2010年・冬~大雪
第53話「マイウェイを貫く男」
「一万七千円になります」
案の定、偉人一名ずつでは足りなかった。
「カードで」
私が財布を開くよりも一歩早く、光蟲がクレジットカードをカルトンに置く。店員の誘導で暗証番号を入力し、あっという間に会計が終わった。
「ごちそうさまでしたぁ」
還暦手前ぐらいの男性店員に礼を述べておもてへ出ると、十二月らしい寒空に迎えられた。マフラーと手袋をしていても、顔や額にぴしゃりと冷気が染みる。
「これでいいかな?」
歩き出す前に、私は財布から八千円出して光蟲に差し出す。彼のほうが三杯ほど多く飲んでいるので、野口英世が一名少なくても不自然ではないだろう。
「いや、七でいいよ」
半笑いを浮かべながら、光蟲は野口英世を一枚私に返す。
「サンキュ」
軽い笑みを浮かべながら、戻ってきた千円札を財布にしまった。
「俺のほうが明らかにたくさん飲み食いしてるからね。それに、悦弥くんの昔話も珍しく聞けたし」
「昔話ねぇ」
光蟲が“珍しく”と言ったのは昔話そのものについてではなく、私が自身の話を長時間に渡り自発的に展開したことについてだろう。
これまでにも囲碁部のことなどそれなりに話す場面はあったが、私は自分が話すよりも光蟲の話を聴くほうが好きなので、彼といる時間は聴き手に回る割合が多い。
「でも、大丈夫なの? 悠々とカード払いして」
光蟲の散財ぶりは、恐らく並みの大学生のそれを大きく上回るもので、時折使い過ぎてクレジットカードを止められている。
「あぁ、先月ジュンク堂で働いたぶんは、当然ながらもうすっからかん。でも大丈夫。昨日久々にばあちゃんが家来て、小遣い十万もらったからね。それを入れておいたんだよ」
「さすが、金持ちの家は違うねぇ。一回のお小遣いで十万って」
「まあ、たまには良いっしょ」
「だね」
たまにでなかったらダメ人間一直線だろうなと思いながら、私は光蟲の半笑いに半笑いを返す。
「でもまだ十二月の上旬でしょ。絶対年内に使い切るだろうなぁ。せめて給料日までは持たせないんだけど」
「まあ、忘年会シーズンだしね。後は本と映画か」
「そうそう、わかってるね悦弥くん。その通り」
事件の犯人を指し示すようにして、光蟲は歩きながら、右手の人差し指を正面に向けて肯定する。
「にしても、使いすぎ」
「金なんて使ってナンボでしょ。手にした全額、本と映画と飲食につぎ込むわ。それこそマイウェイ」
「いやぁ、少しは貯めるってことも覚えなよ。カード止められない程度には」
この男は、社会に出てからも我が道を貫いて生きていくに違いない。また、形だけの正論を冗談っぽく述べはしたが、光蟲にはこの先もずっと今の調子で生きていて欲しいと強く思った。
「帰る前に、もういっちょ散財してこう」
私も光蟲も甘いものが好物なので、飲んだ後のスイーツタイムは定石化している。
「ルノアール?」
「いや、珈琲西武行こうか」
珈琲西武は、新宿の東口もしくは中央東口から近い場所にある純喫茶で、昭和テイストな内装が特徴的な店だ。
「おっ、良いねぇ」
あの辺りにはたまに訪れるので店の存在は知っていたものの、例によって入ったことはなかった。光蟲は、一年ほど前からよく来ているらしい。
平日の夜九時でも、店は盛況を呈していた。三階の禁煙席は百五十ほどの席があるらしいが、すべて埋まっており入れなかった。
「喫煙でも平気?」
店員から二階の喫煙席なら空いているとの話を聞き、光蟲が私のほうを見て尋ねる。
「うん、大丈夫よ」
喫煙はしないが、別に煙と匂いにいちいち眉をひそめるような繊細さは持ち合わせていないので問題ない。
外の寒さに比して、店内は暖房がやや効きすぎていた。女性店員の、黒のスカートに白のリボンというシンプルな制服が少し暑そうだと感じる。
「あれ、タバコ吸ってたっけ?」
光蟲が鞄からセブンスターを取り出し、一本抜き出して火をつけた。
「あぁ、たまにね。一緒にいるときは初めてかな」
「たまに吸うってのも珍しいね」
タバコというのは、一度味を覚えると毎日吸っていなければ心身を保てないのだろうと、母を始めとする周囲の喫煙者を見て想像していた。
「そうだね。別に、好きで吸ってるってわけでもないからなぁ」
推定三十代後半の女性店員が注文をとりにきたので、ブレンドを二つと抹茶パフェ、そしてプリンアラモードをオーダーする。スタイルは悪くないものの、残念ながら私の苦手なしゃくれ顔で、妄想を働かせる気にはならなかった。
「タバコが美味いと思ったことないし、習慣的に吸ってる人の感覚もわかんないけど、時間稼ぎなんだよね、俺の場合。吸ってないと、際限なく酒飲んじまいそうだからさ」
半笑いを浮かべながら、光蟲が独自のタバコ論を披露する。
「物は使いようだねぇ」
半分呆れ、半分感心しながら半笑いを返した。
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