第五十話 決戦は、宮川にて
天文十二年、九月十九日
〈原虎胤の屋敷〉
虎胤は一度深呼吸を行った後に振り返る。其処に居座るのは、彼の娘である菊。
「では、行ってくる」
「はい。ご武運を」
菊は微笑み、ただどこか寂し気な部分を隠し切れていない様な表情を浮かべる。
虎胤はこの場に最適な言葉を選ぼうと頭を巡らせるが、脳内で一字一句もつれ、うまく言葉にならない。いざという時に出てこないというのは、実に歯がゆい。こんな時にかけるべき最善の言葉が有るのだとしたら、是非とも教えて欲しいものだ。
「必ず帰る、故に、しばし待っておれ」
ようやく脳内でまとまった言葉が、それである。
此れ程までに無責任な言葉は無いと、口に出す度に実感する。それは菊にも分かっている。しかしそれを悟られぬようにと、懸命に笑顔を浮かべるのだ。
つまらない建前だ。そう思いながら、虎胤は己が身を卑下する。
「父上、何をしておられるのですか」
不意に発された声に、虎胤はその方を向く。
其処に立つ青年の武者姿を目にし、虎胤の目頭がふと熱くなった。
「彦十郎の初陣を、このような形で迎えるとはな」
「父上、今は
そうであったと、虎胤は苦笑する。
その青年は齢十六を迎える虎胤の息子、康景である。康景は先日、元服の儀を執り行ったばかり。虎胤にとってそれは、我が子の成長を実感する瞬間でもあった。
幼き頃から見てきた自身の息子の初陣は、この時代の父親にはさぞ喜ばしいものだっただろう。
「儂が殿に直々に御頼みし、御前は此度、前線には行かせぬ事になった。
くれぐれも無茶はするな、
戦がどういうものかを、しかとその目で見て学んでこい」
康景の発する威勢の良い返事を聞き、虎胤は菊の方を見る。
菊は二人に対し、深々と礼をしていた。
この礼こそが彼女にとっての、とるべき最善の行為だとでもいうのだろうか。
答こそ分からないが、そう思い込んでしまえば楽なのだろうと、
一方、虎胤の屋敷に世話になった俺はというと、支えが無くともどうにか歩ける程には回復していた。まだ多少の痛みは残っているが、耐えられない程のものではない。予定通り、晴信は俺に出陣の命を下した。
早く治らないで欲しいという切な願いは、どうやら叶わなかったみたいだ。俺は少しばかり、自身の持つ治癒力を恨んだ。
斯くしてその日、俺達は出陣式の後に甲府を発ち、若神子という地まで向かう。〈あの男〉と出会う約束をしていた為である。
「久しいな、板垣」
「殿、お待ち致しておりました」
あの男とは、本隊が支城へと戻っていた中、唯一戻らなかった板垣信方。彼は例の一件以来、高遠勢の動きを逐一偵察していたという。
それにしても、板垣達の働きは見事なものだ。間者を送り込むという晴信の指示を守りながらも、一日おきに板垣の許へそのつどの状況を伝え、晴信に文を寄越していたという。状況が状況なら、伝える暇さえ取れなかっただろうが、それこそが板垣達の持つ強みなのだと、俺は実感した。
「……殿、その赤子は」
板垣はふと、晴信の後ろで男に抱きかかえられた赤子が目に留まる。彼の言葉を聞いた晴信はうすらと微笑む。
「こやつは、頼重の遺児じゃ」
「諏訪殿!?まさか此度の戦に連れて行くと仰せですか!?」
板垣は此れ以上ないという程の驚きを見せる。
当然の反応だ。しかし晴信はそれを予期していたのか、至極冷静である。
「許せ、板垣。この赤子が、諏訪を取り戻す為の一手となるのじゃ」
晴信は戦場に赤子を連れて行くという自らの行為の正当性を主張しつつ、此度の戦における必要性を論じる。板垣のことだ、戦場へ連れて行く利点には既に勘づいている事だろう。それに、仮に反対の立場を掲げて居たとしても、板垣を除く武田勢が賛成派として全会一致となった状況で、否定の言葉など彼には見つけられなかった。
そして再び時は流れ、九月二十五日早朝。
俺達は遂に辿り着く。決戦の地、宮川に。
俺は此度の戦場となるであろう景色を眺める。見るからに開けた広大な地。予定通りだ、此処なら敵が伏兵を紛れさせることも叶わないだろう。
ちなみに俺は昨日の夕暮れ、本物の晴幸に
こうして、陽が南に上るころまでには陣を張り、各々が与えられた役目に向け行動し始めていた。
恐らく高遠の許に忍ばせた間者によって、我らが宮川へ陣を張っていることは既に高遠にも伝わっている事だろう。俺は何時ものように陣で待機し、異変を察知次第、策を講じる役目へと付く。(そもそも傷口の関係で巧く動くことが出来ないという理由もある)
俺は唯一人陣中で天を見上げ、目を閉じる。
良い風だ。陣に吹く風が、武田の旗印をなびかせる。
武田は負けない。其れは恐らく確実だろう。
しかし、そんな俺を待っていたのは、予想外の結末であった。
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