枩太郎 10

 二人の間に置かれた脚付きの行灯あんどんが、仄かにその手元や顎下を照らす。行灯には半紙様の薄い紙が長方形に四面分貼ってあるが、油の火はチロチロと、まるで風に揺れるかのごとく絶えず揺らめく。正大の部屋は四畳半の小さな部屋で、行灯の灯りはしかしその隅まで届かない。

 訝しげにした正大は、訪ねてきた蘇芳を部屋へ入れると、既に敷いてあった厚みのない布団の上にアグラをかいた。それも崩したアグラではなく、まるで左右対称にでもなっているかのような整いすぎたそれである。

「手短に済む話?」

「手短に『済ましたい』話だ」

 正大の対面の畳上に雑なアグラで腰を下ろすと、蘇芳は中学生の頃とは立場が逆転しているような不思議な感覚に陥った。あの頃、話があるのはいつも先生の枩太郎で、それを蘇芳は面倒そうに睨み付けていた。

 隙間風のようなピューと鳴り続ける風の音に急き立てられ、蘇芳はようやく口を開く。

「忘れてた記憶、ちょっとくらい思い出したんだろ? どこまで思い出せたか教えてほしい」

「それを教えて、キミになんの利がある?」

「またそれか。言ったろ、俺は利があるかないかで物事判断してねぇの。あくまでも『みんなが前に進むために』訊いてんだ」

 正大はぐ、と口を噤んだ。

「親方から聞いた。アンタが『誰かを待たせてる』こと、『行かなきゃなんねぇとこがある』こと、『誰かと約束してた』こと。それらを思い出してぇって苦しんでたこと」

 そうして左手の人差し指から順番に中指と薬指が立つ様を、正大はじっと睨んでいた。やがて正大は顔を行灯へ向ける。

「…………」

「まず夜さまのこと、思い出したんだろ?」

 怒った口調にならないよう細心の注意をはらいながら、蘇芳は正大へ静かに問う。しかしうんともすんとも言わない正大の表情の意味がわからず、そっと首を傾げる。

「正大さ──」「ああっ、思い出したよっ」

 投げやりのようなやや苛立ちを含ませた一声に、蘇芳はきゅ、と眉間を詰めた。

「夜さまが野良猫たちに手酷くやられてたから助けたことも。夜さまがガリガリに痩せて虫の息だったから、放っておけなくてウチで保護してたことも。あの頃が冬だってことも、オレは一人暮らしだったってことも、ほとんど夜さまに関することは思い出した」

 揺らめく灯火が正大の苦悶の表情を露にする。蘇芳は努めて冷静な態度を保つ。

「じゃあ、その夜さまがアンタに何したか思い出した?」

 トン、と正大の伏せていた目線が蘇芳に移る。

「オレの……オレが大事にしてた何かを、咥えてたんだ。金色の、何か」

 辿々しいその言い方が、未だ明確には思い出せていないことを窺わせた。ひとまずはそれでいいと、蘇芳はひとつ頷く。

「そっか、充分わかった」

「え」

 正大はハテナを浮かべてやや身を乗り出す。蘇芳は声を低く続けた。

「んじゃ、くぅのことは?」

「くぅ、ちゃん……」

 まるでこの行灯の灯火のような、吹いて消えそうなほど弱い正大の声。

 蘇芳は正大から目を離さない。その唇が微かに震えていることも、握っていた掌を膝で拭った瞬間までしっかりと目に焼き付ける。

「彼女のことがとても大事なんだってことを、一番よく思い出したよ。何度も何度も彼女を夢に視たし、何度も何度も夢に出てくる。夢のオレはいつも彼女と一緒にいるから、それだけ一緒に過ごした時間が深いんだろうって。『そのことは』思い出せた」

 含みのある言い方に蘇芳の眉は寄っていく。思わず右手で顎を触る。

(この言い方的に、丸一日で八割程度思い出した、ってとこか)

 恐らく、くぅのことは『枩太郎が代償にした記憶』の根幹に繋がっており、つまりまだ記憶回帰途中なのかもしれない──蘇芳はそう仮説を浮かべる。

 一度瞼を伏せ顎にやった手を離し、正大を真っ直ぐに見つめギュ、と口角を上げた。

「わかった、そこまでわかりゃいいんだ。俺の話は終わりだ、サン──あんがと」

 蘇芳はそうしてアグラを崩し、立ち上がる。

(マサヒロの記憶回帰、多分かなりはえぇ。くぅと夜さまのより桁違いのペースだ。それ考えたらきっと朝には……)

 この夜を夢見で明かすとなれば、ほぼ完全に枩太郎の記憶が戻るかもしれない──頬がゾワゾワと鳥肌で波打った後に入ってきた襖へ向くと、行灯の灯火がぐらりと揺れたのが目に映った。

「待ってくれっ。オレもやっぱり、昨日助けてもらったときの話の続きがしたいっ」

 え、と振り返ると、正大が膝立ちに不安そうなまなざしを向けていた。

 一五〇〇年代で、きっと自分もこんな顔を夜さまへ向けていたのであろう──そんな考えが、蘇芳の胸中を掠って泡のように消える。

「続き?」

「ずっとわからないんだ。気を失って寝て起きたら、いろんな記憶がこうして戻ったけど、そこのどこにもやっぱりキミは居ない」

 まぁそりゃな、と蘇芳は肩を竦める。しかし説明のしようがない。夜さまの言葉を借りるならば「未来が変わってしまう」事象に当てはまらないとも言い難い。

 正大は震える声で問いかける。

「誰なんだ、キミは。オレのどこの部分と交錯する? やっぱりそこも、今は教えてもらえないのか?」

 そう真っ直ぐに問われると、さすがに胸を一突きにされたような心地になった。正大の不安そうなまなざしが、蘇芳をグサグサと刺している。

「俺、物事曖昧にすんのは嫌いなんだけど──」

 刺すその視線から逃れるように、蘇芳は赤茶けた前髪をクシャクシャと掻き乱し一度俯いた。

「──ワリィ、俺の勝手でベラベラ話せる内容じゃないからやっぱ言えねぇ。けどっ」

 正大と目を合わせ、何か言葉を発しようとしているその口元に追加の言葉を挟む。

「アンタが『思い出せた』その記憶全部はなんも間違ってない。まだ俺を知らなくて当然だから」

 正大は眉を寄せたまま再びそこへ座り直し、蘇芳へ「座りなやんなよ」と小さく促した。そっと元の位置に座り直すと、正大は俯きながらとても穏やかな口調で話し出す。

「昼間仕事しながら考えてた。サブさんたちから身を呈して救ってくれたり、こうして話を詰めたりするキミの一生懸命な気持ちがどっから来てるのか。オレに恩があるって言葉の意味と一緒にね」

 目を合わせた正大から先程までの不安感が消えている。見慣れない彼の真顔に蘇芳はやや緊張した。

「オレは今までずっと黙ってやられるだけで、抵抗できないでいた。だからあの時キミが割って入ってくれて、心身共に救われた心地だった」

 その言い方が『枩太郎先生』だなと、蘇芳は胸の内にジワリと思った。

「キミの方がオレの恩人だろう。そんなキミがオレの身変わりになるみたいに、この先恨みを貰ってしまわないか……。オレの変わりにキミが傷付けられるのは、嫌なんだ」

「勘違いすんな。俺はアンタの身代わりになったわけでも、喧嘩したくてオッサンたちを殴ったわけじゃねぇよ」

 蘇芳は溜め息のように長い一息を吐き出し、アグラにした右膝を立てそこへ右腕を掛けた。

「何回も言う。俺は一方的にいたぶられてんのを黙って見過ごすっつーのが気に食わねぇから割って入った。だから別に誰に恨まれようと関係ねぇし、そーゆーのには慣れた。そもそもコズルイことしてる奴に人様を恨む資格なんかねぇだろ」

「そんな……」

 なんという偽善だ、と正大は黒く思った。蘇芳は一呼吸の後に続ける。

「こんなこと言われてもまだワケわかんねぇと思うけど、そもそも俺がこんな風に考えれるのは全部アンタのお陰なんだ。アンタが元の時代に居なきゃ今の俺は居ない。今の『腐ってるアンタ』が元のところに戻ることで、無知なクソガキが一人救われてんだよ」

 蘇芳の話を理解しようにもなかなかそこまで追い付かず、正大の思考はどんどん滞る。滞ってはいるのに、蘇芳の言葉は真っ直ぐに正大に刺さり、抜けなくなる。

「アンタが『全部を思い出せる』方法はたったひとつ、くぅと一緒に元の時代に帰ることだけだ。今ここでどんだけ眠ろうと、どんだけオッサンたちに殴られようと、どんだけ親方の手伝いしたって絶対無理だ。そこに俺に関する記憶は無い」

 蘇芳もまた前のめりになる。

「アンタが頑なに元の時代に帰らねぇ理由はなんだ? 元の自分と今の自分の差が怖ぇんだろ。おおかた、その差を見たくぅが自分に失望しないか、見限らないかを怖がってんだろ?」

 違うかよ、と正大の眼の奥へ訴えかける。行灯の光に淡く照らされた正大の表情も共に揺らぐ。

「なんで、それを……」

「それ、深くまでくぅは知ってるか? 言わなきゃなんねぇことは、ちゃんと本人に伝えねぇとダメだ。アンタの声で、アンタの言葉で伝えねぇと何の意味もない。それが『誠意』ってモンなんだって、俺はアンタから教わった。起こってもねぇこと怖がってんなら、くぅに見限られたってしゃーねぇよ。無くなりそうなモンを掴まえ直すのは今だぞ」

 蘇芳の脳裏には、いつしかの枩太郎先生の言葉と姿が浮かぶ。震えが起きたが構っていられない。深呼吸を挟みもう一度正大へ投げ掛ける。

「後悔して腐っていいのは一回。だから一回は失敗していい。むしろアンタは失敗しろ、失敗してみろ! 何回も同じ後悔しねぇように失敗からちゃんと学ばねぇと、今度こそマジでくぅ大事なモンを逃すぞ!」


  言いたいことは、ちゃんと自分の声と自分の言葉で確実に伝えないとダメです。

  確かに後悔するのも勉強かもしれない、でも後悔するのは一回ですよ、たった一回。

  同じ後悔を繰り返すのはいただけない。


 こういうことなんだよな、先生。

 蘇芳はそうして鼻からいっぱいに空気を吸い込み、鼻でゆっくりと吐き出した。その風が行灯にかかったわけではないのに、灯火はぐらぐらと揺れる。

「ふは……」

 嘲笑のような笑いを溢した正大は、目を閉じガクンと頭を項垂れた。三分刈りのザリザリした頭頂部が蘇芳に向く。

「今のキミは、どんな話をしても同じ答えを言うんだね」

「悪ぃな、芸がなくて」

「そうじゃないけど」

 ゆらりと顔を上げた正大は、しかしまだ目を伏せている。

「キミたちと元のところに一緒に帰れば、キミのことを思い出せる?」

「…………」

 蘇芳は首は縦に振らなかった。何の反応も無いことを訝しむ正大の視線はやはり痛く、枩太郎先生のそれと全く同じ威圧感をひしひしと感じる。

「いろいろエラソウなこと一方的に言ったけど、『アンタには元の時代で未来を作って欲しい』──それが、腐ってるアンタに向ける俺の願いだよ」

 スッと、蘇芳の胸の支えが取れたような気がした。それは正大も同じで、じっとりと握っていた汗が消えたように思えた。

「夜中に悪かったな、セッキョウみたいなことしてさ」

 蘇芳はそっと立ち上がり、正大に背を向け、静かに襖を開けた。正大へ向き直り、大して彼を見ることなく一礼し、蘇芳は静かに部屋を出た。



   ◆   ◆   ◆



 くぅのサガシモノを捜したい。

 くぅの目的を、遂げさせたい。



   ◆   ◆   ◆



 三日目。

 蘇芳はそれから大した睡眠を取れず、瞼の重たい朝を迎えた。

 夜さまは寝ているくぅの傍で丸くなっており、そっと鶏卵のようなその頭を撫でてやっても起きることはなかった。疲れてんだな、と蘇芳は支度を整え音もなく部屋を出る。

 現場にて仕事を始めると、眠気は徐々に飛んでいった。ヘラヘラと妙に腰の低いサブらを煙たく思ったり、中には『まともな』会話をしてくれる先輩分もいたため、蘇芳は似たような待遇を受けていた中学校生活を思い出した。

 昼時になればくぅがおかみさんと昼飯を持って現れた。

「どうぞ、『正大さん』」

「ありがとう、く──『くぅちゃん』」

 くぅは努めて笑うようにしているようで、頬の上がり方のぎこちなさに蘇芳の胸中は掻きむしられるようであった。

 その日もそうして夕暮れになり、やがて解散になる。

 帰り道は、親方を挟んで正大と三人で歩く。不安になるほどの無言の道は、相変わらず黄土色の土煙が立った。

「親方ぁ! 親方、大変だっ!」

 やけに慌てた声が、三人の後方から聴こえた。親方は白髪混じりのボサボサ眉を上げて振り返る。駆け寄ってきたのは『まともな』先輩分の一人で、蒼白な顔面にただ事ではないことを窺い知る。

「なんだセイさん、慌てて」

「役人だよ、政府のヤツらだっ! 今現場に、何人も来てて……ハァ、ハァ、届け出がなんたらァって、ハアっ」

「や、役人?!」

「サブさんたちが、呼んじまったんだと思う。なんかそんなようなこと、ハア、昨日の夜に酒飲みながら、ハァッ、騒いでたから」

「くそ、アイツらっ」

 蘇芳は奥歯をギリギリとした。もう少しやっとくべきだったかな、と黒く考える。

 正大は慌てて親方に食いかかった。

「絶対にオレのことで来たんだ。オレが親方に──」「いいからっ」

 親方は強いまなざしで正大を睨む。正大はクッと言葉を呑み込み、やがて肩を落とした。

「いいか蘇芳、今すぐ正大連れて故郷に帰れ」

「えっ」

「けど、親方!」

 叫び制すような正大に、親方はそっと笑いかけた。

「もしかしたらワシの家の方も役人だらけやもしれん。正大、抜け道知っとんな? 前に教えた抜け道」

 覚えてるか、と正大と視線で会話をする親方。

「覚えてるけど、でもっ」

「蘇芳連れて、そっから家ん中入れ。身のまわりの最低限必要なモン持ったら、あとはしかと蘇芳の言うとおりにせい」

「親方……」

 あわあわと口を動かしていた正大は、やがて覚悟を決めたように眉を潜め小さく頷く。

「いろいろすいませんでした、親方」

「いい、いい。お前が来てくれて、ワシらは幸せだった。何度も言ったが、夢を見させてくれてありがとうな」

 蘇芳は純に微笑む親方の笑顔にそっと告げる。

「あの、親方。約束守れなくて、ホントすんませんでした」

「いやっはっは、いやいや。こんなに早く嗅ぎ付けられるとは思っとらなんだからなぁ。あいや、告げ口かな。どのみち気にするな、蘇芳」

 親方はセイさんと呼ばれた先輩分と共に、来た道を戻るべく蘇芳と正大に背を向ける。

「さ、急ぎ帰れ。お前たちを待っている者を、お前たちが大切にするんだ」

「はいっ」

「ウス」

 蘇芳よりも早く、正大は親方に背を向けた。小さく「着いてィ」と声をかけると、迷いなく走り出す。その背を蘇芳が追う。

 夕暮れはもう濃い紫に変わっていた。



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