つながりたいから
三歳か、四歳くらいのときのことです。
ある絵本の一文に、私は釘付けになりました。
「おひめさまは、なきつかれてねむってしまいました。」
この一文を目にしたときの衝撃は、今でも本当によく覚えています。
小さい頃、私はよく泣く子供でした。
「自分の思い通りにいかない」ことが不思議でたまらなかったのです。
解消されない疑問が、不満となって爆発した現象。それが私にとっての「泣くこと」でした。
けれども泣いたところで疑問が解決するわけではないし、すべてが自分の心地よいようにいくはずもありません。
様々な経験を経てそれをうすうす理解していたからなのか、一旦泣き出すとなかなか泣きやむことができませんでした。行き場のない不満を悲しみに変えて外に出しきらないと、おさまらなかったのだと思います。
だから私は、この「なきつかれ」るという感覚をよく知っていました。なきつかれた後にねむくなる、という感覚も。
顔の真ん中あたりはじわりと熱く、まぶたの裏はだるくなって、心地よい重みがゆっくりと後ろから襲ってくるような、あの甘く優しい感覚。それを本当に、身をもってよく理解していました。
この一文を見たときに、「ああ、あれか」と即座に自分の経験を呼び起こすことができました。
体の外に書かれた文章と、体の内に刻まれた感覚。
そのふたつが、とてもきれいにつながった瞬間でした。
その後で思ったことが、「どうしてこれを書いた人はあの感覚を知っているんだろう」ということ。
そしてその疑問と同時に出た答えが、「人は同じ感覚器官を持っているのだ」ということ。
よろこび、かなしみ、しあわせ、がっかり。
そうした言葉の向こう側には、私以外の誰かの経験と感情がひそんでいる。
そしてこの私自身も、その言葉で表現できるだろう経験の可能性を持っている。違う人間、違う体なのに、同じ感覚を共有しているから、伝わる。理解できる。つながれる。
もちろん、こんなにはっきりと言葉で認識したわけではありません。あのとき私の中に生まれたのは、小さな驚きと、大きな喜びでした。
言葉というものの力や凄さを知ったのも、この瞬間だったと思います。
今思えば、私はあのとき、言葉の魔力に魅入られてしまったのかもしれません。
あのとき私が覚えた、驚きと喜び。
私にとって小説を書くという行為は、「泣く」ことに始まる数々の感情表現の代替手段になっています。大人になった私は、昔のように堂々と感情を発することができなくなってしまいましたから。
それと同時に、小さな私をとらえたあの感覚――「つながった」驚きと喜びを、ここにはいない誰かに届けたい……そんな思いから始まっているものでもあるのかな、と今は思います。
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