世界を自由に渡る魔女

世界を自由に渡る魔女

 5、6歳くらいの時、少し大きめの地震があって、棚の上にあったシャボン玉液が落ちてきた。


 何故か蓋が開いていたらしく、鈍くさかった私は、それを頭からかぶってしまった。ぬるぬるしたことよりも、つむじが冷たかったことをよく覚えている。


 多分、その時からだと思う。私は時々、おかしな目にあうようになった。


 その予兆を感じ取ることが出来ない訳じゃない。ただ、うっかりしていると、よく見過ごす。







 あ、と思ったときにはもう遅かった。


教室と廊下を分けていたはずのドアは突如として、別世界への入り口に早変わり。中に足を踏み入れたが最後、ドアはかき消えてしまう。


「次、語学なのにー!」


 諦めきれずにきょろきょろ辺りを見回すけれど、ドアはない。あるのは私の身長よりずっと背の高い、草、草、草。


花が咲いているのもあるが、かなり遠いところに花を付けている。そしてすごく大きい。


私が虫サイズになってしまったのか、植物が大きな世界なのか。……どっちにしても同じことだ。あんまり良い気分はしない。


でも前の時よりはマシだ。砂漠の真ん中に出てしまって、熱くて死ぬかと思ったから。しかも地面の色が、変な紫色だったのだ。


 は~っと、大きくため息をつく。授業は諦めた方が良さそうだ。草の間を、あてどもなく歩いていく。


どこかにドアがないか注意して見ながら進むが、見あたらない。げ、大きいアブラムシ。頭上を飛んでいく、大きな蠅。


「久しぶり!」


 ふいに、左の耳元で声がした。ちらりとそちらに視線をやるが、何もいない。それでもよく知る声なので、今更驚かない。構わず歩き続ける。


「遅刻しそうだったからうっかりしたの。ドアノブをひねったとき、向こうが金色に光ったのわかったんだけど。遅かったのよ」


 声がくすくすと笑う。少しむっとしながら、今どこにいるのかと尋ねてみた。


「あそこの木の中」


 少し進んだところに、木が一本たっていた。木のくせに、周りの草より背が低い。木としての威厳が足りないと思う。


 適当に、コンコンっと幹をノックする。幹の一部が、右にずれた。びっくり。引き戸だったのは予想外。


 木の中は、小人のお家、という感じだった。木製のかわいらしい家具が、ほっこりとして暖かな雰囲気を作っている。


 部屋の中心、丸テーブルを囲む小さな椅子の一つに、見慣れた少女が座っていた。


ふわりとした水色のワンピースに、毛先のくるんとした金色の長い髪。薄桃色の唇は、嬉しそうに微笑んでいる。


「久しぶり、アリス」


「ほんと。一ヶ月ぶりくらい?」


 ふふふ、と楽しそうに笑いながら、アリスはぽとんとティーカップに角砂糖を落とした。


マドラーを手に取り、くるくるとお茶をかき回す。床につかない小さな足は、ゆらゆらとかわいらしくゆれている。


「ねぇ、お話しして」


 布団の中で母親にお話をねだる子供みたいな目。どんな世界に行っても、この子はいつもこう。


「出来れば早く帰りたいんだけど」


駄目もとで言ってはみたけれど、期待はしていない。思った通り、アリスは小生意気で意地の悪い笑みを浮かべた。


「だ~め。お話ししてくれなきゃ、帰さない」


 は~、とまたため息をつく。授業、もうとっくに始まっちゃっただろうな。


「昔々あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。


毎日、おじいさんは裏山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行っていました。


ある日おばあさんは、バランスを崩し、川に落ちて流されてしまいます。


どんぶらこ、どんぶらこと流れていくうちに、おばあさんはみるみる若返って行き、若い娘になりました」


 こんな適当な物語でも、アリスは目を輝かせる。


「それで?」


「娘がなんとか川からはい上がると、釣りをしていた青年と目が合いました。


青年は一目で娘に恋をしました。実は娘は山の魔女で、彼女と目のあった男はみんな虜になってしまうのです。


彼女はおじいさんとも、そうやって一緒になったのでした。青年は娘に求婚しましたが、娘は興味を持ちませんでした。


長い間おじいさんと暮らしてきた娘は、もう男にはうんざりしていたのです。娘は再び川に飛び込み、どこかにいってしまいましたとさ。


おしまい」


 続きが思いつかなくなったので、適当に締めた。アリスは納得いかなそうに、えー、と顔をしかめる。


「娘はそれで、どうなったのよ!」


「知らない。ほら、お話は終わったよ。ドアはどこ?」


 むー、っとむくれたまま、アリスは部屋の一点を指さした。


「あれ」


その方向を見やれば、確かに金色に光るドアがあった。走り寄ってドアをひねるが、あかない。


「鍵はここ~」


 アリスはまた小生意気な顔で笑って、手に持った鍵をひらひらと見せつけるように振った。


「続きをしてくれなきゃ、あげないよん」


 私はまたため息をついた。


「娘はね、そのまま川の流れに乗って、海に行くの。


海にはね、悪い魔女がいるでしょ。人魚姫を泡にしちゃった、あの魔女。


その魔女と仲良くなって、幸せに暮らすの。毎日人魚の舞を見たり、歌を聴いたりしながらね。


でね、山の家に取り残されたおじいさんの方は、ぽっくりと死んじゃうの。


もうとっくに死んでいていい歳で、山の魔女の魔力で生きていただけだったから。今度こそお終いよ。満足した?」


 アリスは嬉しそうにうなずいた。そしてぽいっと、鍵をこちらに投げて寄越す。


「また来てね。来てくれないと、暇で暇でしょうがないから」


「私が来てるって言うより、私が迷い込むところにいつもあんたが来る、って感じだけど」


「でもあなたがいつもいる世界に私はいけないから。来てくれる、でも正解なんだよ」


「どっちにしろ、暇だなんて嘘でしょ」


  鍵穴に鍵を差し込みながら文句を言う。


「いつも楽しいことだけ考えて、楽しいことだけしてるんだから。まったく。羨ましいったら」


 まあね、とアリスは笑う。


「何せ私は、山の魔女と海の魔女を一網打尽にして、ぺろりと食べた魔女だもの――」


 ドアが開く。アリスに別れを言うまもなく、身体が向こう側に吸い込まれる。


 最後にちらりと見えたアリスは、大人びていて美しい、怪しい魅力を持った魔女の顔。







 向こうの世界の方がこちらの世界よりも時間の流れが速かったらしい。私は授業に5、6分遅れただけですんだ。


 板書をとりながら考える。お話の続き。



――幸せに暮らしていた海の魔女と山の魔女の元に、ある日少女がやって来ます。彼女はナイフとフォークを持っていました。


「いただきます」


 少女はまず海の魔女をぱくりと食べてしまいました。山の魔女は悲鳴を上げて逃げようとしましたが、結局少女に食べられてしまいました。


 それもそのはず。少女は様々な世界を自由に渡り歩く、誰よりも強い魔女なのです。


 少女に出会った時、「お話して」と言われる人は幸せです。「いただきます」と言われてしまったら、逃げようがありませんからね――







 かわいらしい家具に囲まれて、楽しいお話も聞けて。アリスはご機嫌だった。こくりとお茶を一口飲んで、一人歌うように話し出す。


「昔々。ごくごく普通の女の子がいました。彼女はある日ちょっとした失敗で、シャボン玉液を頭からかぶってしまいます。そうして彼女は、様々な世界を渡り歩く魔女になったのです」


 シャボン玉液をかぶったのは一人ではない。不思議の国を旅する魔女はニィッと笑い、ぱくりとお菓子を食べたのだった。 

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