枩太郎 4

 くぅは正大まさひろに連れて来られた親方の家にいた。

 正大がおかみさんに軽く事情を説明しくぅを預け、現場へと走り向かってしまうと、くぅも正大も共に胸の内がザワザワとした。

「スオウ? さーあ、聞かないねぇ。そんなハイカラな名前」

「そう、ですか」

 手持ち無沙汰になったくぅであったが、一息つく間もなくおかみさんに家事の手伝いを頼まれた。

 洗濯物の衣類をたんまりとタライに浸け、木製洗濯板でひとつずつ擦り洗いをする。そうしながら蘇芳について訊ねてみたところであった。くぅはおかみさんの返答に、失礼にならない程度の小さな溜め息で肩を竦める。

(すぅちゃんも夜さまも、今頃どこにいるんだろ……)

 ついじんわりと涙が浮かびそうになり、くぅはブンブンと頭を振って涙をなぎ払う。

 「冬の水は冷たいな」と、赤く痛くなってきた指先をぎゅっと握ってみた。



       ◆



「遅ぇぞ正大っ! 何やってンだ!」

「スンマセン!」

 くぅを親方の家へ預け現場へと急いだ正大は、既に仕事に取りかかり始めていた歳上の先輩分らにどやされた。冷たく睨まれ、舌打ちや冷徹な言葉を浴びせられる。

「チッ、赤紙が来ねぇ非国民のクセに悠長にしくさって」

「親方もよくもまぁこんな素性のわからねぇ奴を手元に置いとくよなぁ」

 四五の齢を越えた男連中は、雇用主の親方には忠誠的である。その一方、記憶もない出生もわからないなどと言う正大へ、執拗で酷い仕打ちを重ねていた。それはもちろん親方には気が付かれないような姑息なものばかりで、正大が何も言えない性格であることを逆手にとったものであった。

 正大はもともとの性格がどうであったかも覚えていない。何も言い返せず、ただ悔しさや情けなさだけが正大に重くのし掛かる。

(どうしてオレは記憶喪失なんだ。本当のオレだったら、こういうときどうするんだ。……消えたい)

 正大は、優しく親身な親方以外とは馴染めず、孤立していた。

「おいコラ、誰だァ! ここの柱いじくった奴!」

 現場の中からそんな怒号がひとつ響く。早朝にくぅが倒し、正大がそれを庇って戻した箇所からであった。傷でも付いていたかなと、正大は険しい表情で慌てて中へと入っていく。

「スンマセン、触ったのオレです! 朝来たときに倒れてて、戻したんですけど……」

「正大かよ、クソがっ! 割れてンじゃねぇか、どうしてくれんだこの野郎、ええっ?!」

 サブという通称で呼ばれる先輩分が、顔中をシワにして真っ赤に憤慨している。彼は親方の代わりによく現場を取り仕切るが、起伏の激しいタイプですぐに手をあげる男であった。

 そんな彼が指した木の柱にはうっすらとではあるが縦に長く亀裂が入っていた。これでは柱としての見映えも良くはないし、そもそも今後柱として利用できるかもわからなくなってしまったわけだ。

 正大はただただ「スンマセン」と頭を下げるしかなく、口の中や下唇を酷く噛んだ。

「謝って済んでどーにかなるようなことか? ああ?!」

「キョーイクが必要だな、あァん?」

 煽りや野次を入れてくる他の先輩分らに取り囲まれ、正大は後退りする。

 サブや他の先輩分らは、正大よりも一〇センチほど背が低い。しかしサブだけは誰よりも筋骨隆々ではるかに体格がいい。それゆえサブは威圧的で、正大が尻込みする要因に充分なり得ている。

「ちょ、こっち来いっ」

 そうしてサブは顔を真っ赤にし正大へ詰め寄り、その胸ぐらを掴んだ。正大を半ば引き摺るようにして路地裏のような場所へ出る。

 掴まえられていた胸ぐらごとその辺の黄土色の地面へと叩き付けられ、正大は「うっ」と低く唸るように声を漏らす。左前腕が砂利に擦れ傷になった。

「ったく、誰が親方に話つけると思ってんだ、俺らだぞ?!」

「国のためにも働けねぇ、親方のためにも働けねぇのか!」

 よろよろと立ち上がる姿勢を見せれば、たちまちに先輩分らの拳が腹部めがけて数発飛んできた。顔を殴れば親方に横行がバレてしまうため、彼らは必ず衣服で隠れている部分のみを打撃するわけだ。

「親方来たら教えろよ」

「あいよっ」

 サブがそんな言葉を向こうへ投げ、バランスを崩し身体を横たえた正大の肩を一発殴る。腹部に蹴りが入れば次いで脇腹も蹴られる。骨盤が地面に食い込んでしまう程に上から踏みつけられたり、背を蹴られ黄土色の砂利を転がったりもした。

「ぐ、っく……うっ」

 親方の居ないところで単なる彼らの憂さ晴らしの的になっている正大は、ただただ歯を食い縛り目を瞑り、そういう執拗な嫌がらせに無言で耐える。そのことが逆に彼らを逆撫でしていた。

「チッ、相変わらず呻き声ひとつ上げやしねぇ」

「いたぶりがいのねぇ野郎だ」

 バチバチ、どかどか、などの鈍い音が正大の身体中に響く。心身的に全てが痛いと、それだけが頭にこだまする。拳をはじめ、足の甲や裏を食らわしながら、先輩分らは薄ら笑いを浮かべ、時に不気味にゲラゲラと声に出す。

「詫びながらくたばれ、クソガキっ」

 そうしてサブの太い腕が振り下ろされようとしていた。

 正大はなんとか弱くひと睨みするも、その眼力はもはや無いに等しい。

「イッデエっ!」

 甲高い一声。

 そう声を上げたのは正大ではなく、顔を真っ赤にしたサブ。正大へ振り下ろそうとしたその右腕に、足の親指大の石がまるでダーツ板に刺さる矢のごとくどこからか飛んできてめり込んだためだ。

 正大は「え」と声にならない声を漏らした。

(誰だろう、オレに加勢したのは)

 親方であれば、石などよりも怒号が飛ぶはずであるし、と正大は冷静に分析する。刮目しようとググと目を見開き、噛んでいた下唇から上前歯を離す。生暖かい血が一部分から滲み流れ出た。

 腕にめり込んだ石がボタリと地面に落ちると同時に、サブは再び顔を真っ赤に石の飛んできた方向をグリンと振り返る。

「誰だゴラァア?!」

「あー、悪かったなぁ。空に高あーく突き上げた腕に石っころ当てちまって」

 ザリ、と黄土色の土が煙をたてる。

「『よしやるぞ』的なアレだろ? せっかく仕事にやる気だしてたんだもんなァ、オッサンよぉ」

 そう言いながら小首を傾げ顎を上にし、いやに挑発的なまなざしをしている少年が一人。正大は初めて見るその少年を注視すべく、ゆっくり身体を起こした。

「アアン?! ふざけてんじゃねぇぞっ」

「テメコラ、何してくれてんだ!」

「どこの誰だ、こんクソガキ!」

 石を当てられた箇所を擦りながら周りに二、三人を引き連れ、サブは少年に大股で詰め寄る。

「やー、ただの通りすがりっス。石蹴ったら高く高ァく飛んじまってさー。いやっ若いってすげぇよ、体力余って余って!」

 少年はやけにヘラヘラと笑う。しかし、その眼には絶対的な自信や、確固たる信念を宿しているように正大には見えた。

「おい、見張りやってた奴らどうした!」

「朝早えからかなぁ? そこで寝てっけど」

 クイと顎で示した先に、見張っていたはずの男ら四人が泡を噴いて折り重なっていた。

「うえ? ウソ、だろ」

「チッ、このガキ。やってくれたな」

 捨て台詞を吐く先輩分らを尻目に、サブの眼輪筋がヒグヒグと痙攣する。

「それより……大工の手ェ潰すたぁいい度胸してんなぁ、兄ちゃん!」

 ブンと空を裂く音がして、しかしそれは少年の左掌で簡単に受け止められる。

「へーえ、威勢いいじゃねぇの。オッサンのわりには」

 少年は半ば驚いたように眉を上げたが、受け止めた拳を左掌でがっしりと包むように握る。爪は手の甲に食い込まんとギリギリ軋むようであったし、少年が持ち上げる口角は不気味な闘争心を揺らめかせている。

「いだだだだっ! 離せゴラテメっ」

「俺コズルイのって嫌いなんだよなぁ、無性に腹立つんだよ。たとえばそういう影でコソコソ一人を──」

 トン、と少年が正大を見やる。

 正大と少年の視線がかち合った。

「──せんっ」

 そうして少年が目を見開き、息を呑んだのが正大にわかった。

「クズに余所見か、ナメてんじゃあねぇー!」

 その一瞬の隙をサブの視線は見逃さなかった。少年へ、その太い腕をぐうんと伸ばし殴りかかる。腕はバシンと音を立てて、しかし空を掻き軌道が変わった。

 つまり、少年へ当たっていない。少年は右手でそれを外側へ、叩くように払い避けていた。

 そのままガラ空きになったサブの太い首筋へ手刀で一打。丁度、頸動脈付近にズンと刺さるように少年の右手が入る。首筋の神経に重いダメージを与えたようで、空咳のような「ガハア!」が空へ抜ける。

 握り潰さんとしていた拳をパッと放し、その前腕部を雑巾のように互い違いに掴み握ると、少年はなかなかに強烈な足払いでサブの体勢を崩させる。掴まえた腕を捻るようにすると、巨躯は簡単に黄土色の砂利の上に転がった。ズウウンッと地に低く響く衝撃で土煙がたつ。

「んだよ。この身体、見せかけか。ラグエルのあいつのが重かったし硬かったな」

 そんな独り言を漏らし、あまりの呆気なさに少年は目を丸くしていた。周囲に引き連れていた他の先輩分らは退け腰に、この旗色の悪さをさとる。

 少年は、黄土色の砂利に転がるサブを跨ぎ立ち、意識がまだ残っていることをチラリと確認する。胸部に右足をズンと乗せると、サブは「グエェ」と低く呻いたが被せるように話し出した。

「いーか、『俺からは』絶対に手ェ出さねえ。やり合おうっつーんなら構わない、いつでも来い。アイツの代わりに俺がそれなりに相手してやんよ」

 少年は『アイツ』と顎で正大を指した。ミリミリ、とサブの胸に少年の足がめり込み、その圧に耐えかねるようにサブは苦悶の表情になってゆく。

「まとめてだって構わねぇ、俺はアンタらより格段に強いっつー自信と実績がある。反撃してこねぇ相手いたぶったって楽しくねぇだろ。バチバチやりてぇんだろ? じゃあバチバチにやってやんよ、俺が。望み、ど、お、り、に」

 少年はぐっとサブに顔を近付け、声を小さく低くした。

「ただしボロ雑巾みてぇになんのはいつだってアンタらだけどな」

「……グウッ」

 少年の眼に鈍く光った殺気のような何かに、真っ赤にしていたサブの顔は次第に蒼くなっていった。

「わ、ワアアアッ!」

 ひ弱な叫び声を上げつつ駆け寄ってくる二人に気付き、少年はサブから足を避けた。少年の背後に迫り来る叫び声の主らに刺すような視線を向けると、ヘロヘロな拳ではあったがせめてもの報復にやって来たのだとわかる。

 一人目の拳の向こうの前腕を取り簡単に捻り上げると、途端に「痛い痛い!」とのたうってサブの傍に転がった。

 体勢を低くしたついでに、やってきたもう一人の細い腹部に、少年は左肘を刺すように討つ。

「ふ、ふぐう!」

「ぐあっ……カはッ」

 あっさりと二人共々やられてしまった。

 それを横目にガタガタと声を震わせながら、サブは裏返る声で問う。

「おっ、オメェ、どこのどいつだっ!」

 半身を振り返り、少年は冷たい視線をサブへと向け直す。

「俺は蘇芳。あちこち旅しながら人を捜してた」

 正大は少年の名を小さくゆっくりとなぞる。

「捜してた、だと?」

 過去形にわざわざした意味がわからず、サブはそろりと窺う。

「ああ、今ようやく見つかったんだ。アンタらが殴ってたアイツ。俺はあの人に用がある」

 ビッと少年──いや、蘇芳が人差し指を向けた相手、それは正大であった。

 サブをはじめとする先輩分の男らは一様に眉をひそめ、口をあんぐりと開けたままになった。

「おいアンタ、名前は?」

「まさ、正大……」

「マサヒロぉ?」

 蘇芳は顔をくっしゃりと歪ませ眼球をくるりと一周させた後、「まぁいいや」と吐き捨てる。トドメのように、蘇芳はサブの尻を蹴り飛ばす。

「いいか、『マサヒロ』は俺が連れ帰る。オッサンたちこそくだらねぇことに時間割いてんじゃねぇ。人様の為になる仕事しろよ。大工の腕は、他人を殴るためにあるんじゃねぇだろ?」

 いいな、とサブをはじめとする先輩分らをぐるりと見渡す。蘇芳はもう睨まなかった。

 早足で正大へ近寄る蘇芳は、「立てるかよ?」と肩を貸すため腕を伸ばす。しかし正大は、その心遣いへ半信半疑のまなざしを向けた。この時代で、記憶喪失の正大を気味悪がったり煙たがったりしない人物は、親方とそのおかみさんを除いて誰もいなかったためである。

「オレを助けて、何の利がある?」

「利? んなもんのためにアンタを助けたんじゃねぇよ」

 顎を引き訊ねる正大は、蘇芳の腕を無視し自力でヨロヨロと立ち上がった。

「ずっとアンタを捜してたツレがいるんだ。アンタとソイツを引き会わして、元のとこに帰す。それが俺の目的」

 もう一度、蘇芳は正大へ左腕を伸ばす。

「ワケわかんねぇだろうことを敢えて言う。俺はアンタに恩がある。だからアンタを助けたいと思った、たったそれだけなんだ。頼む、一緒に来てほしい」

 蘇芳のまなざしは熱く、まっすぐで、なおかつ真剣そのものであった。正大はゴクリと生唾を呑むと、瞬きをひとつし口を開いた。

「後ろ危ない!」

「ガキにやられっぱなしで黙ってっと思ったか!」

 サブであった。

 蘇芳の後方で倒れていたはずのサブが、再び殴りかかってきたのである。太い両腕を伸ばし、まるで熊の如く猛っている。

 蘇芳は顔を半分振り返り、小さく肩を縮めサブの懐へ屈むように入り込む。身体が完全にサブと対面した瞬間、蘇芳の右拳はサブのミゾオチへしっかりと入った。その拳には捻りも加えられ、下から上へ突き上げられている。

「グ、ゴプアァ……」

 サブはフッとその意識を失いつつ濁った胃液を吐き出した。蘇芳は「げっ」と顔を歪めそれを避ける。

 するとサブは再び黄土色の砂利土の上へうつぶせで倒れてしまった。ズウウウン、と地鳴りのような音と土煙が立ち上る。その顎や胸を打ったため、しばらくは立ち上がれないであろうと蘇芳は片眉を上げた。

「あ、えっ」

「さ、サブさんが……」

 始終を眺めていた他の先輩分らは、そうして口をあんぐりと開けたまま硬直した。

「おら行くぞ、先生」

「せん、せい?」

「あー違った。じゃなくて、マサヒロさん。グズグズしてっと俺が怒られんだから」

 蘇芳はお構いなしに正大の右腕を左肩へまわさせ、正大の歩幅に合うように一歩一歩と進み行った。

 もう誰も正大を追いはしなかった。



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