視点について

 長らく書こうと思っていたのになかなか書くことができなかった、視点と人称について書いてみたいと思います。


 といってもカクヨムを使う方々はいわゆる「一人称」「三人称」「神視点」などについては一通り勉強されているでしょうし、何より自分自身が視点についてよくわかっていないことも多いので(だから長いこと書けなかった)、自分が今「視点」について思っていることだけを書いていきます。


★一人称も三人称も、文章そのものはたいして変わらない


 ずっとこう思ってました。「わたしは」にしようが「サトシは」にしようが、文章や文体ががらりと変わる、あるいは変えるべきということはないんじゃないかと。

 違いを挙げるとすれば、一人称はカメラが主人公の目、三人称はカメラが主人公のそば。一人称だと主人公の表情を直接見たように描写することはできませんが、三人称なら可能です。ですが一人称だってロングショットのような描写をしようと思えばできないことはないし、三人称で地の文に主人公の心情をそのまま書いても問題ないですよね。

 要は、ひっかかりなく読めさえすればいいわけです。


★描写のしやすさの違い


 ただですね、この二つにもやっぱりそれぞれの特性はあるんじゃないかと思うんです。

 これ、私だけかな。「オッス! オラ〇〇!」みたいなノリの一人称小説で、いきなり細かい状況描写や気の利いた風景描写が差しはさまれたりすると、「詩人かよ!」って違和感を覚えることありませんか?

 こうした「外側の描写」は三人称のほうがしやすく、心情描写などの「内側の描写」は一人称がしやすい、という違いがあるのかと思います。


★どっちを選べばいいのか


 どっちでも書きやすいほうでいいと思うんです。書いてみて違和感があったら切り替えればいいし。「内側」と「外側」の描写具合のバランスで考えるのもいいかもしれません。

 ただこの選択は、小説のスタイルに関わってくるものだと思うのです。

 三人称の場合は章ごとに視点の切り替えが可能です。私は「神視点」というのがいまいちよくわからないのですが、同じ段落内でAという人物とBという人物、どちらの心情も書けるというのがこれにあたるのでしょうか?

 そう考えると、章ごとに三人称の視点人物を切り替える場合、その作品全体が「神視点」になると捉えることもできそうです。拙作『聖職者の条件』はこれにあたりますね。参考にしたのは海外の小説なのですが、これは海外ドラマの手法とも言えるかもしれません。海外ドラマって登場人物が多くて、それぞれの過去や秘密が回ごとに描かれたりしませんか? あれと同じですね。章ごとに、カメラが誰に寄り添うか変わる。


★告白体の効果


 視点とは少しずれますが、拙作『或る死体』で採用した告白体について考えてみたので、ちょっと書いてみたいと思います。

 この作品は、「隣人の話」「娘の話」とそれぞれのセリフのみの二つの章で始まります。誰がそれを聞いているのかは、次の章まではっきりしないわけです。

 次の章から聞き手であった「良介」が語り手の一人称小説が始まるわけですが、その後いくつかの出来事を経て、また「のり子の話」「安田の話」の告白体で終わります。


 この作品は、まず最初に最後の章である「安田の話」を書いたことから始まりました。当時学生だった私は、太宰の『駆け込み訴え』みたいな告白体の小説にあこがれを持っていたのだと思います。ただ単に書いてみたかっただけなのかもしれませんが。

 とにかく、最後の「安田の話」、これは告白体でなければ書けない内容でした。というより、告白体でこそ生きる内容だと考え、ああいう形で書いたのだと思います。


 告白体の場合、聞き手が宙に浮きます。聞き手の表情や反応、さらに周囲の状況などははっきりと描かれないので、語り手の言葉から推測するしかないわけです。その不自由さ、想像できる余地こそが、告白体の魅力なのだと思います。


 桐野夏生の『グロテスク』なども告白体で進む章が多い作品ですが(かなり前に読んだのと、手元にないので記憶違いだったらすみません……)、告白体ならではの「語り手自身の認知のゆがみ」とでも言うのでしょうか、語られている内容やそれに対する姿勢が中立ではない点、どこまで真実との乖離があるのかという信頼性のゆらぎなどが特徴で、その点をうまく用いている例のひとつだと思います。


★視点の切り替えについて


 笹川ひろしの『ハレー探偵長』シリーズをご存知の方いらっしゃいますでしょうか。1980年代に出版されていた子供向けの探偵小説シリーズで、私ではなく兄の蔵書でした。ハレー探偵長をリーダーとする探偵団の話で、その一員の少年が主人公の一人称小説です。小学校中学年くらいのときに読んでいたのですが、何冊かあった中でも「歩くチューリップ」が特に印象的で、子供向けにしては本当に怖かった。

 そのまさに「歩くチューリップ」の中に、探偵団が二手に分かれて行動をする場面がありました。そのうち主人公が知り得ないほうのグループの行動を、別のキャラクターの観点から描いた章が挟まれていたことがあったのです。しょっちゅうメモをとっている「メモル(本名マモル)」というキャラクターがおり、「メモルの手記」という形で主人公不在のエピソードをきっちり描いていました。


 これを最初に見たときの衝撃は忘れられません。途中で語り手が変わる小説なんて、それまで読んだことがなかったからです。「こんな方法、ありなんだ」と思うと同時に、「確かにそうするしかないのかも」と思ったことを覚えています。物語を書くのって、こういう苦労というか工夫が必要なんだなあ、と妙に感じ入ったものです。


 小説を自分で書くようになってから、こうした一人称小説での視点切り替えは「ご法度」であることを知りました。そして長らく「タブー」であり、「手抜き」であるとさえ思い、よほどの理由がない限りは避けていました。真偽は不確かですが、公募では減点されるという情報もあったからです。


 しかし上で取り上げた『或る死体』も、告白体という手法ではありますが、一人称の視点切り替え小説だと考えることもできます。「安田の話」から始めた時点でこの視点切り替えは必然だったわけですし、あれ以外の形――たとえば最初から最後まで良介視点の一人称――では、あの突き放されたような読後感(自分で思ってるだけです……)は生まれ得ない。


 カクヨムなどでさまざまな作品を読むようになって、結局問題は「人称の選択」や「視点切り替えの有無」それ自体にあるわけではないのだということに気づきました。結局は、その作品においてそれがどのような効果を生んでいるか。それに尽きるのではないかと。

 要は、違和感や戸惑いを感じさせずに「面白い」と思ってもらえればいいわけです。


 ものすごく脱線しますが、うちの子はとあるアニメが好きでした。そのアニメの続編が作られると聞き、とても喜んでいました。

 その続編第一回の放送日。楽しみにしていたそれを見終わったときの子供のあの表情を、私はいまだに忘れられません。

 その後も私は子供とともにそのアニメを見続けました。子供の反応は、「戸惑い→不快→怒り」へとグラデーションを描くように変わっていきました。期待していたものと違ったというだけでなく、とにかく新キャラの性格が悪く、脚本もひどいものだったのです。最終回は放送事故レベルでした。

 この最初の「戸惑い」、これをいかに自作から排除するか。小説を書く際には、これが肝要になってくるんじゃないでしょうか。『さらざんまい』のような序盤は戸惑いしか感じられない作品もありますがこれは規格外の名作として除外するとして、多くの作品は最初に「戸惑い」を覚えさせてしまった時点でかなり不利です。その時点で投げ出してしまう読者だっていると思います。

 その戸惑いを消すほどにその後の展開で挽回できるか、あるいは不快や怒りにまで到達させてしまうかは、作者の力量にかかっています。


 というわけで何が言いたかったかというと、人称や視点というものは確かにそれぞれに違いや特徴はあれど、それほど深刻に考える問題ではない、ということです。

 私自身が書くときも読むときもそれについてほとんど意識していない、ということもあるかもしれませんが、「こういう作品は一人称向き!」「こういう作品は三人称多元視点で!」とかって一概に言えるものではないと思うんですよ。

 要は読者に「戸惑い」を与えないこと。これさえ守っていれば、視点に限らず、どんな書き方もありだと思っています。


 と、長々といろいろ書いたわりには、もやっとした結論で終わります。すみません。

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