煉瓦道のドア

サニー 1

   ◆   ◆   ◆



 とある記憶の断片──。

 これは、まだ幼かったふたりと、とある老人の静かな出来事。



 陽当たりの良い古い縁側に腰かけた老人が一人、その背を丸めぼうっとしていた。そこに程近い部屋の畳の匂いはすっかり枯れ、やや古くなった埃が空気中でチラチラとしている。

「じいちゃん、来たよ。こんにちは」

 そこへ、じいちゃんと呼ばれた彼の孫とその友人が、二人で手を繋ぎやって来た。九才の彼らは、老人のよき話し相手である。

「今日も、やっぱり元気ないね?」

「あ、あぁ、ごめんな。せっかく遊びに来てくれたのになぁ」

 孫と友人は、老人の元気のない近況を幼いながら懸命に心配していた。二人とも眉尻を下げ、不安そうに老人を窺う。

「ばあちゃんが居ないと、やっぱり寂しいよね……」

 そうして小さく背を丸める孫へ、老人は力なく微笑みその頭をそっと撫でた。

「それはお前もだろう、日向太ひなた。おばあちゃんが本を読んでくれる声がなくなって、昼寝ができないし落ち着かないんじゃないのか?」

「でも。あれが好きだったのは、じいちゃんもでしょ?」

 バレたか、と老人は目尻のシワを増やした。

「仕方ないね。あの声は、とっても聴いてて心地よかったんだから。昔から、ずっとね」

「おじいちゃんは、おばあちゃんのことがとっても好きなんだね。今でも……きっと、これからもずっと」

 孫の友人がそう微笑むと、老人はハッと気が付いたように息を呑んだ。その瞳の奥の不思議な揺らめきを、老人はその昔に見たことがあるような気がしたのである。

「…………」

 しかし、どこで見たのやら。少しも思い出せはしなかった。

 老人は、認知症やアルツハイマーなどの記憶障害にかかることもなく、身体もいたって健康体。気を付けるべくは、血圧と肩の関節の炎症のみだとかかりつけの医師から診断を受けたばかりであった。

 不思議な既視感に首を捻りつつ、孫の友人へ「そうだよ」と溜め息に溶かし、続ける。

「ばあちゃんは、じいちゃんの大切な大切な人なんだ。どんなに遠く離れたとしても、例えどんな姿になっても、きっとじいちゃんはあのばあちゃんを絶対に好きになる。一緒にいられるような努力を、きっと生まれ変わってもするだろうね」

「生まれ、変わっても?」

「ああ、そうだよ」

 老人は、木枯らしがその葉を散らし枝木となった桜の木を見上げた。

「本当に生まれ変わりができるなら、じいちゃんはまたばあちゃんと出逢って、ばあちゃんと笑って暮らしたいね」

 子どもたちの前で老体の涙など見せられまい、と老人は涙を堪え上を向いた。

 空の高さ、薄郡青の透明感。「さぁ、この老体の涙を溶かせ」と願うように見上げる。シワの寄る唇を噛み涙粒を堪える。

「あ! ねぇ、おじいちゃん。お守りあげるよ」

 突如思い付いたかのように、孫の友人がその声に花を咲かせた。

「お守り?」

「そう! きっと元気の出るお守りだよ」

 孫の友人は、そうして自らの首からぶら下げていた鍵をちらつかせ、かけていた紐を首から外す。

 鍵は、仰々しい装飾で飾られており、金色をしている。一般的な住居の鍵とは絶対に合致しないようなゴツゴツする過度な凹凸おうとつに、眉間はどんどん狭まるばかり。玩具にしては金属感がありすぎるような、しかし本物にしては用途が不明で、老人はポカンと困惑した。

「それ、本当にいいの?」

 孫もさすがに引き止めに入る。孫の友人はしかしなんでもないように「大丈夫だよ」と微笑んだ。

「『しさくには使えない』って、お父さまがいってたもん。でもきっと、お願いは叶えてもらえるよ」

 孫の友人は、老人へそれを差し出した。

「はい、おじいちゃん」

 その小さな両の手から溢れてしまいそうな鍵は、それがいかに大きいものかを再認識させる。「ありがとうね」と老人が受け取ろうと手を伸ばしたその瞬間、孫の友人はフッとひとつ息を吐き目を閉じた。

 突然、辺りにひんやりとした空気が漂う。音がシン、と不自然に静まり返る。なぜか薄紫色に淡く発光し始めた孫の友人は、目を伏せたまま鍵へ言葉を纏わせだす。

「──これは約束の鍵だよ。また出逢えるように、お祈りを込めておくね」

 孫の友人は、まるで耳元で囁くかのような音量で言葉を並べる。しかしその声はやけにはっきりと、老体の奥底にまで染み入るように感じられた。

「だからもう、そんなに悲しまないで。いずれまた、おじいちゃんとおばあちゃんが、こうして逢えますように──」

 小さな子どもを寝かしつけるかのように優しく、鳥の羽で撫でるかのようにそっと、そして貴重品を扱うように丁寧に。その声色が心地よく、懐かしく、失ってポッカリ空いた心の穴のささくれを柔らかく包む。

 ふいに、どこからともなく柔らかな風が巻き起こる。それは孫の友人の周りにのみ吹いていた。

「こ、これは──」


「じゃあねー!」

 ハッと気が付くと、老人は自宅の玄関先にいた。孫とその友人を見送り、彼らの小さな背に手を振っていたのである。

「あれ、どうして……」

 振っていた掌を下ろし、見つめる。あまりにもしわくちゃになった、かつては大きかったこの掌。指先の爪も硬くなり厚みを増し、自らの祖父の手先に似てきたなと過る。

(もしや、今のは白昼夢だったかな)

 老人は再び薄群青の空を仰ぐ。もうすぐ寒い冬がやって来る季節か、と細く長い息を吐いた。

 息の白さに、 老人は一人、今を生きていることを覚った。



   ◆   ◆   ◆




 ──バタン。




       ◆



 『ドア』を開け踏み出した途端、床が抜けた心地に驚き「どわあっ?!」と蘇芳は叫び転んだ。

「きゃーあっ!」

 ゴロゴロ、と少しだけ転げ落ち、「ってーなぁ」と打ち付けた両膝を擦り庇う。その地面には煉瓦が敷き詰められており、瞬時に蘇芳は「近代に出たな」と理解した。

 慌てて『ドア』を振り返ると、いつものように音もなく下から上へと、まるでシュレッダーにかけた重要書類のように霧散するところであった。

 『ドア』があった位置は、地面よりも六〇センチほど高い、無数の木箱が乱雑に山積みされたその上であった。そして、撫子の時代で出た小路こみちよりもはるかに狭く、そもそも『小路』とも呼べないような場所であるということもわかった。ゴミや汚物の臭いがしないことが救いだったかもなと、蘇芳はつい苦い顔になる。

 『ドア』が完全に消えてしまうのを見届けると、蘇芳はよし、と意気込み頷いていた。

「もーう、すぅちゃん! しっかりしてよォー!」

「俺も転げ落ちたんだ、俺は悪くねぇ」

「違う! 重いのっ!」

 そう言われ、はたと気が付く。

 蘇芳は尻もちをついており、その下敷きになっているのがくぅであった。

「わーっ、ワリぃ! 立てるか?!」

 慌てて退け、「掴まれ」と右腕を出す。

「いったあーい! もーおっ、信じらんなぁい。レディーを下敷きにいつまでも座り込むなんてぇ!」

 むんずとその手を掴み、くぅが立ち上がる。口を山型に曲げ腹這いになっていた部分の汚れを払い落とし始めた。

 くぅは、やけに可愛らしい格好をしていた。

 センター分けにした色素の薄い髪の毛は、『狭間』のときと同じ長さで肩に触る程度の内巻きボブ。それをツインテール様にハーフアップにし、大きな深紅のリボンでひとつずつ結わえている。同じ深紅の色のビロード生地に似た見た目のワンピーススカートを着、その中に白いハイネックの長袖ブラウスを着ている。足に穿いている赤い靴はよくわからない何かの布製で、全体的にくぅによく似合っている。

「大丈夫だ、案外何ともなってねぇよ」

「すぅちゃんは頑丈だし無傷だったろうけどぉ! あたしは『か弱い』んだからもっと丁寧に扱ってよねっ?!」

 へぇへぇ、と肩を竦めつつ溜め息で誤魔化す。口を開けば生意気の覗く、いつもの調子に密やかに安堵していた。

 一方蘇芳は、こけ色という褪せた深緑色のベストとスーツパンツとハンチング帽、ねり色という黄みがかった白い立ち襟スタンドカラーシャツ。焦茶の革製ループタイを首から下げ、珊瑚さんごのような浅い朱色の丸い留め具で飾っている。

 この珊瑚色の留め具は、撫子の時代で頂戴した荷が変容した物のように思えた。

 足元の焦茶色の革靴もなかなかの渋さで、蘇芳はつい頬が緩む。

「今までで一番いい格好してんな、俺ら」

 しげしげと互いの格好に頬を染め合う。

「うん。すぅちゃん、なんだか小綺麗だね?」

「俺はもとから小綺麗にしてましたぁ」

「そーなのォ? 結構学ラン着崩してたのに」

「うるせぇな……」

 小言に目を細め、蘇芳は辺りをゆっくりと見渡した。

「つーか、夜さま平気か? どっかで潰れてねえ?」

 山積みの木箱、建物の壁、小路の出口とポツンと立っているくぅ、そして再び建物の壁。

「夜さま?」

「…………」

「…………」

 互いに顔を見合わせ、しばし固まる。

 異変を呑み込むまでに時間をかけてしまったが、その事実を認識するなり二人はサアッと血の気が引いた。

「夜さまが居ねぇっ!」



       ◆



 ドサッと落ちたのは何かの上だった。「ぎゃん!」という多少不細工な声が聴こえたため、人を下敷きにしたと瞬時に判断した。

 確か、蘇芳が『ドア』を開けた瞬間に『ドア』を跨いだのは自分からであったな、と夜さまは『何かの上』に腹を打ち付けつつ冷静に分析する。

「いったあーい! なぁにぃ?」

 そうして夜さまは首根っこをむんずと捕まれ、落ちた先の人間と顔を合わせた。

「あらやだ、猫ちゃん」

「…………」

 夜さまは『人の言葉』を一旦封印する。顎をしゃくりクク、と呼吸を浅くする。

 その人は夜さまの掴む場所を、首根っこから脇腹へ変えた。抱き上げられる夜さまは驚きのあまり、もがくことを忘れていた。

「あらーっ、綺麗なお目々ねぇ。アメジストみたい! なんだかあのコに似てる」

 対面するは瞳の丸い女性であった。

 黒真珠のようなつぶらな瞳は一重の瞼の奥に収まっており、透けるような白い肌と、スッと通った鼻筋に厚みの薄い唇。淡白とも思えるその顔面に、夜さまは警戒心を向ける。

「どうして降ってきたの? あなたは天使かしら」

 毛の赤茶けた黒髪を耳の後ろでツインテールにし、その額にゴーグルを着けている。脇腹を打ち付けた場所はそのゴーグルであったことに気が付くと、夜さまは全身にじわりじわりと走る鈍痛を認識した。

「変ね、ニャーって鳴かないの? ちゃんと息してる? 大丈夫?」

 彼女の腕の中へと納められた夜さまは、全身をくるむその体温にフッと意識を失った。

「あら、気絶! 大変大変……」

 彼女はそうして煉瓦道を小走りに進み出でた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます