撫子 5

   ◆   ◆   ◆



 ある夢の一部、もしくは記憶の断片──。

 これがいつのことで、またどこの場所であるのかは見当もつかない。

 自分の夢、もしくは記憶であることすらも曖昧である。


 それは、とある真っ白な雪景色。


 高い常緑針葉樹が立ち並ぶ林の中に、ポカンとまるで秘密基地のように空いた空間があった。すべての木々の枝葉にはどっしりとした雪が乗り、地面の土色は一切見えない。

 その空間の中心部に、素足の膝を躊躇うことなく雪上につき、がっくりと頭を落している人間が一人。まるで土下座のような姿勢だ。小刻みに肩を体を震わせ、どうやらむせび泣いていたようだとわかる。

 ズッ、ズズッと鼻を啜る音が、常緑針葉樹の木々の合間に虚しく響き消えてゆく。

 雪の冷たさで赤くなっている膝や両掌が痛々しく滲み見えるが、その人には恐らく温度などわからないほどなのであろう。

「かえして、かえしてよォ……」

 その人は、低い声でただそれだけを呟き始めた。

 それは怒り、悲しみ、絶望、悔恨、落胆──?

 あらゆる負の感情が渦となり、その人へ絡み付いているかのようだ。

 ギギュ、と、雪の踏み締める音がした。その人が掌を握った音であった。

 雪と悔しさはそうして共に握られると、じんわりと体温で溶け、やがて冷たすぎる水となった。水は周辺の雪に混ざるが、悔しさだけは混ざらない。

 そんな想いだけをその両手に宿したまま、雪にまみれた両手を自身の顔に擦り付けた。負の感情を含んだ涙を雪解け水に溶かしているようにも見える。

「──返してぇっ!」

 その叫び声を合図に、今までその人を俯瞰視していた位置はサァッと後方へ遠ざかっていった。常緑針葉樹の合間を縫い後ろへ、後ろへと『自分が』引っ張られてゆくのである。

 落胆するその人の姿は、そうして瞬く間に見えなくなる。


 ああ、あれは誰なのだろう。早く思い出したい──。

 常日頃、それだけは願っている。



   ◆   ◆   ◆



 道の真ん中で不自然にしゃがみこむ蘇芳へ、米問屋の中からふらりとやってきたくぅは顔を歪ませ訊ねた。

「何やってんの、すぅちゃん」

「よっ、よォ。くぅか」

 ドキリと肩を跳ねさせた蘇芳も、顔をひきつらせくぅを振り返る。くぅは目を細くしじいっと見詰めた。

「邪魔になってるよォ? こんなとこにいないでお店戻ったら?」

「あっああ、そうだなっ、ハハ……」

 蘇芳は苦笑いをしつながらすっくと立ち上り、足早に米問屋へと足を向けた。そのあとをゆっくりとくぅが付いてくる。

「すまねぇ、おやっさん。向こうで喧嘩止めてきた」

 店の入り口に掛けられている長い暖簾を掻き分けスルリと店へ入る。店の奥で白木は勘定を数えていた。

「おお、またもやか!」

「んでこれ。『お礼』って貰ったんだけど、俺別にいらねぇからおやっさんに。逆に俺から日々の『お礼』代わりにでも」

 貰った反物や乾物などを店奥の小上がりへドサドサと置き広げる。白木は「良いのか?」と何度も確認した後に、「乾物は夕飯に出そうな」と笑顔を見せた。

 そのまま品々を持ち、白木が奥へと一度引っ込んだので、蘇芳は腰に手を当て「フゥ」とひと息つくと、くぅへくるりと体を向けた。

「で、お前何やってんの」

「丁度夜さまと交代したとこー」

「ふぅん、飯は?」

「まだぁ! すぅちゃんお向かい付き合ってよぉ」

 にーんまり、とくぅは含みのある笑みを向けたので、蘇芳は「うっ」と目元や鼻筋をくっしゃりとさせた。

 薮蛇だったな、と舌打ちをひとつした後で、そのまま奥の白木へ「向かい行ってきます」と声をかけ、暖簾を潜り出る。

「今日は『ドア』どうだ?」

「うーん、まあまあかなぁー」

「ふぅん?」

 蘇芳はそうして米屋の向かいの茶屋へ一声かけ、店先にならぶ長椅子のような腰掛けのひとつへ並び座った。

「すぅちゃんはどう? 何か『出逢い』あった?」

「でぇっ?! なななねぇよ!」

 咄嗟の質問に取り乱した蘇芳は、思わず声を荒らげながら立ち上がった。

「なんもない、なぁーんもないっ! あーあのアレなっ! あっちの方で喧嘩止めたくらいだなっ!」

 キョトンと目を丸くしたくぅは口をあんぐりと開け、驚きのあまり思考が停止しているようであった。

 その表情にハッと我に返った蘇芳は、耳を真っ赤に熱くし、やや乱暴にそこへ座り直す。

「さっきも思ったんだけどォ。すぅちゃんって案外オリコウさんだよね。嘘も下手くそだし」

「ルセェ。言葉かけるヤツの歳考えてから言え」

「じゃあすぅちゃん、いくつなの?」

「一七だよ」

「あーっ、じゃあくぅの方がお姉さんだぁ!」

「ハァ? 何言ってんだ、まだちんちくりんのガキだろうが」

「えへへへへー、ビックリした?」

「するかバカ」

 冗談にくぅは足をプラプラとさせた。それを眺めていると、ついさっきまでの撫子とのやり取りが夢であったかのように感じ始めた。

 頭から被った小袖をくるりと翻しながら、まるでスローモーションのようにゆっくりとこちらへ向けた、あの桃色のまばゆい笑顔。

 はっきりと目蓋の裏に、脳裏に焼き付き、ふわり思い出すだけでつい口がだらしなく緩む。

「──ねぇすぅちゃん」

 くぅに呼びかけられ、一気に現実へ引き戻されると再び口をぎゅうっとつぐんだ。

「なっ、なんだよ?」

「『重要な出逢い』って、夜さま言ってたでしょ? くぅ、あれ羨ましいんだよねぇ」

 「はぁ?」と右側を覗くと、くぅは高い空をいっぱいに見上げていた。ガラスのような瞳に空の色がはっきりと映りこみ、逆にくぅの瞳の色が空色であるような錯覚をした。

 蘇芳はその瞳に、言葉をかけることをやめた。

「くぅね、なんとなぁくなんだけど、ずぅっと前から誰かを捜してるような気がするの」

 ハッ、と、蘇芳は息を呑んだ。

 「同じだ」と、蘇芳は胸の奥が震えた。瞳孔が開く、呼吸が浅く速くなる。そして鼻の奥の方がツンとするこれは、それにより揺さぶられた感情のせいだと気が付く。

 人生で初めて同じ想いを抱く人物に出逢った。「俺と同じだ」と言葉にしたくとも、声が出なかった。

 くぅは空を見上げたまま続けていく。

「いつも眠る前に少しだけね、『くぅちゃん、くぅちゃん』って誰かが呼ぶの。でもその人が誰なのかは、いーっつもわかんないの」

 まるで独り言のような、柔らかく溶けてしまうような語り口。蘇芳は眉間が詰まってゆく。

「『顔見せて』とか、『誰なの』とか。くぅが何回話しかけてもね、その人いつもシルエットがぼーんやりしてて、全然わかんないの。だから、くぅの『重要な出逢い』はその人と逢うことだったらいいなぁーって。さっき夜さまがすぅちゃんに言った時に思ったんだぁ」

 ふわりと色素の薄い細い髪を揺らし、くぅは蘇芳へ視線を向ける。

「まぁ、くぅに『重要な出逢い』があればの話だけどねぇ」

 そうしてもっちりとした頬が柔らかく持ち上がると、くぅは目を細くすぼめ、大人のように優しく大きく包むように微笑んでいた。

「だからすぅちゃんにとって、ホントに大切な出逢いだといいなーって思ってんの。くぅ、応援してるからねっ!」

 推定年齢に見合わない微笑みに蘇芳は居心地が悪くなった。咄嗟に目を逸らし、俯くように頷く。

「あ、あぁ」

 それから間もなく、頼んでいた雑穀と鯛の雑炊が後方から届けられた。蘇芳が手持ちの銭をいくらか茶屋の主に渡すと同時に、「いっただっきまぁす!」とくぅは弾む声で勝手に食べ始めてしまった。「ちょっとくらい待てよ、行儀ワリーな」と小突くと、くぅはすっかり普段の幼い表情に戻り、いたずらな表情で笑っていた。

「いただきます」

 祖父の言いつけはこんなところでも抜けない。きちんと手を合わせ、目を閉じ呟く。

 再び静かに目を開くと、蘇芳の頭で突然言葉が廻った。その言葉は幾度も反響し、目の前が現実世界からその文字の羅列世界へと変化してゆく。まるで白昼夢の中に呑まれたようであった。

 次第にゆっくりと口に出して発しやすい言葉へと形が変わり、その文字の羅列世界はサアっと霧のように散り消えた。

 次第に目の前に見えている雑穀茶碗へと意識が戻ってゆく。そこに溶けた鯛の身をそっと箸でつまみ上げたところで、蘇芳の手はピタリと止まった。

「あの、さ。くぅはもしその、『重要な出逢い』の人に出逢えたら、どうする?」

 独り言のように静かに呟くと、ほぐれた白い鯛のかけらのひとつがゆっくりと箸から滑り落ち、雑穀の中へぼとっと落ちた。

 くぅは箸先を口に咥えたまま、蘇芳を横目で窺う。

「『どうする』って?」

「たとえばでいンだよ。ほらその、『ずっと一緒に居てぇ』とか、『ただ話がしてぇ』とかさ。何か考えてんのかって話」

 箸をかちゃりと椀の上に置き、そっと右を窺う。バチ、と目が合い、不自然にならないよう努めながら逸らし押し黙る。

「そーだなぁー」

 くぅは米問屋に掛かる藍染めの長暖簾を見詰めながら口を開いた。

「くぅはぁ、くぅの人生の中でどんな重要な人なのかを確かめたい」

「『どんな』、『重要な人か』?」

「だぁって、男の人か女の人かわかんないんだもん。だから『どうなりたい!』とか『どうしたい!』なんて、ハッキリしたことまで決めといたり願ったりできないでしょ?」

「まぁ、な」

 がふがふ、と雑穀を掻き込むようにその口へ運ぶくぅ。ひとしきり噛み飲み込むと、チラリと蘇芳を見やった。

「くぅがこの旅で明らかにしたいこと──それは、その人が誰なのかをちゃんと知ること」

「…………」

 呆気にとられたような蘇芳の表情に、くぅはクスッと溢し再び雑穀や鯛を口に頬張った。

「そんな顔しなくても、すぅちゃんなら大丈夫だよ。ちゃんとその人と出逢ったら、今はわかんないこともきっと、ちゃあんとわかるようになるよ」

 優しく微笑み諭すくぅは、頼りなく眉を下げている蘇芳よりも大人に見えた。

「そう、だよな」

 自らへわざわざ確認するように頷き、蘇芳はようやく雑穀茶碗と箸を手に持ち直した。

「いただきますっ」



       ◆



「真にございますか、父上」

 眉を寄せ問うと、父と呼ばれた殿は変わらぬ優しい笑みでひとつ頷いた。

「ああ、今朝方届いた書状によればな」

「なれど。真にそのような大国との架け橋に、私が?」

「そう案ずるな、撫子」

 殿は顎髭をザリと撫でると、顎を引き拳を握る撫子へ変わらぬ笑みを向けたまま脇息きょうそくへ左肘をかけた。

「このような小国の姫を見初め、正室としたいとお声かけくださったのじゃ。それにそうなれば、大国の庇護ひご下となり、城下も今より安泰となろう」

「しかし父上、私が案じているのは父上ご自身のことにございます」

 殿は口元に優しい笑みを残したままその言葉に耳を傾ける。

「母上を亡くし八年。共に統治を担っておられた兄上たちも次々に戦で亡くなりました。後妻をらぬまま、最後に残った末娘までこうして自ら手離しては、独りきりになった父上はどうなるのです?」

「はっはっ、そなたの心配性も悩ましきものよ」

 寄った娘の眉間を、そうして大口を開け笑い飛ばす。撫子は殿から視線を逸らさない。

「よいか撫子、そなたは既に一五ぞ。斯様かような老体の庇護下に居らずとも、そなたはそなたの道を歩まねばならん年頃じゃ」

「し、しかし……」

「若君は、此処よりも何百ごくも大きな領地と兵力を有しておる一国の嫡男ちゃくなんじゃ。何も案ずることなく、何不自由せず暮らしてゆけるじゃろう。それにな、若君は多岐にわたる物事の指揮統率に秀でた、人望篤き者であると聞いておる。そなたと年頃も近しい。この上ない良き話だと思わぬか」

「父上……」

 終始笑顔で諭す殿は、撫子へ永遠の安泰を与えたいと願っていた。撫子はその事を、話の内容から察することが出来ぬわけではなかった。

 撫子もまた痛いほどに父の気持ちを受け止め、しかし芽生えてしまったひとつの迷いだけは、一人では拭えぬものだとわかっていた。すぐには答えを出せない、と口を噤み奥歯が震えた。

「父の我儘を許してくれ、撫子」

 その様子を見かね、そっと労いをかける。

 キリとまなざしに芯を持たせ、父のように優しく微笑むよう努めた。

「良いのです。父上は常に誰かの為ぞとお考えがあることは、撫子には確とわかっております」

 しかし、と撫子は目を伏せた。

「七日……いえ、三日で良いのです。三日だけ、どうか猶予をお与え願えませぬか」

 そうして手を揃え付き、頭を下げる。

 殿は「勿論だとも」と大きく頷いた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます