枩太郎 9

 ふと、目を開ける。

 始めに眼球が捉えた景色は、茶色い木板の天井であった。パチパチ、と二度瞬きを重ねると、自らの右側にある温もりに気が付く。

「…………」

 まだ重たい瞼を無理矢理持ち上げ、その栗色の柔らかい髪の毛を見つめる。

「くぅ、ちゃん?」

「んぅー……うーん」

 か細い唸り声すらも愛らしい、と正大は頬を緩めた。そっとその栗色の毛を撫でてやる。懐かしい触り心地がするような、気のせいのような。

「んうぅ……」

 触れられていることに気が付いたくぅがそっと顔を正大へ向け、半身を起こす。

「あっ、お、おはよっ。正大さん」

 驚いたようなその声色、光が当たっているわけではないのにキラキラと見えるその瞳の輝かしさ。正大はそれらに胸の内をぎゅ、と摘ままれた心地になった。

「おはよう、く──」

 そこまで出して、咄嗟に正大は口を噤んだ。『呼ばなければならない適格な名前』が他にあったような気がして、しかし逡巡するも見当たらない。

 笑顔を作り直し、「くぅちゃん」と弱く微笑み、触れている髪の毛から手を離すと、正大も背を丸く起き上がる。

「倒れたって親方さんから聞いたよ。もう大丈夫?」

「うん。どんだけ寝てたのかわからないけど、かなり気分は落ち着いてるよ」

「そっか。よかった」

 互いに優しいまなざしで見つめ合い、すると穏やかな空気が漂う。もう一度二人で横たわれば、すぐに微睡み、夢へと落ちてしまいそうなほどの、緩やかで優しさに満ちた空気であった。

「ありがとう。傍に居てくれたんだな」

「……うんっ」

 くぅのもっちりとした頬がほんのりと色付いたのを見て、正大はドキリとその胸の奥で音が鳴ったことに気が付いた。やけに鮮明に、鼓膜に直接響き届く。

「どうしたの? 具合悪い?」

 心配そうにくぅに覗かれ、正大は自身の笑みが剥がれ真顔に戻っていたことを認識する。瞬きのあとで首を振りもう一度微笑んだ。

「う、ううん、なんでもないよ」

 夢で視た名前のわからない彼女と、目の前のくぅが重なって仕方がない。正大はぐ、と生唾を呑み、真意を確かめてみようかと思いたつ。

「ねぇく──」「あのねっ、話があるの」

 しかしくぅに先手を取られた。その真っ直ぐな瞳に押し負け、正大は躊躇いながらひとつ頷いた。

「あたしのこと、『全て元に戻るまで』は絶対に『くぅ』って、呼んでもらいたいの」

「『全て、元に戻るまで』?」

「もし呼びたい名前があっても、あたしは『全て元に戻るまで』はくぅで、アナタは正大さん、なの」

 くぅの色素の薄い眉が不安気に垂れ下がっている。

「今はまだよくわかんないかもしれないけど、お願い……」

 しまいにそうして潤ませた瞳に、チラチラと瞬く閃光を感じ取る。くぅから視線を外し、あそばせ絡めた自らの手元を眺めながら細く言った。

「なんとなくわかりそうでわからないけど……そうしなきゃならないなら、オレは気を付ける」

「信じてくれるの?」

「キミの言うことだけは、道標みたいっていうか……なんだかキラキラ光って見えるような気がするんだ。漠然と不思議な心地だし、まだ全部がそうってわけじゃないけどね。でもこの事は『信じていいんだ』ってわかる」

 困ったように微笑む正大を見て、くぅは『枩太郎』の微笑み方を思い出す。いつもこんな風に、困ったときは弱く笑っていたな、と。

 くぅは「ありがとう」と絞り出し、照れ隠しに俯いた。

「そうだ。そういやオレ、仕事に行かなきゃ。親方に申し訳たたない」

「大丈夫だよっ。すぅちゃんが代わりに行ってくれてるから」

 立ち上がろうとした正大の手を、慌てて掴み引っ張るくぅ。

「す、『すぅちゃん』?」

「蘇芳、って男の人。一応建て前上は『兄』って言ったけど、ホントは旅仲間なだけなの。ウソついて、ごめんなさい」

 肩を竦めるくぅへ、「そうだったのか」と微笑む。

「オレ、危ないところを彼に助けられたんだ。蘇芳は『オレのことを』恩人だって言ってたけど、蘇芳のことはまだ思い出せてない。それに、一番大事だったはずのことも」

 一番大事なこと──正大の言うそれはくぅのまことの名である。不明瞭にそう言われても、くぅはピンとこずさらりと流さざるを得なかった。

「だ、大丈夫っ」

 更にくぅが手を握る。もっちりとした小さな白いその手が、ゴツゴツと骨ばった正大の手を包まんとする。触れられている部分から、柔らかく温かな感情が流れ込み、死した心が芽吹き生き返るような錯覚すらしてしまう。

「それは、あたしたちと一緒にいればきっと思い出せるはずだからっ!」

「同じことを蘇芳も言ってた。大丈夫だ、大丈夫だ、って」

 くぅは弱く微笑む正大へ一度ゆっくりと頷いた。

「そうだよ、大丈夫だよ。だからあたしと一緒に帰ろう? 元のところに」

「元の、ところ──」

 ザン、と脳裏に『戻った』記憶がめぐる。とてつもない早さと膨大な情報量に、目眩がしクワンクワンと目の前が回る。頭を押さえるも目眩は止まらない。

「うぅっ」

「ま、正大さんっ?!」

「ぐっ、あ、ハァ、ハァー。だ、大丈……夫」

 くぅが懸命に覗き込むと、正大は苦し気に眉を寄せ、脂汗を滲ませながら歯を食い縛っていた。呼吸も乱れがちに、項垂れ呟く。

「そっ、か。やっぱりここの時代は、本来の自分オレの時代じゃ、ないんやね……」

 掠れる声で絞り出したそれに(あれはそういう意味だったのね)と、くぅは息を呑んだ。本来の自分の居場所を、正大になった枩太郎はずっと知りたかったのであろう。

 間を開けて、正大は呼吸を調えてから深呼吸をひとつした後、そっとくぅと眼を合わせる。

「あのね、くぅちゃん。本来のオレがどうだったのか、なんとなく思い出したんだ」

「ほ、ホントに?!」

「けど、今のオレは、本来のオレ以上に周りを酷く失望させてるんだと思うんだよ。心根は弱いし、情けないし、謂れのないことなのに言い返すことすらできない。独りで居ることが怖いくせに、誰かを巻き込むことも同じように怖い。いろんなことに踏み込めない自分が歯痒いくせに、結局なにも行動できない」

 これは記憶回帰が起こる直前に、蘇芳へも言った事柄であった。

 しかし、蘇芳は冷静にこう返した。


  他人の考えなんて普通わかんねぇだろ。いつだって顔突き合わせてちゃーんと眼を見て話し合わねぇと物事は先に進まねぇんだよ。

  ただ怖がってるだけじゃ、ずっとわかり合えないままんなるぞ。

  万が一、話して聞いてもらえなかったり上手くいかねぇ事が起きたら、そん時にまた改めて考えりゃいいだけの話だ──。


 これが『正大の』胸に深く刺さり、拠り所になり始めている。蘇芳にそうして差し伸べられた手を、しかし未だに正大は掴もうか払おうかと考えあぐねている。

 流れた脂汗が顎を伝った。

「元の場所に帰るのは、確かに『枩太郎本来のオレ』がどこかで望んでることかもしれない。でも『正大今のオレ』はそれすらも怖い」

 くぅに握りしめられた部分がやけに熱い。それへ目を落とし、溜め息のように続ける。

「元の場所で『本当のキミ』に合わせる顔がどんなものなのかわからないのが怖い。だって、キミと大事な約束をしてたはずなのに、やっぱり全然思い出せないんだ」

「約、束」

「思い出せないってことは、思い出したくないことなのかもしれないと思うと、キミに今以上の悲しみを植え付けてしまうんじゃないか、って」

「正大さん……」

 心配そうに顎を引くくぅへもう一度目を合わせ、そっと首を傾げた。

「こんなオレだけど、それでもキミは一緒に帰ろうなんて言ってくれるの?」

「…………」

 くぅはグッと喉を詰まらせ、柔らかく下唇を噛むと瞼を伏せた。

「あたしの知ってるアナタはね──」

 正大は眉を寄せ耳をすます。

「──いつも、どんなときでもヘラヘラ笑ってるの。言うこともやることもフワフワしてて、ちゃんとしなよ! って、つい周りが言いたくなるような感じ。だからあながち間違ってないよ、さっきの自己評価」

 そのくぅの声色はしかしとても優しく温かく、諭すようなものであった。ほんのりと頬が紅潮していく様を正大は目にしてしまい、ドキリと胸中が揺さぶられる。

 くぅは「でもね」と、正大を見上げた。

「それは独りになるのが怖くてだったんだって、あたしもずっとわかってた」

 くぅの姿が、この時ばかりは本来の姿夢の中の彼女──二〇才はたちの胡桃に合致した。正大は言葉を失い瞬きを重ねる。

「小さい頃から転勤が多くて、誰かと深く心をかよわせることを避けてきた、ってアナタ言ってた。だからご両親と離れて暮らし始めたのに、嬉しいときも悲しいときも結局一人きりになりがちで……心の行き場がないって、昔話をするときにアナタが言ってたの」

 出す声が震える。紡ぎ声に乗せる言葉がゆらゆらと揺れる。

「確かにアナタは、ガーンと前に出る勇気も度胸もない。言い返したり、すぅちゃんみたいな喧嘩なんてもってのほか。だけど、アナタは誰よりも優しくて、冷静で、ちゃんと他人ひとと適度な間隔を保って、平和に過ごせる人なんだよ! あたしはアナタと一緒にいると、いつもいつも暖かい気持ちになれるんだよ!」

 ゆらゆらと揺れた言葉は、やがてくぅの瞳から涙として溢れ落ちた。ビタ、ビタ、と握られている両手の隙間に染み入っては濡れていく。

 かけられている言葉が現実のものであることはわかるのに、記憶や自己評価が溝を作る。「信じるよ」と素直に言えない自らももどかしいが、「納得せずには先に進めない」などという小さく根深い矜持プライドが邪魔をする。正大は奥歯を軋ませた。

 一度俯き、再び目の前の少女へと視線を戻したときには、彼女はすっかり元の幼子の姿に戻って映った。

「ごめん、くぅちゃん。信じたいけど、やっぱりそれが自分だとはまだ思えない」

「しょ──っ、正大さん……」

 ふにゃりとくぅは顔を歪めた。力になりきれなかった、と悔恨がその小さな背に貼り付く。

「ごめん。もう少しだけ、考えさして」

 弱々しく『枩太郎』にそう頼まれると、『胡桃』は弱かった。



       ◆



 正大はそれからすぐに、眠っていたその部屋を離れて建築現場へと行ってしまった。くぅは、密やかに『ドア』の見張りをしていた夜さまが戻ってくるまで、正大が横たわっていた箇所で同じように横になり手足を縮め、静かに涙を流していた。


 正大が現場に着くと、汗を流す爽やかな蘇芳に「よう」と微笑まれた。しかし、心内の落ち着かなさから思わず顔を背けてしまう。蘇芳は然して気にしないよう努め、与えられた仕事にただただ勤しんだ。夕暮れまでそうして仕事をし、親方と三人列び帰るも正大は蘇芳と口を利こうとしなかった。

「え。マサヒロ、さん、そっちかよ?」

「オレは自室を借りてるから。蘇芳たちは『客間』なんだよ」

 親方の屋敷の廊下を少し進み行くと、正大はボソリとそう呟いた。蘇芳は曖昧な相槌で返答したが、正大はやはり蘇芳を見向きもしない。

 部屋の方向を確かめるように正大の背を見送ると、蘇芳はくぅと夜さまの居る部屋へと静かに足早に戻っていった。

「ごめんなさい。説得とか説明、上手くいかなかった」

 部屋へ出された質素な夕食にありがたくありつきながら、しかしくぅは食べ進めがいつもよりも格段に遅い。食欲がないのは精神不安からだなと、蘇芳は夜さまと目配せをし理解した。

「気にすんな、くぅ」

 カラカラの、水分も脂身もほとんどない小さな魚の干物を極限まで噛み、蘇芳は明るい声色で言った。

「マサヒロが『いろいろ思い出した』って自分で言ってたんだろ? ならそれはくぅが記憶回帰の手助けになったってことだと思うけど」

 なぁ、と夜さまへ同意を求める。夜さまは鼻を小さく「フン」と鳴らし、くぅへ顔を向ける。

「そう案ずるでない、くぅ。言うたはずじゃ、『ヌシらを必ずや元の時代へ帰す』と」

 努めて口角を上げる夜さまを見て、くぅは瞼を伏せがちに小魚のくぎ煮に手を付けた。

「サニーにも怒られるしな」

「か、アヤツは関係ないっ」

「へぇ、どーだか!」

「…………」

 わざと冗談でそう夜さまとじゃれても、くぅはのってはこなかった。

 やがて夜さまは蘇芳へ静かに首を振り、蘇芳も肩を竦め再び食事に集中した。小魚のくぎ煮の甘塩っぱさが、しばらく上顎の奥に貼り付いていた。



       ◆



 軋む廊下を進む。明るさはほぼない。

 真夜中であることもあり、仕方なしに立ってしまう音は最小になるよう気を配る。

 辿り着いた薄い襖の前に立ち、右手の指先で「トントントン」と軽く叩く。

「マサヒロ、さん。起きてる?」

 ヒソヒソと、聴こえたか聴こえないかのギリギリで話しかける。

「…………」

 返事がない。シンと静まり返る冬の真夜中の冷えきった空気にブルリと身を縮める。

「マサヒロさん。蘇芳だけど」

 そうしてもう少しだけ蘇芳が声量を上げると、中からギィ、ギィ、と近付く足音が聴こえた。

「何かな。明日もあるし、もう寝ないと」

 襖の向こうからそんな正大の声がした。低く、まるで煙たがるような声色で、(こんな『枩太郎先生』の声は聴いたことがない)と新鮮味すらおぼえる。

 なるべく柔らかい空気にしようと、おどけた口調で歩み寄る。

「いやいや丸一日寝てたんだから今日は眠くねぇだろ。話し相手ンなってくんね?」

「悪いけ──」「二人だけで話があんだよ」

 正大の否定的な返事に被せる言葉は、あらかじめその喉元へ用意していた。間髪入れず続ける。

「俺だって明日も親方の手伝いあるし、なるべく手短に済ます。な、だから中入れてくんねぇ?」

 襖の向こうは再びシンとしてしまった。

 蘇芳が三〇秒だけその沈黙を我慢をして、襖を再び指先で叩こうとした瞬間、襖がサッと軽い音を立てて二〇センチ分だけ開けられた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます