胡桃 3

 言い忘れてたんだけど、彼、とても猫が好きなの。

 自宅マンションの近くに『猫溜まりスポット』があるのを知ってて、毎日そこへ立ち寄って最低二回は猫と戯れてるわけ。

 そこは寂れた神社の脇の林なんだけど、野良猫なのか飼い猫なのかわかんない猫たちが頻繁に集まってるんだって。

 可哀想かもしれないけど、絶対にご飯はあげない。諸々の責任が持てないから。本当にただ頭を撫でたり、顎をこしょこしょしたりするだけ。それにもしご飯をあげたのが誰かの飼い猫だったら、彼がご飯をあげ始めたらきっと本当の自宅へは帰らなくなるって心配したからなの。




 あれは一二月になるかならないかだったかな。すっごく冷たくて乾いた風が痛いほど肌に刺さる、暗く曇った日だった。

 彼の言う『猫溜まりスポット』に真っ黒の小さい猫が居たんだって。今までに見たことがない『新入り』だと思ったって。

 アバラ骨が浮くほど痩せ細ってて、ヘロヘロしてて凍えてて、多少傷も負ってた。きっと古巣の猫たちに攻撃されたのね。このままじゃ死んじゃうってんで、彼はその猫を抱えて知り合いの獣医さんに診てもらった後、自宅マンションに連れ帰ったの。

 しっかり暖めて、しっかり調べて適切なご飯をあげて、お風呂にも入れたよ。


 だけどその猫、何か変だった。まるで猫のご飯は食べないの。代わりによく食べたのは人間の食事に近いものばかりだった。パンとかご飯とかソーセージとか。きっと元の飼い主が自分の食べ物と同じのをあげてたんだろうって、彼は言ってた。

 「猫の体質に合わなかったら」って考えなかったのかな、前の飼い主は。あたしはこの可哀想な黒猫に同情した。

「飼うの? この猫」

 黒猫の存在にも慣れてきた頃、何の気なしに彼の部屋でそう訊いた。

 黒猫はいつも決まった場所でうずくまって寝ている。クッションの上に、バスタオルをクッシャクシャのモッコモコに丸めて置いて、その中心に埋まる。きっと体力回復に必要なんだろうと思って、一分でも長く眠れるようにあたしたちは静かに会話をした。

「予定はないけど、まだ外には出せんし世話してるだけ。しっかり治してからコイツの望むようにさせたいとは思ってる」

 彼のその意見は、実に彼らしいものだった。あたしは「そっか」とにっこりした。

「黒猫、良かったね。■■■に出逢えたことはラッキーだったよ?」

「黒猫って呼ぶのんもなぁ、何か考えた方いいね?」

「名前つけるってこと? それこそ離れがたくなるよ」

「けど不便やし……」

 ゴニョゴニョと口ごもって、彼が黒猫に近付いた。その気配を察知したのか、黒猫はうっすらと目を開けて彼を窺ったの。

 やけに綺麗なガラス玉みたいな瞳。透明度の高い藤色をしてる……なんだか素敵な猫ちゃん。

「起きた? なぁ、名前考えとんやけど選んでくれん?」

 猫に選ばせるんだ、とあたしはついクスッと笑った。まぁけど、この黒猫はニャアとかミィとか鳴かないの。弱ってるからだと思うんだけど。

 彼は黒猫の顔を覗き込むように、正座をしてモモに胸をくっつけて、黒猫と目線を合わせる。

「クロ」

「…………」

 反応なし。イヤみたいね。

 あたしは黙ってその二人のやり取りを眺めていく。

「チビ」

「…………」

「マル」

「…………」

「ゴマ」

「…………」

「エンピツ」

「鉛筆?!」

 ブッと吹き出して聞き返しちゃった。鉛筆はナイ!

「黒くて細いし、エンピツかいらしかわいいなぁて思ったん」

 彼は耳を染めてこっちを向かずに照れていた。照れると彼、抜けかけてる訛りが戻るの。

 クスッとバレないように笑って、あたしはまた黙る。

「ノワール。フランス語で黒やよ」

「…………」

「ルナ。月っちゅう意味、黒いし」

「それなら夜空とか星空とか、ナイトとかのが良さそうじゃない?」

「おお! 胡桃ナイスアシスト」

「んふふ」

 黒猫はちょっとだけ三角の耳をピクピク動かした。

「あれ? こういう系が好きなの?」

 あたしの問いかけに、黒猫は鼻をフンと鳴らしてまた目を伏せた。まるで返事してるみたいな反応で新鮮。

「ナイトくん?」

 試しに呼んでみる。無反応、イヤみたい。

「獣医さん、女の子やって言うとった。『ちゃん』やない?」

「ええー、ナイトちゃん? なんか耳障り良くない」

「…………」

 フンとも鳴らさない。むしろちょっとだけソッポ向いてる。やっぱりイヤなんだ。

「だからって真夜中くんとか真夜中ちゃんってのもねぇ?」

「ほいだら夜ちゃんとか夜くんなら、どう?」

 ピクッと、黒猫は目を開けて彼をじっと見上げた。

「あ、反応してる?」

「当たり?! なぁどっちがいいん? 夜ちゃん? 夜くん?」

 彼の問いかけに目を細めて黙る黒猫。

「…………」

「『夜』だけ、とか?」

 フン! だって。あ、そ。呼び捨てにしなさんなってことね、気高いお猫さまですこと。

「いっそ様付けしてたら無難かもよ。『ちゃん・くん』で性別決まるより気楽だし確実だもん」

「ほんなら『夜さま』やね」

 そうして彼が笑いかけたら、黒猫はうっすらと目を細めて納得したようにバスタオル敷きのクッションへ埋まった。

「気に入ったみたいだね、『夜』さま」

 よかった、と胸を撫で下ろしたのも束の間、黒猫はキッと刺すようにあたしを睨んだ。「何よ?」と身じろぐも、彼になだめられる。

「ははっ、イントネーションやない? 胡桃『夜』の方に音置くから。オレ基本的に方言染みてて後ろになりがちやし」

「そう、かな?」

 恐る恐る黒猫、改め夜さまへ首を傾げる。

「夜、『さま』?」

「…………」

 夜さまは納得してくれたのか、やっと目力を弱くしてまた埋まって眠りについた。これで今後も、夜さまに睨まれずに済みそう。

「この子、■■■のことスゴく好きなんだねぇ」

「猫にはよーく好かれるんよ、オレ」

「そ、だね」

 あたしも猫なら、彼にこんな風にずっと目をかけてもらえたり、こんなに近くの同じ目線で話しかけてもらえるのかな。

 そんな、普段ならなかなか考えないようなことを浮かべて、やっぱり溜め息と一緒に吐き出して消した。

 近くにいるのにたまに遠く感じる彼との距離は、出逢った当初からなかなか縮まらない。あのキスがブレーキをかけてるみたいな、心に鍵をかけてしまってるような心地。

 たとえばあたしの心の中になかなか開かない扉があるとするなら、その鍵はきっと彼が持っているんだとわかる。

「…………」

 ──なんちゃって。

 あーあ、こんな比喩、二年前のあたしなら好きじゃなかったのに。


 長い片『恋』の気持ちは、あたしをどんどん『変』にする。



       ◇



 一二月二四日。イブ以外で何の日かご存知?

 そうなの、あたしの誕生日!

 おめでとう胡桃ちゃん、ハタチだよ! 素敵なお姉さんになるのが夢だったよね、憧れを叶えられる『ハタチお姉さん』にならなくちゃ!──と、内側にいる子どものあたしインナーチャイルドにだって語りかけちゃう。


 そんなモノローグはまぁ、さておいて。


 この日あたしは、彼とお出かけを予定してた。いわゆるデートなわけ。彼の誕生日振りのそれだよ、緊張しないわけない!

 しかも世の中はクリスマスと年末の魔法に同時にかかってて、どことなくソワソワしているし『心此処に在らず』感が充満してる。

 もちろん、あたしだってそんな魔法にかかってる一人。あたしこのソワソワ感は、嫌いじゃないんだ。

 ゼミの集まりを終えてから、友達とお昼を学食で食べて、その時に軽くお祝いしてもらった。あたしが彼と会うことを知ってるごく少数の友達だし、なんなら「早く行け!」なんて囃し立てられて一三時には大学を出た。

 外気は澄んでいて冷たくて、呼吸の度に肺の奥底が凍りつくようなイメージ。どこからか灯油の匂いもするけれど、それもこの時季ならではの匂いだってあたしは思うの。

 ほら、丁度雰囲気を盛り上げるみたいに細かい雪がチラついてきた。

 掌に乗せて見た粒雪は、まるで発泡スチロールをポロポロにしたあの粒みたいな大きさだった。ギュっと固くて、でもほんの五秒足らずでジワアと溶けてあたしの掌の内に消える。

 彼との約束は「一五時にターミナル駅の南口改札」だから、まだかなり余裕がある。

 一旦実家に帰って、メイクを直して、服を着替えて、今日のこの日のために買った靴に履き替えて「いってきます」。

 アイボリーの首広オフショルダーセーターに深紅のプリーツミニスカート。ニーハイソックスはちょっとだけ冒険してかわいいボーダーにしちゃった。スカートの色と合わせたくて買った深紅のエナメルパンプスは、なんと『OliccoDEoliccOオリッコデオリッコ』って世界で有名になりつつあるブランド品なの! あたし頑張っちゃったよね。それらの上から、カーキのモッズコートを着て、「出陣!」とばかりに玄関を開けた。

「わあ! 積もると思わなかった」

 玄関外のアスファルトの黒のほとんどが、既に雪の白に塗り替えられていた。粒雪はふわふわと軽い綿雪に変わってて、きっと牡丹雪になったらズンと積もるんだろうな。

 頭の中ではジングルベルがエンドレス・リピート中。たまにあたしの名前の由来にもなったチャイコフスキーの『くるみ割り人形』の劇中音楽を思い出す。その内の『雪片のワルツ』を鼻歌しながら、ターミナル駅に向かおうとバス停まで来たの。

 バス停には屋根が付いてるから、その下で雨宿りならぬ雪宿り。バスは一四時六分に来る予定だし、あと何分ねと口角も上がる。

(■■■はきっと二分だけ遅れるだろうけど、早めに行っとかなくちゃね)

 右側をずっと見ていたあたし。それはバスがやって来る方向。早く来ないかな、と一分が長く感じる。

「あれ?」

 ふと、視界の端に見覚えのある茶色い猫っ毛を見かけた。

 彼だ。

 辺りをキョロキョロしながら、まるで何かを探してるみたいな仕草。

「■■■!」

 片側二車線の向こうの歩道にいる彼は、そう叫んでもあたしに気が付かない。車の往来もそこそこある国道なんだもの、声なんて消えちゃうよね。

 彼はどんどん離れていく。バス停からもあたしからもずんずんと遠退く。

(まだ、ターミナル駅に行かないのかな)

 あたしは眉を寄せて遠くなっていく彼を目で追う。ぎゅっと右を再び向けば、路線バスが鼻先だけ見えちゃって、あたしは咄嗟にどっちに行くべきかを迷った。

「あーもう! どうしろってのよ」

 屋根付きバス停までようやくやって来た路線バスは、ビーッと哭いてドアを開ける。あたしが入るのをソワソワと待ってるから恨めしく一睨み。こんなタイミングで来るバスが心底憎くなる。

「しょうがないなぁ……」

 あたしは踵を返して、彼を追うことにした。ごめんね、バスくん。


 雪は、牡丹雪に変わっていた。



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