記憶回帰

胡桃 1

 彼と初めて出逢ったのは、高校二年生で入った塾の教室。いつも決まって二分だけ遅れて教室に入るから、顔も名前もすぐに覚えた。

 ちょっとタレ目で、いつもヘラヘラ笑ってる彼は、茶色い猫っ毛がまるでパーマをかけているみたいにふわっふわで柔らかそうなの。それが動く度に跳ね踊るのを見て「緊張感がないな」なんて思ったっけ。

 縦に長くてモヤシみたいに白い、そんな軟弱そうな体格なのに、意外と近くで見ると肩とか腕ががっしりしてたりして、心底ハッキリしない人だなって思ってた。

胡桃くるみちゃんって頭ええね」

 そう話かけられたのがファーストコンタクト。いつもあたしの真後ろの席に座るから、あたしの点数が見えたみたい。

 この頃の彼、関西の訛りが残る話し方をしていたの。イントネーションがわりと違うから、なかなか耳慣れしなかった。

「まぁね。それなりに頑張ってるから」

 怪訝な表情で半分だけ後ろを向いて渋々答えてあげたの。こんな感じで『わざと』『スゴく』感じ悪そうにね。だって『問題アリ』な人と近付きたくなかったもん。

 なのに彼、にーんまり笑って「ほーねんやぁ」だって。超気が抜ける返事だったからムカッとしたのをよく覚えてる。


「胡桃ちゃん、ここどやって解くん?」

「何でこーなんのォ? 胡桃ちゃん」

「導き方がわからん。教えてーな、胡桃ちゃん」


 それからというもの、事ある毎に彼は後ろの席からあたしに話し掛けてくるようになった。大抵どうしてあたしに訊くのかわからないことばっかりを敢えてあたしに訊いてくる。

「もう! ここ塾なんだから、あたしじゃなくて先生に訊いてよっ!」

 数週間経った頃、あたしは後ろをガッツリ振り返って彼を怒鳴りつけた。もちろん、誰も居なくなった塾の教室で。

 彼は目を真ん丸にして、それからなぜかにーんまりと笑ったの。

「ようやっとこっち向いてくれた」

「ハアっ?!」

 なんでも彼は、あたしと『眼を見て話がしたかった』と言った。だからわざわざ何度も勉強に関することを問いかけてきたのだと打ち明けた。

「かっ、振り向けば顔見れる、前の席に座れば?!」

「それやと胡桃ちゃんが前見えんやん? オレただでさえデカいし。胡桃ちゃん、なんぼなん」

「一五二センチだけど」

「へへえ! ちぃちゃいなぁ!」

「何、バカにしてんの?」

「可愛いって、言いたかっただけやよ」

「ばっ……」

 彼のその不器用さに「バカちん」と頬が緩んで、そしたらその瞬間から彼の事が突然色鮮やかに見え始めたの。


 これを、人はいにしえから漢字一文字でこう言うのよ。

 『恋』──ってね。



       ◇



 彼は独り暮らしをしてた。

 もともとお父さまが転勤族で、けど高校も折り返しだからって学校を変えずに一人で実家に残ったんだって。あまり新しくはないマンションの一室に、一人ぼっちの生活。たまに寂しいって彼はぼやいた。

 意外とあたしの家と近くて、塾の帰り道はいつも一緒になった。だから仲良くなるのに時間はかからなかった。


 彼と話すととても不思議な気持ちになった。

 突然距離がもどかしくなるのに、背を向けて走り去ってしまいたくなったり。彼にあたしの全部をわかってもらいたくなるのに、かと思えば意地悪して教えたくなくなったり。

 今まで知らなかった鮮やかな気持ちが、まるで滝から流れ落ちる水のようにものすごい勢いを伴って、あたしを押し潰そうとするの。

 だからあたしばかり、自然じゃないってわかってた。どぎまぎしたり、おどおどしたり、落ち着かなかったり。たまに酷い事とか、思ってもない事を言ったこともある。だから彼が自然に見えて羨ましかった。


 彼、きっとこんな面倒な女の子は好きじゃない。


 夜に勉強してる時、ふとそんな風に考え至って静かに涙が流れたりした。

 変だよ、恋をしたあたし。

「あっ」

 恋と変って漢字が似てるからかな? 恋するときっと変になるのね。

 そうやって無理矢理に納得してた。



       ◇



「■■■はどこの大学に行くのか決めた?」

「まぁ、なんとなくなぁ。胡桃は?」

 高校三年の夏にもなると、あたしたちはすっかり名前を呼び捨てで呼び合うようになってた。連絡先だって当然とっくに交換してたし、ドキドキするけど家にだって上げてもらったの、何度も。

 まぁ当然『勉強目的』だったけど!

「あたしは、もうちょっと頑張って国立大を目指そうかなーって。学部はまだ決めてないんだけど」

「国立大!」

 この日もこんな雑談をしてるけど、本当は彼の家で勉強中だったの。塾の日じゃないから、いわゆる自宅学習ってやつ。

「そっかー、胡桃は頭ええもんね」

「■■■も一緒に目指そうよ」

「オレぇ? さすがに届かんやろォ」

「フフッバカちん、まだ夏終わってないよ。ほらこれ見て、ここ」

 あたしは大学のオープンキャンパスのチラシを彼に見せた。

「考古学部もあるんだよ。■■■、考古学興味あるって言ってたじゃない? ここきっといいよ」

「考古学部、なぁ」

「一緒にオープンキャンパス行こうよ。あたしそのときに学部いろいろ見てみたいの!」

「あ、教育学部……あるんやね」

「え? あぁ、そうだね?」

 ふぅん、と彼が真剣なまなざしをチラシに落としてるから、あたしはきゅっと口をつぐんだの。だってどんな時でも、彼の集中を邪魔するような野暮な女になりたくないじゃない?

(何を考えてるんだろう……)

 伏せた瞼にドキリとして、じっと見られているチラシに嫉妬したりして。

 ほらね、また『変』。

 ブンブンと首を振って、フゥとひとつ静かに溜め息で『変』を打ち消す。

「オレな、教師もちょっと興味あるんよ」

 彼のその一言で急に意識が引き戻される。えっ、と直前の会話をおさらいして咳払いで戻る。

「教師……先生ってこと?」

 彼は「うん」と頷きながら顔を上げてあたしと目を合わせて微笑んだ。

「昔夢見てたけどな、忘れてたんよ。でも、胡桃にベンキョ教わってて思い出した。そんで、またちょっと憧れたん」

「あたっ、あたしきっかけ?」

「だから胡桃もここの教育学部行かん? 胡桃教えるの上手いしな。そしたらオレも頑張っておんなじとこ目指すわ」

 優しく微笑む彼は、ハの字眉のあたしにそうやってキラキラの未来の可能性をチラッと見せてくれた。



       ◇



 気が付くと、あたしも彼もセンター試験を受けて、一般入試になって、そうやって『大学受験』が終わってた。

 結果、あたしは合格。けど、彼は不合格だった。

 合格発表は学校の都合で行くことになってたから、彼とは別々に見に行ったの。


 メールをしても返事がなくて心配になったあたしは、あの日の夕方、彼の家まで様子を見に行った。

 ピンポンと鳴った玄関チャイムに少し間をおいて、でも静かにドアを開けてくれた。力なく笑って「入り」って言った後、彼は閑散としたリビングでただ静かに外を眺めてたの。

 何も言わない彼はすごく辛そうだった。泣いたり喚いたり残念がったっていいのに、本当にただ静かに座ってるだけ。

「■■■、元気出して?」

「…………」

「また一緒に勉強しようよ」

「…………」

 返ってくる言葉は無かった。

 そりゃそうだよね、あたしだけ合格してさ。あたしはもう受験勉強なんて必要ないんだもん。なのにどうしてあたしが「一緒に勉強しよう」なんて言うのか、彼にしてみれば意味わかんないもんね?

 言った言葉を取り消してしまいたかった。まるで不正解の回答を消しゴムで慌てて消すみたいに。彼を傷付けてしまったと、恥ずかしくなるくらい瞬時に後悔したの。

「ごめん、デリカシー無かった」

 脱いだコートをやっぱり着直して、とた、とリビングから出て玄関へ戻った。もうあんな彼を見ていられなくて、傍に居てあげたいけど彼の邪魔でしかないのも同じくらい辛かった。

「──待って」

 掠れた声で、語尾を上げて呼び止められたあたし。学校指定の黒いローファーを右足だけ履いた後だったから、なんだかいまいち変な格好で振り返った。

「どう、したの」

 彼がずんずんと近付いてきた、いつにもまして真剣なまなざしでね。

 もう顔も見たくないだとか、連絡してくるなだとか、そんな言葉を言われてしまうんじゃないのかって怖くて密かに震えてた。胸の辺りも薄ら寒くて、こんな緊張感、受験の方がマシかもって思えた。

「帰らんで」

「え」

「一人ンなりたくない、今」

 ドキっとした。

 あたし、傍にいてもいいの? って、急に頭の中に自問自答の言葉が駆け回った。耳に張り付く鼓動は何が原因?

「■──」

 名前を呼ぼうと思ったら、瞬きの速度よりも速くあたしの顔面は彼の胸の中に埋まった。

 きつくきつく、肩を鞄ごと抱き締められてた。

 下腹部の奥の方でキュンとなって、内モモがゾワゾワ波打った。偶然のしゃくり上げるみたいに吸った鼻呼吸で、彼の体温と匂いがわかって途端に目の前が霞んだの。

「■、■■?」

「オレ、落ちた。大学落ちてしまった……一人で立ち止まるンは怖い」

 あたしと会話したくなかったわけじゃなかった、と、どうしてか急に安心した。ジワアと鳥肌がたって、やっぱりハの字眉にしてたと思う。

 やがて、肩にかかっている彼の指先が震えてる事に気が付いて、彼の日常がこんなにも孤独なんだって事を知ってしまったの。

「独りにせんで、胡桃っ。置いてかんで、幻滅せんで……頼む」

 彼はそう震えながら溢した言葉を、あたしの首筋に押し当てた。

「幻滅なんて、しないよ。一緒にがんばろって、■■■が言ってくれたんだよ」

 あたしはようやく彼の背中に腕を回せた。ポンポンって、子どもをあやすみたいにさすってあげた。

「あたしは■■■の傍に居たい、これからも。だから──」

 そしたらゆっくり腕の力が緩んでね、凄く近い距離で彼に見つめられたの。

「──!」

 続きを言うつもりが、その瞳に言葉を忘れた。息を呑んで、口がポカンと開いたままになった。

 変な顔になってないかな、顔赤すぎないかな、可愛い顔で居たいのにきっと出来てないだろうな──そんなくだらないことばっかりが頭の中を占めていた。今まで見たことない、彼の真剣で不安そうなまなざしに、あたしは呼吸を忘れてた。

 気が付いたら瞼を伏せてて、顎をちょっと上げて、彼の生暖かい吐息を塞ぐように勝手に唇を重ねてしまったの。あたしから。

 柔らかい、でもちょっとカサつく彼の唇は、吐息の温度とは真逆で少し冷たかった。あたしはどうだったかな、もうわからない。

 三秒もそうしていたかな、でも体感は三〇分に感じたの。

 ヤバ、と思って唇を離すと、一瞬だけ片目と片目の視線がぶつかった。

 で、今度は彼に求められたの。

 「あ」の形のまま口を塞がれて、まるで噛みつくみたいなキスだった。

 あんまりにも濃密だから、吐息に「ふ、んんっ」なんて聴いたこともない甘い声が勝手に混ざって漏れた。それを飲み込ませようとするみたいに、躊躇いなくヌッと舌が入ってくる。最初はそりゃびっくりしたけど、気が付けば自然と絡めてて──。

 恥ずかしくて目なんか開けられたもんじゃない。

 呼吸だってままならないし、膝の力は抜けそうだしで体温もかなり上がってたと思う。漫画とか小説でよく見かける「気持ち良さ」なんてまるでわからない。

 暑かった。とにかく。

 何度も何度も、その噛みつくような激しさのあるキスと、舌を吸い尽くすような艶めいた音と、温度と、感触と。絡まる舌にも、漏れ出る吐息も、全部に知らない甘さが匂っている。

 こんなの教えてもらったことなんてない。多分これが大人の匂いなんだ、きっとそうだ。

 一瞬だけ解放されて、でも次の瞬間には角度が変わってまた吸い寄せられるように深く改めて塞ぎ合って──。

 強くて熱い、欲望にひれ伏すようなこのキスは、まるで補食の瞬間みたいに思えた。

 実に肉体的で、どんな繋がりよりも深いところがリンクするような。


 これ、何のキスなの?

 どんな意味のキスなの?

 そもそもどうしてキスをされたの?

 どうしてキスを、したくなったの──?


 わかりたいけどわかりたくない。無知を徹したいけど全部わかりそう。

 だって、一八才だもん。


 どちらからともなく離れたら、やっぱり離れがたくて顔も見ずにまた抱き合っていた。何も特に話すこともせず、単純に腕を回し合って。

 本当に、空気になるんじゃないかと思うくらいの無言が淡くあたしたちをくるむ。




 結局、そのまましばらくしたらあたしは家へ帰っていたの。何と言葉を交わして玄関を開けたのかなんて全く覚えてないよ。

 心臓の鼓動だけが、いつまで経っても収まらなくて、大学に合格したことなんてすっかり忘れてたんだから。


 それくらい濃密で甘くて、背徳感の伴う口付けだったの。



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