第四十三話 懇願と、死

 消えた意識の中に響く、死を望んだ男の叫び。

 紅く光る眼に映るものは、原型を保つことなく壊れてゆく。

 ふと身体に過る、微かに温かい感触。身体が動く度に、それは広がってゆく。

 モノクロだった世界に、色が付き始める。

 今となれば、俺の持つ紅い目は、このせいで出来上がったのかもしれない。


 其の男は涙ぐみ、俺に懇願する。

 俺はただ、その願いを叶えてやったまでの事。

 寧ろありがたい筈だ。男はもう何も話そうとはしないが、俺には分かる。

 何も考える必要は無い。全ては終わったのだ。


 男の願いが、今でも聞こえてくる。幻聴だと分かって居る筈なのに。

 

 オレヲ、コロセ


 其の言葉が、俺を縛り付ける。

 何も為さぬままに、俺はまだ、命の償い方を探している。

 己が犯した間違いを、償う術を探している。

 覆い隠す暗闇に、光が灯ることは無い。







 「……今、何と申した」

 早朝、出陣の支度を整えた晴信は男の言葉に聞き返す。恐らく誰しも、にわかには信じられないだろう。

 男は再び、晴幸が昨晩何者かによって襲撃を受け、依然意識が戻らぬままだと説明する。


 「誰にやられた」

 「それは……存じては居らぬと皆口々に申しております」

 男は、何かの影が草むらに入っていくのを見たと発言した。しかし初めは狸か何かだと思い込み、直ぐには何が起きて居たのか気付くことが出来なかったという。


 晴信は額に手を当てる。

 そんな事が武田家中で起こったと周りに知れれば、我等への信頼は薄れてしまうだろう。しかもこの時期は特にまずい。この出来事が、これからの戦の士気に関わる可能性だってある。


 晴信は額から手を放す。吐息のように、自然と湧き出た疑問。

 いや、それよりも、何故晴幸が狙われた?



 「このこと、如何程の者が知っておる」

 「私を含め三、四人程です。まず殿に御伝えするべきだと考えた次第にございます」

 「内密にせよ。此度の件、決して外には漏らすな」


 晴信は唇をかむ。家中で一体何が起きているというのか。

 その時、彼は気づく。昨夜の虎胤が発した言葉の真偽について。


 「……虎胤を呼べ。無論秘密裏にだ」

 この時期の不自然な侵攻。少し考えれば、分かった筈だった。

 何故気付けなかった?伏兵はすぐ傍に潜んでいたというのに。

 

 



 〈原虎胤宅〉

 

 腹には何重に巻かれた包帯。傷口の辺りに血が滲んでいる。

 深く、重く、苦しそうな呼吸をする彼には、一向に目を覚ますきざしが見えない。

 


 その傍らで看病を続ける男女。彼は口を噤み立ち上がった。そろそろ行かねば、出陣の期は近い。

 「菊、晴幸殿を頼んだ」

 「はい、父上。ご武運を」

 其の男、原虎胤はそう言い残し、屋敷を後にする。


 (晴幸殿、恐らく我らの仕掛けに乗った裏切者との接触を図ったか)

 歩きながら、彼は昨晩の出来事を脳内で思い返す。

 実は虎胤も、自室で晴幸の叫びを聞きつけ、現場に立ち会わせていた。その際に虎胤自ら名乗り出て、晴幸の身を引き取ったのだ。どうやら晴幸かれの傷は浅く、一命は取り留めているものの、いつ意識を取り戻すかまでは見当がついていない。



 (晴幸殿、早く目を覚ませ。其方は武田に必要な男じゃ)



 鎧を着け終えた虎胤は、晴信の許を訪れる。

 「如何されましたか、殿」

 そう口にしつつも、大体の見当は付いている。晴幸の身に起きた惨事は、晴信の耳にも入っている事だろう。


 「時が無い故、率直に言う。其方、昨晩の件は例え話では無いのか」

 虎胤はくっと顔を上げる。

 「間違いございませぬ、例えでは無く、確信を持っておりました。武田には裏切者がおります」

 「何故其れを誠のように申さなかった」

 「軍議の場で、下手な刺激を与えるのは宜しくないと考えた次第にございます。しかし、殿には即刻お伝えするべきでした、私の不手際にございます」


 晴信は溜め息交じりの吐息を吐き、外を見る。

 数匹の蜻蛉が、思い思いに秋空を舞っている。


 「奴は今どこにいる」

 「は、私の屋敷に匿っております」

 途端に、晴信の顔色が変わる。眉に皺を寄せ、細めた目で虎胤を睨む。


 「良いか、奴を殺してはならぬ。奴はこの武田に必要な男じゃ」

 「は!」


 虎胤は拳を地に置き返答する。やはり、互いに考えている事は同じだった様だ。

 二人は会話中、終始険し気な表情を浮かべていた。



 その後、武田家は二度目の軍議を執り行う。

 晴信と虎胤、二人はこの時点で既に裏切者の正体に行き着いていた。その方法は、虎胤達の発言の真偽が明らかならば至極単純である。軍議の場に集う重臣達の中に、姿の見えない者を探せば良いのだ。


 そこに居なかったのは二名の男。一人目は傷を負った山本晴幸。そしてもう一人は、理由なく姿を眩ませた高遠頼継。


 高遠、あの男は二度も主君を裏切るというか。

 晴信は思わず舌打ちを打つ。奴は恐らく、儂を恨んでいるのだろう。


 その理由は明らかである。宮川を境に、諏訪領を武田と諏訪で分割した事だろう。高遠が諏訪惣領を狙っていた事は、頼重を裏切った事からも明らかだ。


 「板垣、其方はこれより信濃へ向かえ。

  下諏訪衆共々の後詰を命ずる。」

 「はっ!」

 板垣による威勢の良い返事を聞き、晴信は頷く。

 今回迎える本当の敵は、藤沢ではなく高遠。

 良いだろう、其方がその気ならば、こちらも正々堂々と受けて立つのが筋というものだ。

 晴信は微笑む。


 「皆の者、一つ儂の考えを聞いて貰いたい」

 

 晴信は懐から扇を取り出し、開く。

 そこに描かれるのは、武田家家紋、四つ割菱。


 「此度の戦、頼重の遺児を、戦場(いくさば)へ連れて行く」

 

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