狭間

思い出しし希望

 押し開けたノブから手が外れると、途端に『ドア』は背後でバタンと閉まった。

 振り返り見た『ドア』は、やはり音もなく下から上へと、まるでシュレッダーにかけた重要書類のように霧散した。蘇芳は眉尻を下げ「やっぱこれか」と肩を竦めた。


 そこは『狭間』世界。ただ闇のみが広がる空間である。

 前も後ろも左も右も奥行きすらもわからない。やはり自身の身体だけは薄ぼんやりと光って見えている。


 足元、胴体、そして腕へ視線をゆっくりと移していくと、蘇芳の衣服はよく見慣れたものへ戻っていた。

 汚れが目立つようになってきた白いスニーカー、光に当たるとやや赤く見える黒い学ラン、中に真っ赤な無地のロングTシャツ……すべて蘇芳の物である。砂の砦国での未来の衣服は、既に見る影もない。

 加えて、前の『狭間』で肩に掛けた薄汚れた小袖を感じ取りそっと右手で触れる。

「あったか、よかった」

 そうして思わず出た長い溜め息は、完全に安堵のものであった。

 なくさないように、と袖に腕を通す。膝上丈の小袖は羽織には丁度良かった。彼女の温もりは既に無かったが、蘇芳には想い出がある。それだけがあれば、変わらず前へ進めると思えた。

 辺りを一周だけ見渡す。やはり前回のようにくぅの姿も、夜さまの姿も無い。

 蘇芳は深呼吸の後に、可能な限りの大声を出した。

「夜さまーっ! くーぅ!」

 その発した声が反響し反ってくる様子もなければ、果てしない広がりも耳には感じられない。しかし、響かぬまま消えようとも構わないと思えた。もう前回のように怖くはないのだ。

 二人は、この謎の空間に必ず居る。蘇芳は決して独りではない。

 二人の邪魔など誰にもさせない、二人の願いは必ず遂げさせる──蘇芳には強い意思が生まれていた。

「夜さまーっ、よーるーさーまー!」

 こうして声を上げてさえいれば、二人はこの声に誘われやがて再会できる。絶対だ、大丈夫なんだ、と蘇芳は声を上げることを止めない。

「くーうー! くーぅ!」

「やっほ、すぅちゃん」

 蘇芳の背後から突然そう声がかかる。「おっ」と振り返るとくぅであった。手を後ろに組み、小首を傾げ小さく微笑んでいる。

「くぅ、おかえり」

「ふふっ! ただいま!」

 最初の『狭間』で見たまま、くぅはアイボリーのセーターをやはりワンピース様に着、つつじ色とたんぽぽ色のボーダー柄靴下と、その先端には真っ赤なエナメルの靴を着用していた。蘇芳は「あぁそうだそうだ」と思い出し、心のどこかでホッとする。

「そうだ! ねぇ、すぅちゃん。あたしまた視たんだよ、夢」

「夢?」

「そう。『くぅちゃん、くぅちゃん』って、呼ばれるアレ。前にも言ったじゃない?」

 撫子の時代の甘味処で話したあれか、と蘇芳はぼんやりと思い出す。「あぁ」と相槌を打ちながら、夜さまが言っていた『記憶回帰』についてであろうと勘づいた。

「その人にね、『待ってるよ』って言われたの。あんなの初めて視たんだぁ」

 蘇芳から自らの足元へと視線を移したくぅは、くるりと蘇芳に背を向ける。

「ホントに待っててくれてるのかなぁ、『ドア』の向こうの、どこかの時代で。あたし、スゴく気になるの。今までよりもずっと、ずっと」

「…………」

 蘇芳が言葉を選んでいると、くぅは軽くポンと振り返り満面の笑みを向けた。

「すぅちゃんがちゃあんと逢えたのを見たから、なんか変に期待しちゃってるのかなぁ。ちょっとこの辺がザワザワするよ」

 微笑みながら、胸の辺りをぎゅうと握る。思った以上にアイボリーのセーターにシワが寄っていた。想いが強い証拠だと、蘇芳は奥歯を噛み締める。

「あたしも、きっと逢えるよね、すぅちゃん? 『重要な出逢い』、きっとあるよね?」

 そうして蘇芳を見上げるその笑みの向こうに、大きな不安が渦巻いているように窺えた。

 くぅは『代償』にした部分の回顧かいこ速度に、もどかしさを感じているようである。それは、撫子と出逢う以前の蘇芳自分自身とよく重なった。

 軽々しい事は言えないと、蘇芳は口を無意識に固く噤んでいた。

 沈黙に耐えかねたように、くぅは色素の薄い眉をハの字にし、残念そうに肩を竦める。

「ゴメンね! 夜さまに『大丈夫』って言われたばっかりなのにね! なぁんか、急に不安になっちゃうんだー、あたし。どうしたんだろ? 今までずぅっと楽しいばっかりだったのにな……」

 蘇芳は何も言葉をかけられない自らが歯痒かった。思わず小さな舌打ちにし、ひとつ吐き捨てる。

 まるで耳を塞ぐように、くぅは蘇芳へ再び背を向けた。小さく頼りなさ気なその背は、あまり良くない負の色を滲ませている。ついさっきまで溢れていたくぅの朗らかさは、この時ばかりは欠片も無い。

「くぅ。俺にもわかってることが、一個だけある」

 意を決したように、蘇芳は深呼吸をひとつした。夜さまへかけた言葉を、くぅへもきちんと伝えたいと意気込む。

「俺は、この先どんな状況でも二人の力になろうって決めたんだっつーこと。喧嘩と『ドア』開けることくらいしか出来ないかもしんねぇけど、俺はそれでも、夜さまとくぅの『サガシモノ』見つけるまでずっと一緒にいる。どんだけ時間かかってもだ」

 くぅはゆっくりとその身を蘇芳へ向け直す。

 淡く深い栗色のまあるい瞳が再びゆらりと光を宿す。

「一五〇〇年時代……二人が俺の魂のリンクが終わるまでじっと待っててくれたみたいに、今度は二人が『見つけた』ってちゃんとなるまで、俺はくぅと夜さまを全力で手伝う」

「すぅちゃん……」

「そのために『今の俺』が二人の元ここに居るんだ、多分。夜さま的に言えば、『高校生のときの蘇芳』じゃねぇとダメなんだってよ」

 つかつか、とくぅへ歩み寄り、しゃがむなりしっかり眼を合わせた。フッと頬を緩める。左人差し指でそのもちもちの頬へそっと触れる。

「大丈夫だ、絶対に見つかる。最初に『ドア』を開けたきっかけが、くぅにもあったんだ。『ドア』の向こうにゴールは必ずある」

 くぅは、自らに触れている蘇芳の左手の指をきゅうと両手で握った。

「うん、そうだよね。きっと、そうなんだよね?」

 力なく微笑み、くぅは小刻みに何度も頷いていた。

 早く安心したい気持ちは、蘇芳にも痛いほどわかる。しかし、きっとこれは順番なのだとも思えていた。

 夜さまの思い出しが早いか、くぅの思い出しが早いかで、出た先の出会いが成され、記憶回帰のスピードや情報量も変わるのではないかと蘇芳は察した。

(俺の記憶は絶対に無くならないっつーんなら、俺が今しなきゃなんねぇことは、二人の力になることだけだ。これ以上不安になんかさせない。俺が、二人のサガシモノを見つける)

 そう決意を新たに固めると、蘇芳の左手側にボウ、と仄かな灯りを纏い、四つ足で音もなく静かにやって来る小さく黒い物が見えた。

 夜さまである。

 目を細め注視し、ようやくわかった程度の薄明かりに蘇芳は「夜さま!」と声を張る。

「おぉ、すぅ。既にくぅと会っておったか」

 夜さまの目元が柔らかい。とろんとし、覇気に欠ける。いつもの眼光の鋭さが無い。

「夜さまどうしたの?! 眠いの?」

 くぅもそれには異変を感じ取ったようで、夜さまへ駆け寄りその腕に抱いた。

「いや、眠くはないんじゃが……代償にした感情が急激に戻り、処理が追い付かん。複雑な気分じゃ」

 戸惑ってんのか、と蘇芳は眉尻を下げた。

「ヌシらは、何ともないか?」

「俺は平気」

「あたしも。ラグエルに居たときと変わりないよ」

「ふむ、ならば良かった。先は言わなかったが、ひとつ思い出したことがある。然程重要ではないがな」

 夜さまはくぅに抱かれたまま、蘇芳とくぅを交互に見上げた。

「セピアは、儂の転生先のひとつじゃった」

「えっ?!」

 二人同時につい漏れ出た驚嘆の声に、夜さまはようやくアメジストのような瞳をキラリと光らせ、やや微笑んだ。

「無数にある未来のうちのひとつじゃ。まぁそうであってもおかしくはない事ゆえ」

「な、なんでわかったんだよ?」

「魂の形が合致したでな。話をするとまずかったゆえ、セピアとは言葉を交わせなんだ」

 ふぅん、と二人で相槌を打つ。

 蘇芳は「あっ」と濁点を付け、目を見開き、思い出したことを早口で告げる。

「ちょっとタンマ。セピアの旦那って人が俺にそっくりだったんだけど」

「あぁ、それはヌシではないはずじゃ」

「は、『はず』?」

「本人に会えとらん故わからぬがの。儂の魂とすぅの魂が同じ時代に同じ世代で生きゆくとすれば年齢計算が合わん。じゃて、あり得るとすれば、ヌシの『転生先の子孫』、とかかの」

 『子孫』という言葉に漠然とした果てしなさを感じ、蘇芳は力が抜けた。「そーかよ」とその場にへたりこみ、どこかで安心する。

「夜さまこそ、他に思い出したこと何かなぁい?  たとえば、『サニー』のこと、とか」

 くぅが声のトーンを落とし、夜さまのアメジストのような瞳の奥へと問う。

「まぁ。多少は、な」

「多少って? どのくらい?」

 くぅと眼を合わせた夜さまは、まるで観念したかのようにゆっくりと静かな溜め息と共に肩を落とした。

「儂とどのくらいの距離間じゃったとか、サニーのまことの名、などな」

「真の名……」

 呟きゴクリと生唾を呑む。多少なんてものではなく、もはやゴールに近しいほど思い出したことになる。

 蘇芳の心中は複雑であった。

 きっと、くぅの記憶回帰にはもう少し時間がかかるのであろうとわかってしまったためだ。夜さまの記憶回帰が先に済んだのであれば、くぅは嫉妬や羨望に狂わないだろうか。蘇芳はそうしてじっとくぅを窺う。顎を引く夜さまも、同じような心中なのであろう。

「そっか! スゴい、夜さま! よかったぁ!」

「え……」

 思わぬ反応に呆気に取られた蘇芳と夜さまは、口をぽっかりと開けくぅを見上げる。

「『ドア』を潜り続けてリスクたくさん負ってまで捜してる人が、名前を聞いてもわかんないなんて悲しいなって思ってたの! あたしはまだ、名前も姿も思い出せないけど……でも、よかったぁ。夜さまがちゃんと思い出せて!」

 自らのことで不安でたまらないはずなのに、くぅはそんな時でさえも、他者の気持ちに寄り添う優しさや寛大さを忘れてはいなかった。素直にそうして喜べるくぅを、蘇芳は少し羨んだ。

(俺にあのくらいの余裕があれば、くぅと夜さまを安心させれんのかな)

 夜さまはくぅの微笑みを見詰め、小さく「すまん」と俯く。

「なんで謝るの? 嬉しいことだよ! 夜さま、きっともう少しでサニーと帰れるよっ。もう少し頑張ろうね!」

 朗らかなその微笑みは、まるで花咲く春のようであった。暖かな陽射しにくるまれたときの匂いが鼻先をふわりと撫でる感覚すらある。

 夜さまはどこか照れたような、しかし寂しそうな、複雑な微笑みを返した。

 ふと左側が仄かに明るくなった。全員でそちらへ顔を向け、するとくぅが黄色い声をあげる。

「あっ! ほら、次の『ドア』」

 まるで板状チョコレートのような形状、左側に黒色の丸ノブ、高さはおおよそ二メートル二〇センチ、幅は大人が二人並んで通れる程。一同がしゃがみこんでいる場所から約二メートル離れた位置にぼんやりと浮かんで見える様は、やはり蜃気楼のようである。

「行くかの、次の世に」

「あいよ」

 夜さまはくぅの腕からするりと抜け出、二人の前を歩み行く。シュルンとうねる黒く細い尻尾が誘導しているかのように見えた。

「すぅちゃん。手、繋いでてもいい?」

 右隣に並んだくぅが、小さくそう蘇芳を見上げていた。不安なことは不安のまま、くぅの心中で渦になっているのだろうとわかり、蘇芳は躊躇いなくくぅの左掌をムギュと掴む。

「ああ」

 柔らかく、小さな子どもの手であった。スベスベときめ細やかな肌質にやや驚く。

「大丈夫だ、絶対。夜さまの記憶はどんどん戻ったんだ、同じようにくぅも戻るってことだろ。これは証明だ」

 一歩、また一歩とくぅと同時に進み行く。

 不安にはさせない。自分がいる限り、絶対に。蘇芳は繰り返しそう強く願い想う。

「絶対に見つけるぞ、くぅのサガシモノも、全部。そんで、みんな連れて帰るんだ」

 くしゃ、とくぅは顔を歪め、滲む涙をグイグイと拭った。

「もし不安になったら、俺に言え。いつだって支えてやる。くぅのサガシモノの代わりに」

「ありがと、すぅちゃん……」

「さ、すぅ。開けよ」

 うん、と頷き蘇芳がノブに手をかける。

「その内に秘めし想いを遂げさせよ」

「内に、秘めし想い」

「何のため、この『ドア』を開けるか。いつだってそこを忘れてはならぬ」

「当然っ」

 そうして『ドア』を押し開けると、再び見たこともない景色が広がっているのだ。



   ◆   ◆   ◆



 二人の想いを遂げさせたい。

 これ以上、大切な人を忘れたままでなんていさせない──。



   ◆   ◆   ◆



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