枩太郎 7

 蘇芳は親方と共に建築現場へと急いだ。

 到着すると既に作業は始められており、サブら先輩分の大工作業員は蘇芳を視界に入れるなり、大層ぎょっとした。

「体調ワリィ正大の代わりに、正大のこと迎えに来た蘇芳が現場に入るからな。正大より若ぇし体力もあるとよ」

 にこやかに説明する親方の横で、蘇芳は含みのあるにーんまりとした笑みを浮かべた。

「おなしゃーす。先、輩、方」

 皆が一様に生唾を呑み、青褪め引きつったた笑顔を向けたことを、蘇芳は脳裏に深く刻み込んだ。



   ◆   ◆   ◆



 なんて鮮明な夢だろう──。




「──待って」

 掠れた悲壮的な声で彼女を呼び止める。制服のときにいつも履いている黒いローファーを右足だけ履いたまま、彼女は驚いたように目を見開いて振り返った。

「どう、したの」

 オレが一歩、一歩と近付く度に、彼女は無意識に茶色の瞳を潤ませる。決して恐怖感を与えたいわけじゃないのに、ずんずんと近付くオレは彼女との身長差も相まって、恐怖を与えても仕方がなかっただろう。

 泣きだしてしまうんじゃないだろうか。

 良くないことにここは玄関だ。彼女に飛び出されたらきっともう二度と会えない。物理的にも、精神的にも──。

 そんな風に自分を嚇して、危機感として胸の内にぶら下げながら、彼女へ噛みつくように一声を張る。

「帰らんで」

「え」

「一人ンなりたくない、今」

 彼女が息を呑むのがわかった。

 格好つかないオレを、そんな澄みきった眼で見続けないでくれ。だけど、彼女がオレを見てくれないのもまたそれはそれで苦しすぎる。ワガママな話だ。

 耳に張り付く鼓動は、抑えの利かない自分の感情に板挟みになるオレの目の前をぐらぐらと揺さぶる。

「枩──」

 揺さぶられているオレは、倒れるように彼女に近付き、彼女を引き寄せ抱き締めた。きつく、きつく。骨っぽい彼女の肩を、交差したオレの両掌がそれぞれ包む。彼女の小さな顔は胸の内に抱き納める。

 彼女はどうしてこんなにも温かい?

「枩、太郎?」

 名を呼ばれて、やっとわかった。

 オレは、退屈で辟易している毎日に彩りを与えてくれる彼女が、オレの居ない新しい生活に溶けて、オレの目の前から消えてしまうのではないか……と恐怖している。

「オレ、落ちた。大学落ちてしまった……一人で立ち止まるンは怖い」

 手が、足が、全身が震える。気付かれたくないと思って日々笑って隠してきたけど、もう今日は限界だ。

「独りにせんで、■■っ。置いてかんで、幻滅せんで……頼む」

 震えながら溢したその言葉を、彼女の白くか細い首筋に押し当てる。

 情けないなんてのは重々承知だ。それでもこんな風にしか、彼女を掴まえておく術をオレは思い付かない。

「幻滅なんて、しないよ。一緒にがんばろって、枩太郎が言ってくれたんだよ」

 彼女の声は震えていたけど、努めて明るい声で言う。そうしながらオレの背中に回した腕で、優しくポンポンとさすってくれた。子どもをあやすような彼女の手つきに、じわりじわりとにじり寄るひとつの感情を、オレは密かにもて余していた。

「あたしは枩太郎の傍に居たい、これからも。だから──」

 彼女はそんなようなことを言っていたけど、ごめん、もう耳に入らなかった。心情がそれどころじゃなくて。

 腕の力を緩めて、そっと彼女を至近距離で見つめてみる。

「っ!」

「…………」

 喉が鳴る。

 神聖な彼女をこの身に取り込みたいと、胸の奥から幼い自分が叫び泣いているのがわかる。

 オレがそうして卑しく見つめるからか、彼女はひゅっと息を呑んで、口をポカンと開けた。

 だけど。

 気が付いたら瞼を伏せた彼女が、顎をやや上げてオレの口を塞いだ。鴇色に艶めくもまだ幼さの残る、その唇で。

「!」

 なんて柔らかく、なんて優しいんだ。

 浄化と穢れが同時にオレの中を駆け回っていく。この無音の触れ合いに、オレの心臓は低い音で激しく鳴りだす。

 まるで天使の赦しを得たような心地だった。

 どれだけの罪深き行為も、この柔らかな一瞬の触れ合いひとつで全てが赦されてしまう錯覚をする。彼女からのものだから、余計にそう思うのかもしれない。

 彼女がやがてそっと離れたとき、片目と片目の視線がぶつかった。

「…………」

 離れるのが惜しくなっただとか、なんだか言葉にするのが難しいモヤモヤとした感情に襲われる。


 もう少し。

 もう少しだけオレを『それで』赦して──。


 そうほんのりと頭に浮かんだ瞬間、オレは噛みつくように彼女の唇を求めていた。

 啄む、という言葉がやけにしっくりくるほど激しく求めて彼女に口内を開けさせる。一センチもあるか無いかの隙間に自分の湿った舌を捩じ込む。

「ふ、んんっ」

 そんな可愛らしい甘い声を出さないで。オレの中に最後に残った『我慢』の糸が切れてしまうから。

 冷たいこの廊下にキミの背中を乱暴に押し付けて、その身を包んでいる布地を全て剥ぎ取って、キミへの罪をもっともっと重ねてもいいのなら別だけど。

 漏れ出るそれを飲み込ませようと、捩じ込んだ舌で口内をオレ色で汚していく。引っ込めていた彼女も次第にオレの穢れ染められてしまったのか、舌を躊躇うようにたまに絡めてくる。

 応えてくれたと思って、すると安心感と更なる強い追求心が押し寄せる。

(もっと。もっと、赦して)

 舌を吸うときの艶めいたいやらしい音、彼女の鼻呼吸の甘い温度、匂い、身じろぎする彼女の背を掴まえ続ける自分の力加減──。

「ん……ハァ、あっ」

 角度を変えて、また吸い尽くす。深く塞ぎ合っては、彼女の神聖さをオレだけがそうして吸い続ける。吸い付くしたあとの彼女は、この行為を忘れられなくなってオレのことだけをずっとずっと考えてくれればいいんだ、きっとそれでいい、そうすればオレの心ははまた満たされる。


 ──どうにか繋ぎ止めておきたい。


 これは、補食に近い『欲求』のための行為。

 こんな風に彼女に本心や本性をさらけ出してしまうなんて、オレは本気でどうかしてる。

 オレは、彼女に見合うような漠然と立派で崇高な男ではない。こんなにも頼りなく情けなく、年齢だけをただ重ねた幼すぎるどうしようもない男だ。感情のコントロールが出来ないまま、こうして彼女を困らせる原因でしかいられない。


 キラキラとした彼女を取り込めば、オレは彼女に見合った人間になれるのだろうか。

 この先を深く望んでしまうオレは、今後の彼女に合わせる顔があるか。

 こんなにも欲望にまみれた醜いオレを、彼女はそれでも赦し包んでくれるだろうか──。


 自問自答が終わらないまま、塞ぎあっていた唇は細い唾液の糸を伸ばし離れ、しかしそれは瞬く間にプツリと途切れた。

 彼女は顔を真っ赤にして俯いて、浅く吸った息と共にオレの胸部に顔を埋めた。そのままオレを突き飛ばし、玄関扉を押し開け、走って帰ってしまうかもしれないと予測していただけに、彼女がそうしてくれたことが嬉しくて仕方がなかった。

 さっきよりも緩くだけど、そっと、しかし強固に彼女を抱き留める。

 その時間が無言だったからこそわかったことが、もうひとつ。


 彼女へ抱く『ひとつの特別な想い』があることを、そうして初めて気が付いたんだ。



   ◆   ◆   ◆



 大工の仕事は思ったよりも蘇芳へ疲れを与えた。手元に暗く影が落ち始めた頃、親方は「あがるぞー」と皆に声をかけ、するとやがて解散になった。

 サブら先輩分の多くは、蘇芳へ終始ヘラヘラと控えめに愛想を振り撒いている。それは、平穏に事をやり過ごそうと努めているのだとありありと伝わる。蘇芳は「奴らがヘーコラしてる間は、大人しくしていてくれるだろう」と眉を上げた。

「お疲れっした、親方」

「はいよ、ご苦労さん」

 この小さな町のざわめきは、一五〇〇年代で感じたものとはまた違う雰囲気である。

 人々はのんびりとしているわけではなく、どことなく不安を帯びた緊張感を身に染み込ませている。視線は斜め下を向いていることが多く、それは小さな田舎町のためであろうか。

 そんな人と人の合間を縫うように、蘇芳は親方と並び歩き帰路についた。「疲れたろう」と親方は蘇芳の身を案じ、蘇芳もまた労働後の清々しさを笑顔に換える。

「あの、親方」

 言わなきゃなんねぇよな、と、蘇芳は大工作業をしている間中にずっと考えていたことを、「何だ?」と顔を向けた親方へ順番に言葉にしていく。

「先生……いや、マサヒロをここに留め置いてくれて、ホントにありがとうございました」

「ガッハハ。なんだ、改まってからに」

 豪快に笑いながら、親方は無精髭をザリザリと撫でまわす。

「記憶ないあの人の世話をやいてくれて、ホント、なんて礼をしたらいいかってずっと考えてたんス」

「まぁ始めは周りから反対されたりもしたがな、ハハハ。『記憶が無いなんてウソっぱちかもしれない』とか『財産狙われてるから追い出せ』とか、そりゃもういろーんなことをな。それでもきっと、出逢った意味が何かあると思ったんだよ。だから留め置いた」

 親方は声を潜め、蘇芳へすら聴こえないかもしれないような音量で加える。

「ワシらは丁度、戦地に息子を『とられた』ばかりだったからな。還ってきたような気がして嬉しかったっつーのもあるんだ」

 蘇芳は「とられた」という感じ禁句意味をわからないわけではなかった。不意にドキリと緊張が走るが、(お国のための、っつーアレか)と昭和の戦争の時代を思い出す。自らの祖父が日頃から口酸っぱく言って聞かせていた話のひとつに、そのようなことがあったわけだ。

 親方は弱く微笑み、声の音量を元に戻して続きを話した。

「あいつ、最初に名前がわかんねぇって言うからよ、ワシがとりあえずで付けてやったんだ。『大正タイショー』って時代に変わったらしいからな、ひっくり返して『正大マサヒロ』なぁーんて呼んでたけど。よかったかね?」

 親方は照れ笑いをしながら蘇芳に問いかける。つられて蘇芳も控えめに微笑みながら(ここ大正時代かよ)と胸の内のみで驚いた。

「はい。本人が思い出すまで、俺たちもマサヒロで呼んでいくことにしようと思うんス。だからむしろ名付けてくれててありがたかったな、なんて」

 何が起こるか不透明な今の状況下では、まことの名はくぅが、しかも『ドア』を潜った向こうで呼ぶまで本人には明かせない。好都合であったことを蘇芳は心底感謝していた。

「アイツ、正大よぉ。『誰かと約束してる』って、しばらくずぅーっと言ってたんだよ」

「約束、っスか」

 角を曲がり、夕陽が朱く二人を照らす。茜に染まった親方は顎髭をザリ、としながら不思議そうに言った。

「『待たせてる』とか『行かなくちゃ』とかな? 『取り戻さなきゃ』とかも言ってたなぁ、うん。そのたった三言が、記憶の無いアイツの最低限わかることだった」

 「何か手掛かりンなるか?」と親方は蘇芳を窺う。視線を逸らし、茜に目を移す。

 くぅと何か約束をしていたのであろう、と蘇芳は推測した。「くぅにやるはずだった鍵のアクセサリー」を取り戻さなきゃ、であるということも容易に推測できる。

(先生は記憶が『何も無い』わけじゃねぇ。『ほとんど無い』だけで、奥底では『くぅ』をちゃんと覚えてんだ)

 ぶるりと蘇芳の背筋が震えた。思わず頬の筋肉がピクピクと痙攣する。

 拳に握った両の手に汗が滲む。蘇芳は親方へ、もうひとつを言わなければならない。

 蘇芳は立ち止まり、「あのっ」と声を張った。

「親方。俺たちに、マサヒロを返してはいただけませんか」



   ◆   ◆   ◆



 なんて鮮明な夢だろう。

 まるで映像に録っておいたかのようだ。


 これがいつのことで、どこの記憶かはまだわからない。

 それでも思い出したことは、まずひとつ。


 オレは確かに彼女が欲しかった。

 オレに絡め取られて、心を捕らえられて、抜け出せないくらい溺れて欲しいと懇願していた。

 彼女を手に入れようと、あんなにももがいていた。

 乱暴な方法しか思い付かなかった。

 それくらい彼女を欲していた。


 なのにどうして。

 オレはどうして、彼女の名前だけがわからないんだ。


 なんて不鮮明な記憶だろう──。



   ◆   ◆   ◆


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