胡桃 4

 彼はきょろきょろしながら家の近所を歩き回っていた。

 あたし? どうして近付かないのかって?

 違うの、追い付けないの。

 彼の歩幅って広くて、しかも速い。そこへ、あたしはブランド品の新しい靴な上に歩幅も小さくて。だから走っても全然距離を走れないし、なかなか追い付けないわけ。おまけに足元は雪だしね。もうかなり積もっちゃってる。

 そのうちに、彼を見失った。

「しまった、やっちゃった」

 どうしよう、ってキョロキョロしてるうちに、今いるところが彼のマンションの裏手だってことに気が付いた。

 ひとまず彼のマンションへ行ってみよう。そうしてあたしは、自分の歩幅で彼のマンションへと向かったわけ。

 雪道はギュ、ギュ、と踏む度に音が鳴った。それは水気が多すぎず少なすぎず、丁度いい証拠。ブランド物の深紅の靴は、雪が付着してちょっとだけ白くぼやける。もう少し綺麗な状態で彼に見せたかったな、なんてね。

 彼のマンションはオートロックじゃないから、煤けたエントランスホールの隅のエレベーターをまっすぐ上がって玄関前まで直接辿り着ける。


  ピーンポーン、ピーンポーン


 呼び出しチャイムを鳴らす。普段ならここで「ふぁーい」なんて気の抜けた声が聴こえてくる……はずなんだけど。

「■■■ー? 居ないのー?」

 二回目を鳴らして声をかけてみた。だけど返事も無いし、物音もしない。

「うーん、居ない」

 三回目を鳴らすことはしないで、ガチャガチャと玄関ドアを引いてみる。鍵は掛かってる、ってことはやっぱり出かけてるのね。

 あたしはくるりと玄関に背を向けてもう一度エントランスホールに戻った。

 彼、もしかしたら帰ってくるかもしれない。そう思い直して、エントランスホールで外の雪を眺めながら携帯を取り出してメールをすることにしたの。


  カチカチ、カチカチカチカチカチ、カチ、カチカチ

『今どこ?

 さっき後ろ姿見たから追っかけてたんだけど見失っちゃった。あたし今■■■のマンションに来たけど近くにいるなら合流しない?』


 それを送って五分が経った。時間は一四時半。

 返ってこないし、帰ってこない。

「やっぱりおかしい」

 あたしは雪が弱まった外へもう一度出てみた。さすがにそろそろターミナル駅に向かわないとマズいよね。

 踏み締める雪は相変わらずギュ、ギュ、と鳴る。三センチは積もったかな。それに、ちょっとだけさっきよりも冷えてきた気がする。

 電話の呼び出し音を左耳に聴きながら、マンション側の横断歩道で信号待ち。彼は電話にも出ない。


 本当にどうしたんだろう──。

 事故だったら、と思うと気が気じゃなくなってきた。


 あたしは歩行者信号が青に変わったのを見て、ふとある場所を思い浮かべた。胸騒ぎみたいな、勘っていうか予知っていうか……よくわからないけどそこかもしれないと思って、青になって待っていた信号を渡らずに足を左の方向へ向けたの。

 ギュ、ギュ、は次第にギュッギュッギュッに変わって止まらなくなった。余裕だった表情にも焦りとか不安が混ざって、「どうかソコに居て」と彼が事故に遭っていないことだけを願ってた。




 あたしは、寂れたあの神社に来た。

 朱の大鳥居は塗装が剥がれ落ちている箇所も多くて、風化が進んでいることは一目瞭然。その奥へ伸びる参道の石畳の隙間に雑草が繁ってるけど、今日は全部雪の下。

 あたしはその参道にたった一種類だけの足跡を見つけたの。

 大きさ的に二八・五センチ、底面からしてこれはスニーカー。彼のだ、って絶対の自信があった。だって特徴的なこの広い歩幅だし。

 あたしは、彼の足跡を消さないように、その右側を歩くことにした。

(事故じゃないみたい、よかった。それにきっとこの足跡は、あの場所に向かってるよね)

 そう、彼の言う『猫溜まりスポット』。

「雪が降ってきたから、猫たちが心配になったんだ。きっとそうだ」

 あたしはわざと声に出して、無理矢理に口角を上げる。足跡はズンズンと林の中へ入っていく。雪雲が低いお陰でこの辺りは薄暗い。


 怖い──。

 

 一瞬過った一言にブンブンと頭を振っ、恐怖の冷たさを薙ぎ払う。ただただ彼の足跡だけを見つめて、彼の歩いた足跡そくせきだけを信じて。

「着いたっ」

 高い常緑針葉樹が立ち並ぶ林の中に、ポカンとまるで秘密基地のように空いた空間がある。今日は全部の木々の枝葉にどっしりとした雪が乗っていて、地面の土色も一切見えない。雪は深く積もったみたい。

 足跡は、やっぱりここに繋がってた。彼の『猫溜まりスポット』。

 けど、肝心の猫はどこにもいないし、彼も同じくそこには居ない。

「■■■? あれ?」

 思わず口をぽっかり開けて、彼の代わりにそこにあった妙な物を見つめた。

 ドアがある。

 まるでショウルームに置いてあるようなサンプルの玄関扉っていうか、それが雪の上にポツンと立ってるわけ。

 首を傾げつつも、あたしはきょろきょろとその場に留まったまま四方八方を改めて捜す。

「■■■っ、居るんでしょ? こんなとこにいたら風邪ひくよ?」

 シン、とするその場は妙に静かだった。あたしの声はただ、白く冷たい雪の中へ、まるで吸い込まれるように消えてったの。なんだかそれが急に、不安を背中にくっつけたみたいに全身をゾワゾワとさせた。両手を胸の前でギュっと握って叫び呼ぶ。

「■■■っ!」

 不安を滲ませて眉尻はどんどん下がった。いつものハの字眉になってるんだろうなって、そんなとこばかりが妙に冷静。


 その時。


 ドアの背後からザク、ザク、と何かの足音が聴こえた。ビクッと思わず肩を跳ね上げてそれが姿を見せるのをただ待つ。

 足音から、これが彼じゃないことくらい簡単にわかった。でも同時に「誰だっていうの?」──。

「──く、るみか」

 出てきたその声の主は、彼が夜さまと名付けた黒猫だった。黒く細い体を引き摺るように、ゆっくりと歩いている。

「よっ、夜さま?! どうして?!」

 あたしはいろんなことにびっくりしてたけど、彼が看病していたボロボロの猫を冷たい雪上に放っておけるほど冷たい人間でもない。慌てて夜さまに駆け寄って、トサ、と倒れた彼女をそっと抱えたの。

「すまぬ、■■、■が……ハァ、ハァ、ドアに……グッ」

「いっ、意味がわからないよ。とにかく凍えてる! こんなとこに居──」「■■■がドアに吸われたんじゃ!」

「は、え?!」

 何を聞かされても、ひとつも意味なんてわからなかった。

 まず、夜さまが人の言葉を喋ってることから疑問だし。そもそも「ドアに吸われた」? 何の事なの?

 あたしはワナワナと震える下唇をギュウと噛んで、着ていたカーキのモッズコートを脱いだ。ひんやりとした外気に晒された肩や腕は寒かったけど、あたし以上に夜さまは寒いんだもん。夜さまに何かあって、悲しむ彼を見たくない。

 コートの内側に夜さまを入れて、まるで赤ちゃんのおくるみみたいにくるむ。ちっとも冷静なんかじゃなかったけど、とりあえず『なぜか喋る』夜さまへ質問をすることにした。

「ご、ごめん、あたし状況が全くわかってない。とりあえず、あなたは夜さまなんだよね?」

「ああ。儂はヌシらに救われた、あの、黒猫じゃ。■■■とヌシが、名付け──グッ! くれたじゃろ」

 苦しそうに時折顔を歪める夜さまは、やっぱり酷く体力を消耗しているみたいだった。ゼエゼエと息が上がって、言葉が絶え絶えになる。

「どうして、人の言葉、喋れるの?」

「儂は……わけあって人であることを棄て、猫として、時代を転々としとるんじゃ、ハァ、ハァ。この、『ドア』を、潜り続けとる」

 小さく顎をクイとする夜さまは、さっきのショウルームに置いてあるようなサンプルの扉様の『ドア』を指している。あたしは恐る恐る顔を上げて、その『ドア』を改めて見つめた。

 まるで板状チョコレートのような形状、左側に黒色の丸ノブ、高さはおおよそ二メートル二〇センチ、幅は大人が二人並んで通れる程。

「あのドア、で? 時代を?」

 「どういうこと?」という意味を込めて、震える声で腕の中の夜さまへ問い直す。




 夜さまの話は、こうだった。



       ◇


   ◇       ◇



 『ドア』はただの扉ではなく、時代転移装置──いわゆる『タイムマシン』。これは、胡桃らの時代よりも未来の産物であり、いにしえより代々密やかに魔法を受け継ぐ夜さまの一族のみが、政府から極秘に依頼された案件を担っている事例である。


 夜さまは時代転移装置ドアの完成開発総指揮官で、夜さまが魔法を施すことで『ドア』は時代転移を成し得ている。したがって、夜さまと共に『ドア』を潜らねば「時代転移」は成されず、時代と時代の『狭間』にて孤独に、そして永久に、その時間が止まったままさ迷うこととなる。

 それを避けるため夜さまは、彼が『ドア』の向こうに消えゆく刹那、転移魔法を『彼に』かけた。

 しかし、体力諸々を消耗していた夜さまにとってそれはとても不安定なことであり、不確定要素を大いに孕んだ謂わば賭けのような事象となってしまった。


 では、彼はどうして『ドア』を開けたのか。


 夜さまは数日前、彼の自宅で『あるもの』を発見した。彼に見つからぬようそっとそれを持ち出し、家から飛び出した夜さまであったが、そこを彼に見つかり追う追われるの関係となった。

 雪の降る中、それも彼にとって大切なものを夜さまが持って飛び出したわけだ。

 彼は慌てた。完全に傷も癒えていない状態で寒空へ出て行く事態が危ないと必死に夜さまを追い、気が付くと林へ入っていた。降り積もる雪に小さな猫の足跡は瞬く間に消えてしまう。

 そんな鬱蒼とした林の中で、彼は夜さまを見失う。しかし代わりに『ドア』を見つける。

 夜さまは、林の影で体力尽き気を失っていた。

 『ドア』は、ボウと無防備に立って在る。


 彼は、この向こうに夜さまが居るのではと、『ドア』の周囲を周り見る。幾度も周辺を確認し、不思議に思った彼はドアノブに手をかけた。

「──え」

 夜さまは、『ドア』の気配を覚り目を覚ます。

「触れてはな──」

 瞬間、勢いよく開いた『ドア』。夜さまの必死の叫びも簡単に掻き消える。

 突風と共にゴッという風圧を受け、彼は『ドア』の向こうの真っ黒の空間へと引き摺り込まれる。それを目撃し一瞬彼と目が合ったそのギリギリのタイミングで、夜さまは魔法を投げかけた。

「■■■に、時代転移の魔法を施す──!」


 この魔法が、彼に上手くかかったかはわからない。かかっていれば狭間を経て別の時代に出ているであろう。

 かかり損なっていれば、彼は『狭間』で独りさ迷っているはずである。



   ◇       ◇


       ◇



 長い溜め息を漏らした夜さまは、モッズコートの中でゆっくりと目を伏せ口を閉じた。

「すまん、すまん胡桃……」

 夜さまは時折苦しそうに悶えながら、小さな声で胡桃へ謝罪を続けた。

「儂がそもそも、勘違いなどせねば、こんなことには……」

 ズシャリ、と胡桃は膝を折る。冷たい雪上に素足の膝が沈む。ボーダーの膝丈ハイソックスは、小走りに進んだ最中でいつの間にかずり落ちていた。夜さまをくるんだモッズコートは腕からそっと滑り落ち、雪にまみれる。

「──がいって?」

 細く、吹けば消えそうな震える声で、胡桃は夜さまへ訊ねる。夜さまは呼吸を調え、胡桃の「勘違いって、何?」の問いかけに簡潔に答えようと努める。

「■■■の、持っていた物……あれは儂の、求めていたものではなかった」

 胡桃はザリ、と雪上に両手を付いた。

「『鍵』を、探しとったんじゃ。あの『ドア』の、『鍵』……転移先を、直通にする『鍵』」

「か、ぎ?」

 そんなもののために──胡桃はギリと口腔内を噛んだ。赤い鉄の味が滲み広がるのを感じる。雪上に握った拳の震えが止まらない。

「あんたの話、ひとっつも信じらんない」

 胡桃は、まるで土下座のような姿勢になり小刻みに肩や震わせている。囁くような細い声は、耳を澄ませていないと聞き取れない。

「そんな夢物語みたいな出来事、あるわけない。信じる方がおかしい、ありえないっ」

 自らに言い聞かせているような言い草は、口に出すことでそれを噛み締め、認め、頷くことを敢えて行っているように夜さまには思えた。目を伏せ耳を傾ける。

「けどじゃあ、有り得ないとしたらっ■■■はどこなの? あの足の跡が半分なのはどうして?! あの続きは?!」

 ガッと顔を上げ指差した先は『ドア』であった。『ドア』の敷居を跨ぐように、踵側の足跡だけが最後に残っている。行ったきり──そう見て取れる足跡である。

「あの半分の足跡の続きはどこに繋がってんの?! どこに、っ、どこに……」

 ズッ、ズズッと鼻を啜る音が、常緑針葉樹の木々の合間に虚しく響き消えてゆく。胡桃の額が雪上に擦り付けられる。

「……すまん」

「ハァー……ッ」

 胡桃は返答などを待たずとも既にその答えをわかっていた。夜さまの話を「信じられない」のではない、「信じたくない」のだと、そんなことは自らが一番よくわかっていた。

 雪の冷たさで赤くなっている膝や両掌が痛々しく滲み見えるが、胡桃にはもはや温度などわからないのであろう。夜さまは何も言えなかった。

「かえして、かえしてよォ……」

 しばらくの後に、胡桃は低い声でただそれだけを呟き始めた。

「■■■を、かえしてぇ。まだ何も、言えてない……何も伝えられてないっ、あたしは■■■に……■■■と──」

 それは怒り、悲しみ、絶望、悔恨、落胆──あらゆる負の感情が渦となり、胡桃の全身に絡み付いているかのようである。

 ギギュ、と、雪の踏み締める音。それは胡桃が掌を握った音。

 雪と悔しさはそうして共に握られると、じんわりと体温で溶け、やがて冷たすぎる水となった。水は周辺の雪に混ざるが、悔しさだけは混ざらない。

 そんな想いだけをその両手に宿したまま、雪にまみれた両手を自身の顔に擦り付けた。負の感情を含んだ涙を雪解け水に溶かしているようにも見える。

 くくっとしゃくった拍子に、腹の底から沸き立つ想い。

「──■■■をがえじてぇ……っ!」

 胡桃は、虚空に咽び泣いた。



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