【読書記録】ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』

※ご注意※

 物語の核心に触れるようなネタバレはありませんが、登場人物やあらすじに対する言及はありますので、まっさらな状態で読みたいと思われている方には、ブラウザバックを推奨します。


 読み始めてから、一か月。

 ようやく読み終えることができました。

 イギリスの小説家チャールズ・ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』(1849-1850年)です。


 この作品、岩波文庫と新潮文庫で出ており、どちらを読もうか迷いました。が、結局、『自負と偏見』でもお世話になった中野好夫訳の新潮文庫版で読みました。

 開いたページ一面、びっっっしり文字がつまっている様を見て、「うわ……」と軽く気が遠くなりました。こんなに文字がびっしりつまった本を読むの、ひさしぶりでしたから(何せ最近はカクヨムに慣れてたからなあ)。


 実は最近、「泣ける!」「感動した!」と巷で言われている映画を見て、たいして泣けず感動もできなかったことに、ちょっと落ち込んでいました。わたしって、感性が人とずれてるのかな……なんでもかんでも穿った見方をしすぎるのかな……と。

 ところが翌日、この作品を最後まで読んだわたしは、心から笑い、心から涙を流すことになったのです。「あ、わたしの感性、まだ大丈夫だった」と、救われた気持ちになりました。

 この「心の揺さぶられ方」の違いは、ひとえに「主人公への感情移入」ができるかどうか……その作品世界に、頭のてっぺんから足下まで、どっぷり浸かれるかどうか、ということにかかってくるのだと思います。


 この作品は、長い。長いだけに、主人公と共に読者が歩む旅路、積み重なった数々の記憶が、あのラストをより一層感動的なものにしています。

 新潮文庫版の解説に書かれていたように、主人公のデイヴィッド自体は、没個性な人間です。他の個性豊かな登場人物に比べると、ほぼ無色、無印に近い。

 けれども、それでいいと思うのです。デイヴィッドは、主人公であると同時に、そのクセのなさのおかげで、実にすんなりと読者の目になってくれます。読者の視線の高さをうまいこと保ったまま、淡々と話を進めてくれるのです。それがときどき上がったり下がったりすることにより、読者はデイヴィッドから目が離せなくなるという寸法です。


 登場人物それぞれが、それまでの行為の報いを受けるラスト。ハリウッド的勧善懲悪の気はあるものの、これ以上ない程に完璧なラストでした。

 読み始めたときは、この作品がこうした終わりを迎えるなんてこと、想像できませんでした。そもそも語り口が静かで淡々としているため、そんなに大きな事件なんか起こらないんじゃないかと思わせられるのです。読み終わった後思い返してみると、けっこうショッキングな事件がたびたび起こっていたことに気がつきます。

 ですが、いくぶんご都合主義的な点も見られます。そんな偶然あるか?という出来事がいくつか起こりますし、「ここでその人出てくるのかよ! 世界狭すぎ!」と思ってしまう場面もありました。

 それでもそういった点がさほど気にならないのは、概して描かれているキャラクターたちのリアルな息吹のおかげでしょう。


 この作品の特徴は、何よりも登場人物の豊富さ、その個性豊かな性格描写にあります。

 思い出せるだけの登場人物を、ざっと挙げてみましょう。


 デイヴィッド・コパフィールド(主人公)

 クララ・コパフィールド(母)

 ペゴティー(乳母)

 ベッチー・トロットウッド(大伯母)

 ミスタ・ディック(大叔母の同居人)

 ジャネット(大伯母の女中)

 マードストン姉弟(母の再婚相手とその姉)

 バーキス(馭者)

 メル先生(寄宿学校の先生)

 ミスタ・クリークル(寄宿学校の校長)

 ジェームズ・スティアフォース(寄宿学校での主人公の先輩、親友)

 トマス・トラドルズ(寄宿学校での友人)

 ミスタ・ペゴティー(ペゴティーの兄)

 ハム(ミスタ・ペゴティーの養子)

 エミリー(ミスタ・ペゴティーの養子)

 ミセス・ガミッジ(ミスタ・ペゴティーとともに暮らす未亡人)

 ミスタ・チリップ(医者)

 ミスタ・ミコーバー、ミセス・ミコーバー(奉公時の下宿先の夫妻)

 ウィックフィールド(弁護士)

 アグニス(ウィックフィールドの娘)

 スペンロウ(法律事務所所長)

 ジョーキンズ(法律事務所所長)

 ドーラ(スペンロウの娘)

 ジューリア・ミルズ(ドーラの友人)

 ユライア・ヒープ(ウィックフィールド法律事務所の下働き)

 ミセス・ヒープ(ユライアの母)

 ミスタ・リティマー(スティアフォースの召使)

 ミセス・スティアフォース(スティアフォースの母)

 ミス・ローザ・ダートル(スティアフォース家の親戚、同居人)

 ストロング博士(ウィックフィールドの友人、校長)

 ミセス・ストロング(博士の妻)

 ジャック・モールドン(ミセス・ストロングのいとこ)

 ミスタ・オーマー(葬儀屋)

 ミニー(オーマーの娘)

 ジョーラム(ミニーの恋人)

 マーサ(オーマーの店の元奉公人、エミリーの友人)

 ミス・モウチャー(スティアフォースの友人)

 ソフィー(トラドルズの恋人)

 ラヴィニア、クラリッサ(ドーラの伯母)


 この量、やばいですね……。これだけたくさんの人物が出てくるのに、誰一人としてキャラがかぶってないという事実。それぞれの名前を見るだけで、いろいろな出来事や印象が頭の中によみがえってきます。


 特筆すべきは、このキャラクターのリアルさです。

 本作は、キャラクターの造形という点で、大変参考になる一冊だと思います。


 その個性を表現しているのは、細かい仕草の描写、それに何よりセリフです。セリフが、とにかく秀逸です。オースティンの『自負と偏見』でも感じましたが、セリフに個々のキャラクターの性格が、ものすごく的確に表れているのです。

 徹底した人間観察と、手に取るように性格がわかるセリフの言葉遣い。これってイギリスの小説特有のものなのでしょうか。話者の明示がなくとも、読んだだけで誰がしゃべっているのかわかるほどでした。

 個人的には、登場したてのミス・ダートルのセリフが一番イライラしました。こういう人とは一緒に暮らせない……。


 ここで、わたしの個人的大好きランキング。


<男性>

 1 ミスタ・ペゴティー

 2 トマス・トラドルズ

 3 ミスタ・ミコーバー


・ミスタ・ペゴティー

 本当にこの人はすごい。血縁者でない人々を家族として受け入れ、いつもニコニコし、優しく、愛にあふれている。二言目には「夫を亡くして寂しい」と泣き出す、悲劇のヒロインから抜け出せないミセス・ガミッジも、ミスタ・ペゴティーのおかげであれだけ変貌したんじゃないでしょうか。ミセス・ガミッジの変わりっぷりは、この作品を通して一番に近い程驚いた箇所でした。

 それにしてもペゴティー兄妹は、愛に満ちている。どういう環境で育ったら、こんなすてきな人になれるのだろう?


・トマス・トラドルズ

「正直者は馬鹿を見る」じゃないけれど、心根は優しいのにいつも貧乏くじを引いてしまう損な性格の彼。最初に登場したときは、後にこんなに大活躍するとは思いませんでした。デイヴィッド生涯の友ですね。妻となるソフィーも同じような気質のすばらしい女性で、一緒にいるだけでささいなことも幸せに感じられる、本当にお似合いのかわいい夫婦です。


・ミスタ・ミコーバー

 たぶんこの作品の中で一番強烈に印象に残るキャラクターじゃないでしょうか。すごいです、この人。とにかく貧乏。ものすごい貧乏。お金はあるだけ、いやある以上に使っちゃう。債務不履行で刑務所にまで入っちゃう。でも明るい。「もういよいよおしまいだ」と嘆いた数分後には、妻とともに愉快に笑っている。

 最初は「どうしようもない人だな……」と思いながら読んでいたのですが、そのキャラの濃さにどんどん惹かれていってしまう、不思議な魅力がありました。お金にはだらしないけど、不真面目なわけじゃない。お金を借りる際は、きっちりと記録するような几帳面さがある。そしてあの文才。中野好夫訳だと候文になっていたりしてたいへん読みにくいのですが、ミコーバーの性格をよく表現できていてよかったです。

 そして何より、妻のミセス・ミコーバーが、この人以外ないでしょってくらい相性バッチリの奥さんなんですよ。夫を愛するだけでなく、その才能を高く買っていて、この人にはもっとふさわしい場所や仕事がある、いつか成功すると心から信じているのです。最初は話半分に読んでいたその言葉も、終わりに近づくにつれどんどん信憑性が増していくのが、おもしろい変化でした。


<女性>

 1 アグニス

 2 ベッチー・トロットウッド

 3 ペゴティー


・アグニス

 アグニスは、この作品における女神、天使、いや神です。すべての物語作品の中で、最も理想的な女性といえるのではないでしょうか。美しく賢く、どこまでも優しい。その中に満ちた愛の大きさは、感動的なほどです。

 主人公が恋するドーラがあまりにも幼いので、その対比もあり、とにかくアグニスは存在そのものが尊い癒しです。

 ドーラは……まあかわいいんだけど、本当にイライラしたなぁ。まじめな話をしようとすると、「怒ってるの? あたしのこと愛してないのね! そんなひどい話、聞きたくない!」って耳をふさいで逃げちゃうの。

 ああいう何もできない「僕が守ってあげなくっちゃ」タイプの女子が好きな男性は一定数いそうだけど、結婚相手となるとやっぱり……ねぇ。ついでにドーラの飼い犬ジップも、最後まで好きになれなかった。


・ベッチー・トロットウッド

 作品冒頭で、生まれた女の子に「ベッチー・トロットウッド」と名付けることを願っていたのに、生まれてきたのが男の子だと知るや激昂し飛び出していったあの大伯母。それが後に、デイヴィッドを深い深い愛情で包み込む、頼りがいのある伯母さんになるとは……。

 奉公に出されたデイヴィッドが救いを求めて伯母の家をめざして旅するシーンは、最初の山場ですね。この人、女性として人として、とにかくカッコイイです。いい伯母さんを持ってよかったね、デイヴィッド!


・ペゴティー

 デイヴィッドには、幼少期からさまざまな困難がふりかかります。生まれたときすでに父は他界しており、子どものような母と優しい乳母の手により育てられますが、母の再婚により運命が一転。再婚相手とその姉に、いじめぬかれます。

 この読者の最初の敵たるマードストン姉弟が、本当に曲者。あっという間にコパフィールド家を支配し、デイヴィッドを愛する母親までも恐怖政治によってコントロール。母親に「自分のほうが間違ってるんじゃないか」と思わせる洗脳ぶりは、かなり恐ろしいものがあります。

 唯一の愛する肉親である母親が頼れない環境の中、乳母のペゴティーの存在がどれだけの救いとなったか! ペゴティーは、物語の最初から最後まで、デイヴィッドを愛し続けます。読んでいるこちらにとっても、ペゴティーの存在は本当に救いでした。


  ***


 ところで、この作品は回想という形で書かれています。そのため、「後に〇〇ということになるとは、このとき思いもしなかった」といったような表現が、ときどき使われています。

 現在、小説作法においてこの「古典的手法」は一般的にあまりよろしくないと言われてますが(とある本でそう書かれてました)、どうなんでしょう?

 わたしはけっこう好きなんですよ。「え、どうなるの!?」っていう気持ちが掻き立てられて、最後まで読む原動力になりません? 最初から、「回想記」であるということをはっきりと明示する場合には、有効なんじゃないでしょうか。


 というわけで、ひさびさにものすごく濃い読書体験ができました。名作には、時を経て残っているだけの理由があるのだと改めて実感しました。


 いつかわたしも、こういう形のものを書いてみたいなあ。

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