、幼馴染を捜しに向かったこと。

 その道中で、二人に出逢い、結果的に巻き込んでしまったこと──。



 いずれも簡単にではあったものの、正大は顛末をかなりすんなりと呑み込んだ。もともとの理解力や察する能力の高さから、言葉は多く要らなかったようで、夜さまが説明し終わるなり瞼を伏せ、「そうやったんか」と小さく何度も頷いていた。

「だから夜さまはあの時、『あれ』を『ドアの鍵』だと思って持ってったんか」

 顎に手をやり納得している正大へ、夜さまは再び「すまん」と頭を下げた。

「ううん、ホントのことがわかればもういいんよ」

 しかし、そこでも蘇芳と枩太郎の『接点』は明らかにされずに終わる。更に先の事なのか、と正大は勘ぐり、チラリと蘇芳に視線を向ける。

「すぅがらなんだら、全て成されなかったことじゃ」

 優しく微笑む夜さまへ、正大も深く相槌を返す。

「だっ、だから違うって。『鍵』の能力だろ」

 蘇芳はくしゃ、と赤茶けた前髪を掻き上げる。半分照れも入ってた。

「で、夜さま。次はどうなる?」

 慌てるように話題を変えるも、蘇芳は目を据え、夜さまへ向き直った。

「そうじゃの……」

 夜さまは三人を順にゆっくりと見回し、言葉を続ける。

「まずは二人を元の時代へ帰し、それからすぅを元の時代に帰さねばならん。儂も、最後に『サニー』を迎えに行ってやらねばな」

 「帰る」ということがこんなにも突然近くなった。呆気なさすら感じてしまうものの、よくよく考えてみると全ての月日は一ヶ月にも満たない。

「いつの間にか、自分が元の時代に帰ることなんて忘れてた」

「すぅちゃん、全然帰りたがらなくなったよね」

「くぅと夜さまの役に立つためにーとか、なんかいろいろ考えてたら忘れてた」

 ハハッと笑い飛ばすと、先々で出逢ってきた人々の姿を順に思い出した。数多の想いが蘇芳の胸の内を何周もする。

 良い想いも、悔恨も、落胆も、悲愴も感嘆もたくさんあった。他人のために感情がこんなにも熱くなることなど、蘇芳自身が知らなかった自らの特質であった。しかしその片鱗はずっと昔にあったわけだ。中学生の、あの友人を救わんとしたあの拳一発。枩太郎先生との、出逢いのきっかけの拳。

 あれがなければラグエルでも殺られていたであろう。あれがなければ、米問屋の白木しらきや反物屋のこんの手伝いなど出来ていたかも怪しい。

 そうして想い馳せ、最後に残ったのは撫子の後ろ姿。


 あのつややかな長い黒髪。

 振り返ったときの桃色に咲くような表情。

 夜さまがいつの間にか施してくれていた『魂のリンク』──。


 ふと、そこまでを思い出したところで、蘇芳は伏せていた瞼を持ち上げた。

「待って夜さま。順番おかしくねぇ?」

 一同は蘇芳に視線を向ける。

「『鍵』持ってんのは俺だ、この奥に埋まってるって話だろ? でも夜さまがサニーを捜しに行けんのは、俺が帰った後だ。『鍵』持ったまま別れることんなんね?」

 くぅがサッと真顔になる。夜さまは蘇芳の真っ直ぐな視線から逃れようと瞼を伏せる。

「そうだよ、あれ? すぅちゃんが『鍵』持ってるなら、このままだと夜さまはサニーに会うまで、またどれだけの『ドア』を潜らなきゃならないの?」

「夜さまが『代償』にした記憶は全部戻ってんだよな? じゃあまた『代償』にして、一個ずつ失くしてって……それじゃあなんも変わってねぇじゃん!」

 蘇芳がぐっと夜さまへ詰め寄る。夜さまは微動だにしない。

「サニーに言われたんだよね? 『代償』にした物はそう何度も使えない、って」

 夜さまの記憶は、『代償』としての価値が初期の半分よりも少ない。最初の『ドア』で『代償』にしたものよりも更に多くの物を『代償』にしなければ、サニーには辿り着けないことを示していた。

 つまり、今後『ドア』を潜り続けるには、夜さまが夜さまであることすらも『代償』にしなければならないということである。そうなれば、進む度に正気を保てず恐らく魔法も扱えない、感情も記憶も何も持たない肉人形になり果てる、ということであった。


 『狭間』で『そうして』永久にさ迷う──。


 (こういうことかよ!)と蘇芳は冷や汗を滲ませ舌打ちが漏れた。

「アンタ何考えてんだ! 俺たちが元に戻れればいいだけじゃ意味ないってのがまだわかってねぇのか?!」

「案ずるな。儂はもう自らを『代償』にはできんし、端からするつもりは毛頭ない」

 噛みつかんと詰め寄る蘇芳へ、夜さまはトンと伏せていた瞼を上げた。

「…………」

 アメジストのような二つの大きな瞳。最初の『狭間』で逢ったときのそれは薄い薄い透明度の高い紫色。魔法や記憶が戻るに連れて、その色はぐんぐんと濃くなった。

 今の夜さまの瞳は、透明度の低い黒に近い紫色をしている。宇宙の果てに一滴垂らされた光が反射し、ようやく見えた色であるかのような濃く深い紫色。

「すぅよ、すまん。謝るなと言うてくれたが敢えて謝辞を述べる」

「何」

「幼き儂の気遣いが、まさかヌシを苦しみへ落としてしまうなど考えもせん事象じゃった。だからこそあの時『魂のリンク』を行ったんじゃ」

 「いや、何の話だよ」と出かかったところでピシャリと遮られる。

「ヌシの中の『鍵』を、これからは儂が使う」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます