セピア 4

 夜さまが目を覚ますと、既に夜中であった。ぐっと前に一伸びした次の瞬きで、その目は完全に暗闇に慣れ、真っ暗な周りを確認できた。

 頭元に、パンのような楕円の塊とミルクのような液体が置かれている。気を回したのはくぅだな、と夜さまは目を細めた。

 少しずつそれをかじり、ミルクにも口をつける。このミルクはキャメルミルクだ、と夜さまは鼻を鳴らした。キャメルミルクは牛乳に比べ栄養価が高い。体力の回復にはもってこいである。

 平らげたところで口元を拭い、右隣の寝台へひょいと飛び乗ると、蘇芳が穏やかな表情で眠っていた。眉間も口元も緊張感が抜けている。半分握ったような開いているような手は顔の横で仰向けになっている。年齢にしては大きい方だが、「まるで赤子のようだな」と、ついフッと笑みが溢れた。

「毒気は、抜けたか。すまなんだな、すぅ。傷付けてしもうた」

 長く細い黒い尻尾を、まるで自らの指先のように動かす。そっと蘇芳の左頬に触れてみる。「うーん……」と首をくすぐったそうに背けたので、慌ててそれを引っ込める。

 起こしてしまうな、と夜さまは寝台から音もなく飛び降りた。

 入り口に垂れ下がる鬱金染めの麻布の間を、スルリと抜けてみる。

「…………」

 邸の中はシンと静まり返っていた。

 どうやらこの部屋は二階のようで、近くに広い階段が見える。

(見張りがいるな)

 階段下に男の気配を二つ察知した夜さまは、それとは反対の方向へ体を向ける。石造りの長い廊下が緩やかな弧を描くように続いていた。

(探索するなら、今じゃな)

 闇に消えるように、夜さまは長い廊下をタッと音もなく駆けていった。



   ◆   ◆   ◆



「また喧嘩したんですか?」

「『した』んじゃねぇの、『吹っ掛けられた』の」

 喧嘩による怪我の手当ては、枩太郎しょうたろう先生がいつもしてくれた。

 この時、俺は口の端を切っていた。ピタと絆創膏を貼ってくれる手は、優しくて大きい。しかも、絆創膏は口の開閉の邪魔にならないように、形を整えて多少ハサミが入れてある。

「あの事があってから、上級生に絡まれることが増えたんだね」

 そうしてやれやれ、と肩を落し苦笑する枩太郎先生は、「終わりました」と救急箱の蓋を閉じた。

「なんかさぁ、仇討ちってよりチャレンジファイト的な? なんかそんなのにされてんだって、俺」

 ぐりんぐりん、と左肩を回すと、どつかれた肋骨の辺りが鈍い痛みを感じた。

「それは困ったな。蘇芳が喧嘩馴れしてしまうのは、先生ちょっと心配です」

「いンだよ別に。負けねぇから」

「良くないよ」

 珍しく、枩太郎先生はキッとしたまなざしを俺に向けた。

「あんまり大きい声では言えないけど、蘇芳は先生にとって特に大事な生徒……いや、『友人』みたいに思ってるんだから。キミが僕のことどうとも思ってなくたって、先生はキミに感謝こそしてるんです」

 それだけ言って、枩太郎先生はいつもの柔らかく優しい表情で微笑んだ。

「ややっ。これだけ聞かれると、なんか怪しい人みたいだね、ごめんなさい。そういう意味じゃないからね? 僕、恋人はいますから、女の人だし」

「知ってるよ。つーか、そんな風に写真飾ってたら、また教頭に怒られっぞ」

 ハハッと笑い飛ばしてやると、枩太郎先生ももう少し笑った。

「やあ、本当だ。危ない危ない! ははは」

 パタンと小さな写真立てを倒し、外のグラウンドを見た。

 野球部が、しこたまグラウンドをぐるぐるとランニングしている様子が見えた。俺には無理だ、あんなこと。あんな、永遠にも思えるような同じことの繰り返しなんて……。

「いいかい、蘇芳」

「ん?」

 ハッと我に返り、野球部から枩太郎先生へ目を戻す。

 夕焼けに少し染まった枩太郎先生は、どこか懐かしい表情で微笑んでいた。

「どれだけ腹が立つ事をされたって、同じことをやり返していいってわけじゃない。やり返してスカッとするのは一瞬だけです。蘇芳はその一瞬の快感のために拳を突き出してるの?」

 俺は静かに小さく首を振った。

「そうだよね。まぁけど、黙って殴られ続けなさいって言ってるわけじゃない。全力で自分を護ったり、友達を助けたいから前に出る蘇芳は何も間違ってないんだ。でも──」

 枩太郎先生はチラ、と俺の右拳の赤黒くなり始めてる痣を見て続ける。

「──捩じ伏せてやろうとしてこっちから攻撃を仕掛けるのだけは、僕は間違いだと思ってる」

 まるでさっきの喧嘩を見ていたように、枩太郎先生は言った。俺はついドキリと、ばつが悪くなって俯いた。

 自分から仕掛けたこの右の一発を思い出した。相手がちょっと怯んだ隙に、「死ね、クソ野郎!」という気持ちをこの一発に込めたんだっけ。

「俺にはまだ、ムズカシイわ」

「またまたァ。わかってるくせに」

 視線から逃れる俺を、枩太郎先生はやっぱり咎めなかった。優しく雄大に構えてくれる枩太郎先生は、俺の心の浄化場所だったんだと、今なら思う。

「さ、もう遅い。そろそろ帰りなさい」

「うん……」

「また明日、ここで待ってますね」

「う──ハイ」

 枩太郎先生は、そうしていつも優しく微笑んでくれたんだ。



   ◆   ◆   ◆



 ラグエルに着いて二日目の朝を迎えた。

「いいって! 夜さまだって回復したばっかだろ?!」

「しかし、ヌシの怪我が治らんことには『ドア』を開けられんじゃろ」

 蘇芳が目を覚ました時、夜さまがその胸の上に乗り右前足を振りかざしているところであった。驚きのあまりつい体を捩ると、左脇腹の激痛に悶え苦しむハメになった。

 夜さまは、回復した魔力で蘇芳の傷を癒そうとしているところだと言った。それを蘇芳は全力で断っている、という状況である。

「『ドア探し』も、これ治ったら俺がやるから! テテテ……もちょっと待ってろって、すぐ、治るから!」

 脇腹を押さえながら背中にクッションを詰め込み、上半身を四五度起こす。

「じゃて、儂が魔法を使えば良い話じゃろ」

 構わないと言わんばかりに、夜さまは相変わらず蘇芳の上に乗り右前足を上方へ掲げる。

「待て待て待てっ! 急に矢傷が治ってたら、セピアたちに怪しまれんだろーがっ」

「良いではないか、別に」

「よくねぇ! 尋問が待ってんだぞ、夜さまとくぅをそれに巻き込みたくねぇのっ」

「ならばすぐにこの邸から出れば良い。夜中ならば抜け出せよう」

「バカっ、昼間外がどんだけアチーのか忘れたのか?! 水だって簡単には手に入んねぇんだぞっ。そんな中フラフラさ迷うっつーのかよ?!」

「何やってんの、すぅちゃん、夜さま?」

 鬱金染めの麻布の暖簾を潜り、くぅが用足しから戻ってきた。

 ここは、トイレというものがきちんと整備されており、それもこの軟禁部屋の隣にあるのだと、くぅは前日に蘇芳へ教えていた。

「くぅも止めさしてくれよ。夜さまがまた俺の傷を魔法で治そうとすんだよ、自分だって全快じゃねーのに」

「とうに全快じゃ」

「ウソつけ! だぁかぁらぁ、そーやって右手振りかざすのやめろっつーの!」

「では少しだけ治すのはどうじゃ」

「夜さまが完全復活しねぇと俺は頼らねぇっ」

「はーっ、まこと頑固な若造じゃのっ」

「『夜さまの知ってる俺』とどっちが頑固か考えながらさっさとグースカ寝とけ!」

 言い合いを聞き飽きたくぅは、やや声を張り忠告する。

「そろそろセピア様が来るよォ?」

「え」

 その一言で、途端に夜さまは蘇芳から飛び退き、寝床へ戻り寝たフリを始めた。あまりの素早さに蘇芳が目を白黒させていると、「おはよう」と本当にセピアが暖簾を潜り入ってきたのである。

「おはようございますセピア様っ!」

 セピアは入り口から三歩目で立ち止まり、その背後に屈強な男性を二人従えている。彼らもセピアも、銀色の甲冑のような装備を着けて武装していた。ガチャ、ガチャ、と動く度に甲冑が鈍い音を鳴らす。

「おはよう、くぅ。よく眠れたか?」

「はいっ!」

 猫かぶりくぅを横目に、蘇芳が口を挟む。

「何だよ。『朝飯も一緒に』ィ、とか言い出すんじゃねぇだろーな」

「あぁいや、違う。私は一戦交えて来なきゃならない」

 セピアは、左脇にヘルメットのような兜を抱えていた。甲冑は然程輝きの無い銀色で、無数の細かな傷が刻まれている。歴戦を潜り抜けたその証拠はまるで紋様のように見えた。

 くぅはその傷へ不安そうに眉を寄せる。

「せ、戦争?」

「あぁ。チャオツがまた攻めてきてるらしい。私たちは応戦する」

「…………」

 蘇芳はセピアから視線を逸らした。また自らのようにこうして怪我に苦しむ人間を作ってくるのか、と言いたい言葉を無理矢理飲み込む。

「蘇芳は、どう思う」

「あ?」

 予想外のセピアからの問いかけに、思わず逸らした目を元へ戻す。するとセピアと視線がかち合った。

「あ、いや。な、なんでもないっ」

 慌てたようにセピアは背を向け、「なんでもない」と何度か呟いていた。

「そうだ、朝食は直に運ばせるから待ってろ。それを伝えに来たんだ」

 振り向き様にそう言い残すセピアは、付き従えている屈強な兵士二人の肩をポンと叩いた。

「この部屋の入り口両脇にこの二人を付けておくから、何か用があったら二人に頼むといい」

「わ、わかった」

 そうして頷いていると、くぅがセピアへ数歩近寄った。心配そうに両手を胸の前で握り締めている。

「セピア様、気を付けてね? 無茶、しないでね?」

「くぅ、ありがとう。帰ったらまた話をしような」

 そうして、セピアは二人の兵士を連れ暖簾を潜り出ていった。

 部屋に静けさが舞い戻る。

「ハァ。応戦、か」

 無意識的に、外に居るという兵士らに会話を聴かれないような声の潜め方になってしまう。

「すぅちゃんは、心配?」

「別に?」

 ゴロリと右脇腹を下に横を向くと、夜さまと視線がバチリと合った。思わずぎょっと目を見開いてしまう。

「美しい娘じゃったな」

「は? 誰が」

「セピアと言ったか。あれは娘じゃろ」

「…………」

 蘇芳の思考が停止する。いくつかの瞬きの後で、くぅをゆっくりと見やる。

「え、まさかすぅちゃん、女の人だってわかってなかったの?!」

 くぅは「信じらんない!」と、もっちりとした白い頬を掌で覆い、顔面蒼白を装う。

「ばっ、バァカ。俺はなァ──」

 半笑いの蘇芳の眼に混乱が映っている。

「はっ、はァ? いやいやいや! はっはは……」

 そうして慌てふためく蘇芳へ、冷ややかなジト目を向けるくぅと夜さま。くぅは深い溜め息と共にやれやれと首を振った。

「これだからすぅちゃんは。デリカシー無しだなぁ」

「う、ウルセェ」

「ひとまず」

 ピシャリ、と夜さまが少し低めの声で制した。蘇芳もくぅも夜さまを見る。

「儂が今朝早く目を覚ました折に、邸の中を捜索した結果を話しておく」

 アメジストのような瞳がギラリと光った。

「早くから起きてたのか」

「半日寝てしもうたゆえ、目覚めるも早かったのじゃ」

 ツンと鼻先を冷ややかに鳴らす。

 くぅと蘇芳を交互に見ながら、夜さまは小さく素早く話した。

「──この時代は、近未来じゃ」

「近、未来?」

 思わず声が裏返る蘇芳は、目を丸くするくぅと顔を見合わせる。

「もっと厳密に言うと、すぅの時代より何百年か先……あいや、もう少し手前かの。要するにそのくらいの『未来』じゃということがわかった」

「何百年か後の、どこなんだ?」

「すまんがそこまではわからなんだ。まだ調べる必要があるが、さして重要ではない」

「未来は、絶対にこんな荒廃した世界なの?」

 くぅも動揺したようにワナワナと肩を震わせている。

「『ドア』で出でた未来は確定ではない。無限の可能性のうちのひとつに出ただけじゃ。必ずしもこうなるわけではない」

「パラレルワールド的な?」

「謂わばそうじゃろうな。故に、詳しい場所や時代背景なぞを、懸命に調べようとする必要はないのじゃ」

 夜さまは「よいか」と続きを簡潔に話すため、少し前のめりになる。

「儂らがここで成すべき事、それは『次のドアの在りかを知ること』と『サガシモノの断片を探すこと』の二点じゃ。他は必要ない」

 蘇芳は眉を寄せハテナを浮かべた。

「サガシモノの、断片?」

 くぅをチラリと横目で見ると、うん、と静かに頷いている。くぅには『サガシモノの断片』が何の事であるのかわかっているようであった。

「すぅ、ヌシはまず早急に怪我を治す必要がある。昨日は儂の魔法がなぜか半分しか使えなんだゆえ、毒気を抜くことのみで終わってしもうたのじゃ。すまん」

「いや、マジでいいって。多分こうして今起き上がって話せてるのも、魔法で毒抜いてくれたお陰だろ?」

 夜さまはきゅ、と口を噤み心配そうな眼を向ける。

「麻酔みたいなよくわかんねぇ毒、だっけ? 矢じりに付いてたやつ。それも多分未来のモンだから『よくわかんねぇ』んだろ? 毒が体に廻ってねぇだけ助かったんだから、もういいって」

 気にすんな、と夜さまの小さな頭を右掌でふわりと撫でた。

 まるで鶏卵のように小さな頭と、ビロードの絨毯にでも触れているかのような柔らかな毛艶に、思わず驚く。

「セピアに怪しまれねぇように、もだけど、夜さまの負担にならねぇように、ちょっとずつ魔法使ってもらおうかな。なるべくそうやって早く動けるようになって、さっさと『ドア』探そう」

 フッとその頬を緩めると、夜さまはアメジストなような瞳を柔らかく伏せた。

「ああっ、任せろ」

「あたしは、セピア様にお邸の中を『正式に』散策させてもらえるように頑張ってみるよ」

 くぅは小首を傾げながら蘇芳の寝台の縁に腰掛け言った。

「そうだな。それに、『ここ』もラッキーなことに『ドア』じゃねぇしな」

「フフフ! すぅちゃん、冴えてるねぇ」

 目の前の目的が、それぞれではっきりとした。

 前へ進む準備が少し整った。



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