胡桃 2

胡桃くるみ、今日の新歓しんかん行ける?」

「ゴメン、待ち合わせあるから行かない」

「彼氏ィ?」

「違う、彼氏居ない!」

「いい男いっぱいだよー? ホントに行かないの?」

「いい男なら譲り合ってちゃダメだよ、あたしの代わりに捕まえてきて!」

 あれから、あたしは国立大教育学部の一年生になった。

 実家から通える距離の国立大。彼と一緒に通おうと約束していたその大学へ、あたしは今一人で通ってる。

 新入生歓迎会だったり、あらゆる飲み会を断っても尚、あたしには向かうところがあった。それは──。

「ゴメンお待たせ!」

「おーう、胡桃」

 ──そう。その彼と待ち合わせ場所。

「予備校どう? 今日も平気だった?」

「心配しなや、大丈夫」

 彼はあたしと同じ大学を受けたけれど落ちてしまって、心機一転浪人することに決めた。

 長い人生八〇年、その内の『たった一年』を足踏みすることくらい他愛ない──そう言って彼は前を向くことにしたのだと笑った。まぁ『されど一年』という厳しい一言は、あたしの中だけに留めとくけど。

「なんかな、気持ちに余裕出来てる気ィするん」

「余裕?」

 並び歩きながら、彼はそうして茶色く柔らかい髪の毛をフワフワと揺らす。

「現役合格しな全部ダメんなるって思っとったけど、もう先に胡桃が通ってるからな。素直に胡桃がいるところを目指せばいいだけやーて、肩の力抜けたんよ」

 ん? と、あたしは首を傾げる。

「たとえ胡桃の後輩になったとしても、あと四年はこうやってられるって安心できたから。変に焦らんでも良くなった分、オレに余裕出たなってな」

「だっ、ダメだよ、何言ってんの! ちゃんと次の春には合格して一緒に三年間は通おうよ。そのための浪人だよ」

「はあーい、胡桃パイセン」

 また気の抜けた返事する……と、あたしは口を尖らせた。


 口といえば。


 あの冬の終わりの濃密な口付けは、結局あれ一回きり。

 再びなんとなく顔を合わせた時には、あっさり『普段どおり』を出来てしまっていた。まるであのキスは夢だったみたいにどっちも敢えて触れたりしない。それでもなんとなくは気まずい瞬間はあるというか、確実に意識し合ってることもまた事実だった。

 だからあたしからは「好きだ」とか「付き合って」とか、そんなこと言えるわけなかった。なんとなく、彼もそんな感じだった。

 近付きたいけど、近付いた途端に訪れてしまうかもしれない別れが怖い──そうやってあたしたちは、お互いを確かめ合うこと無くナアナアのまま、再びセンター試験の冬を迎える。



       ◇



「おめでとう! ■■■!」

「ありがとー、胡桃!」

 案の定、肩の力が抜けていた彼はそうして一浪で大学進学を奪取した。もちろんあたしと同じ国立大の教育学部。

「春から一緒に通えるね、本当になったよ!」

「ほやね、楽しみだ。胡桃と同じ学校、夢にまで見た景色がようやっと見れんのかって思うと、もうニヤニヤするわ!」

「フフッ、浮かれすぎ」

 こう自然に笑い合っていても、あたしたちは高校生だった時と何も変わらない。

 お互いに好きだとか恋だの愛だのを、相変わらず口にはしない。教育学部に一緒に通うことだけを口にして、それ以上にもそれ以下にも、また他で『そう』なろうとも思っていなかった。

 本当に不思議で中途半端な関係だと思う、心から思う。

 それでもどうしてだろう。

 その中途半端さが丁度いいぬるま湯で、心地よくて、抜け出したくなんてなかったの。まさか抜け出すことなんて、考えもしない。

 だって怖いもん。

 彼との微妙なこの関係が崩れてしまうのは怖い。

 手も繋がない、抱き合いもしない、まして裸の付き合いだなんて、畏れ多くて考えもしない。

 ……心の底では、あたしは密かに望んでいるけれど。




 そんな風にして、彼の浪人生活はすんなりと幕を下ろした。



       ◇



 一緒に大学に通い始めたあたしたちは、今まで以上に一緒に居る時間が増えた。

 彼は大学で多少モテていたけど、本人は全く気がついてなくて正直焦った。

「■■■くん、彼女居ないんでしょ? さっきそーゆー話、聞こえちゃったんだぁ」

 あの夏の日の、食堂の一角。

 たまたま見かけた彼の後ろ姿に近付こうとしたあたしは、ランチのお盆を持ったままぴたりと足を止めた。その場で聴覚だけを研ぎ澄まして、その話だけを耳に確実に入れるように努める。

「合コンやんない? 三対三の」

「ゴーコン?」

 近場の空いているテーブルへ静かにランチを置いて、視線を逸らさずそっと腰かる。全力待機の姿勢。

「そーそー! お酒はナシだけどぉ、まぁ三対三でご飯したり遊ぼー的な」

「へーえー、楽しそやねぇ」

 そんな誘い文句を平然と、しかもハテナを浮かべてご丁寧に聞いてるんだから、ズカズカと歩み寄って「バカちん!」って頭を叩いてやろうかと思ったくらい。

 でもダメダメダメ、我慢我慢。あたしは彼の『何でもない』。

 深呼吸なんかで落ち着かないけど、とりあえず深呼吸。それから知らんぷりをして、彼のその後ろ姿を長机三つ分の距離からわなわなと睨んでた。

「でしょォ?! 次の日曜の夜なんだけどォ、空けてよ、お願ぁい」

「メンツはこっちで用意出来てるからぁ、ねっ?」

 そうやや屈むように頼む女子二人を、彼はニッコニッコと見てた。あーもうっ、なんか腹が立つ。

「けど、オレ女の子ン中に知り合いおらんと行かんよ?」

「あたしたちが居るから大丈夫でしょ!」

「そーそー、講義一緒だもんねぇ?」

「それに新しい出逢い、した方がいいよぉ」

「そーそー、新しい出逢いっ。運命的なの見つけようよォ」

「新しい出逢い……」

 言いくるめられるなよ、とまるで呪いみたいな視線を彼の背に刺す。ていうか、こんなときに限ってあたしは、どうして豪華B定食にしてんの? 味なんて何もわかりゃしない!

 彼はだけど「うんっ」とひとつ頷いて、にっこり笑った。

「ちょお考えとくわ。その日ィ、オレ予定あるし」

(え、予定?)

「えーっ、マジぃ?」

「ホントにダメなのォ?」

 彼の予定、ってなんだろう。

 大概の事は把握してるあたしですらも、初めて聞かされた「予定」にはポカンと口を開けた。

「勝手にオレだけで決めれんし、もしそっち断られたら行ったってもいいよ。そんくらいの気ィでおって」

 なんともまぁ、上手い逃れ方ですこと。

 あたしは変に感心しながら豪華B定食に箸を入れた。

 それにしても、彼の最優先の予定って何かな。親が帰ってくるとかだったら、あたしいつもきちんと聞いてたもの。こんな風に曖昧な予定なんて、今まで知らない。

 そう思ったら、胸の奥がザワザワとささくれ立ったみたいに荒れ始めた。落ち着かなくて、焦るような……何かな、この感じ。

 それ以上は、胸が詰まっちゃって昼食が喉を通らなくなった。瞼を伏せて長く重たい溜め息が続々と漏れる。

「あ、お残しや」

「え」

 突然、向かいに彼が来てた。俯いてた顔をガバッと上げて、瞬きもそこそこに焦点を合わせるけど、状況把握がなかなか終わらない。

「胡桃めっけたっ」

 そうにっこりと笑った彼は、豪華B定食のヒレカツをひとつつまみ上げて一口でその口の中へ放ってしまった。結構大きいよ、ソレ?

「な、オレお昼終わってしまったから、ここで待っとっていい?」

 向かいの椅子を引きながら問う彼へ「もちろん」と出かかった。いやいや、と慌てて飲み込む。

 さっきまで繰り広げられてたゴーコンの約束や、あたしも知らない『彼の最優先予定』を知ってしまった上で可愛く微笑めるような『天女胡桃様』は、生憎永久にお暇を戴いてるの。

 目を逸らして、眉を寄せた。

「何でもいいけど、早くアレに返事しなさいよ」

「へ?」

 フンと刺を纏わせて顔を逸らす。もう豪華B定食が台無し。

「誘われてたじゃん、飲み会。行ってくれば?」

「えー? けどその日ィ、オレ誕生日やし」

「へぇ」

 誕、生──あっ!

「いやいや、そうじゃん、誕生日!」

 やだあたし、「次の日曜日」が彼の誕生日だって気が付かなかった!

 いや覚えてたよ?! プレゼントだってすっかり用意してるしこれから予定を訊いて一緒に──。

 そこまでぐるぐると廻ったところで、あたしは箸をパチンと置いた。

「ていうか、予定って誕生日ソレ? ご家族と会うならそう言えばいいし、それとも他に、なんかそのォ、特別な……」

 尻すぼみにゴニョゴニョと問いかける。知らないところで彼女でも作ったとかだったらどうしようって焦ったから。

 けど彼は「は?」とハテナを浮かべて首を捻ったの。

「まだなんも無いよ」

「へ?」

「最近、毎年胡桃にお祝いしてもろてたし、今年はどうなるんかなぁって、ちょお期待して待っとっただけ……」

 へへっ、なんて照れ笑いを挟んで、彼は珍しく耳を赤くしてた。遠くに視線をやったり、口呼吸になりながら落ち着かなかったり。

 あぁ照れてるな、って簡単にわかっちゃった。そして不意にあのキスが蘇って、胸の内を乱すだけ乱して去る。こんなの、彼が期待してる返事をするしかなくなっちゃったじゃない?

 彼は口をすぼめてやけに饒舌に話し続ける。

「胡桃が、もしやよ? もし、その、どぉーっしても暇やぁ! ってなら、そのっ、オレその日ィ空いとんよなぁ……」

 もう、バカちん。こっちのほっぺたが熱くなる仕草で言わないで。

 あたしは思わず緊張を逃す溜め息を噛み殺してから、渇いた口を開いて言ったの。

「あっあたしもその日、その……『たまたま』空いてるってゆーか? まぁ? ■■■の行きたいところとか、したいことに、つ、つっ……付き合ってやってあげてもいいってゆーか? まっそんな感じ?」

 長くなった前髪を撫で付けるように分けて、肩を縮めてそっぽ向く。恥ずかしくてとてもじゃないけど彼のこと直視出来ないもん。

 しばらくしてから、彼がブッと吹き笑いをしてヒーヒー笑いだしたの。目尻に溜まった涙を「ウケる」なんて言って拭いながら。

「じゃあ、胡桃のその『たまたま空いてた』お休み、オレにプレゼントしてぇや」

「プッれ──」

 あぁこの顔よ、あたしの胸の真ん中にズキュンとくる笑顔。


 あたし、これが大好きなんだ。


 不意に思い出しては泣きたくなるくらい愛おしいと感じる彼の笑顔──あたしはこれを一番近くで見るために、あれだけ勉強を頑張ったの。

 沸々と腹の底の方で熱く滾る想いに「まだダメ」と必死に言い聞かせて、彼へちょっとぎこちない笑顔で返す。

「バカちん。言われなくても……」

 それ以上あげられる準備はできてんのよ。

 覚悟は、ないけど。



       ◇



 彼の誕生日は六月の下旬で、だから彼は蟹座なの。あたしは山羊座なんだけど、これが信じられないことにものすごく相性がいいわけ!

 占いの結果を見て跳んで喜ぶなんて、なんだか小学生みたいな心地だったけどもういいの。自信がついちゃってあたし、だんだんというか、どんどんというか、彼の誕生日を境に彼のご飯の世話とかまでしちゃうようになっちゃったわけ。


 これがあたしのダメなところ、ハァ。


 その占いにも書いてあったんだけど、山羊座は真面目で頑張っちゃうタイプみたいだから、『お母さん』になりがちなんだって。

 それはダメだと思ってたんだけど、なんだか止まんなくなっちゃって。気がついたら彼の洗濯物畳んでた。

 あーもう! あたしが描いてたのはこんなんじゃないの!

 大体順番がおかしい。溶けちゃうようなキスから始まったのなんてホントおかしすぎるもん。


 そう、アレはもう今やすっかり記憶の彼方にされちゃってる。もちろんあたしは大切にしてるよ、彼はどうだかわからないってだけ。

 時々一人で思い出してはあの意味について考えてるし、彼と一緒にいる時間の意味についても考えたりしてる。

 逆に、それ『しか』そういう思い出はないし、それ以外に何もお互いに『仕掛けない』。ギリギリの均衡が崩れないようにというか、まるでグラスに入った水の表面張力スレスレに、コインを一枚ずつそっと入れ込んでいくゲームみたいな心地。




 でも今ならわかる。

 そんな地盤グラグラの均衡は、簡単に崩れる日を今か今かと待っていたのよ。



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