第四十二話 爺と、小童
月が明るい。今夜は中秋の名月だろうか。
妖しく光るその目に映るのは、高遠の立ち姿。その様子に、晴幸は多少の苛立ちを覚える。
「身支度をせぬのか。其方の部屋は此方ではないだろう」
「あぁ、厠に行こうと思ってな」
高遠は背を向け、晴幸は直ぐ様高遠の肩を掴んだ。
決して逃がすまいというかの如く、睨みを利かせる晴幸の表情に、高遠は一瞬眉をひそめる。
「……偽りを申すな、高遠頼継」
脅すかのような低い声。しかし高遠は依然笑みを浮かべている。まるで俺の言葉が理解できていないというかの様な態度に、晴幸の苛立ちは増々深まる。此処まで来て、あくまで
「虎胤殿の許に行くつもりだったか?」
「何の話だ?」
此れ以上の問いは無意味だと悟り、晴幸は本題に入ることにした。
「軍議の後、幾つか書を漁り調べさせて貰った。此度の侵攻の前線に立つ藤沢頼親殿は、諏訪頼重の上原城と高遠頼継の高遠城の間に建てられた、福与城の城主。此処まで申せば分かるであろう、藤沢殿は諏訪の人間じゃ。
儂はそれを知り確信した。信濃国に調略を行い、武田家侵攻に関与するのに最も怪しき男は、高遠頼継、其方だと。先程も虎胤殿の発言に動揺を隠し切れておらなかったな。今も、それを抑えようと必死なのであろう?それに其方の家臣が犯した失態についても、昨晩からさぞ焦っていたことだろうな」
晴幸は目を細める。まるで怒りでもって、己の行為を忠告するかの様な口調で発する。
「今一度考え直せ、其方等には此の武田を崩すことは出来ぬ」
その言葉の直後
高遠が浮かべる微笑みが、壊れた。
「黙って聞いてりゃ、ごちゃごちゃとうるせえな……この老いぼれ爺が……」
晴幸は硬直する。目を見開き、奇怪な笑みを浮かべている。実に恐ろしい形相。晴幸は思わず後ずさりする。その瞬間、高藤は自身の持つ刀を引き抜き、晴幸めがけ振り下ろした。
「っ!?」
晴幸は降りかかった刃先を間一髪除け、三歩退き、自身の刀に手をかける。
「……ようやく本性を現したか、高遠。もう一度言う、考え直せ。このような場で斬り合えば、儂等とてただでは済まされぬぞ」
「だまれ」
乾いた声。晴幸の言葉など気にも留めないという様子で、高遠は晴幸に向け再び刀を振りかざす。晴幸は一度舌打ちをし、刀を横に構える。刃と刃が音を立てぶつかり合う。縁側の池に波紋が浮かぶ。その音の余韻は、まるで
「忘れたか!?其方はあの時、虎胤殿を救ってくれた筈だ!何故この様な事をする!?」
晴幸は問いかけつつ体制を反らし、刀を横へ流す。そのまま体制を低く構え、相手の左足に向け刀を振るった。それを冷静に刀で防ぐ高遠は、鋭い眼光を浮かべながら晴幸を見降ろす。
「決まっているだろう、全てを取り返す為よ。
まあ御前に言ったところで、微塵も理解出来ぬだろうがな」
晴幸は見上げる。月光に照らされた
高遠は刀を力ずくで弾く。反動で倒れた晴幸は直ぐに立ち上がり、上目遣いで睨む。身体の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
現れるのは、彼の抱える〈衝動〉。
「……この儂をあまり嘗めるでないわ」
目の色を変えた晴幸は大きく一歩踏み出し、高遠の顔目掛け、刃を振るう。
「!?」
あまりの突然さに高遠の上体が反れる。晴幸は刀を捨て、身体ごと彼を後方へ押し倒す。そのまま馬乗りになり、己の懐から取り出した
「爺だと思って油断したな、小童めが。」
晴幸はぐっと匕首を握り締める。依然高遠に向ける睨みは消えず、高遠は暴れることなく黙り込む。
「……もう一度聞く、此れ以上同じことを言わせるな。其方は何故再び裏切り、この武田への侵攻を画策した」
静寂が続く。秋風が二人の間を吹き抜ける。暫くして彼は語り始める。己の中に抱える本音を。
「儂は、武田に全てを壊された。
武田晴信、奴の顔を思い出す度に反吐が出る……っ!」
晴幸は目を細める。この男はやはり、此処に迎えるべきでは無かったか。二人の間で留めておこうと思って居たが、もはやそうもいかない事態にまで発展している。
「先程の其方の発言、真と受け止め、儂は殿に報告する。
其方の生きる道はもはやここには無い。死にたくば、早急に立ち去れ」
晴幸の放つ怒り紛れの口調の後に、高遠は低い声でこう呟いた。
「やはり、我らの策に、御前は邪魔だ」
そのとき
鈍い音と共に、晴幸は頭が真白になる。
腹が熱い。徐々に汗が吹き出し始める。
ゆっくりと目線を下に落とすと、高遠は懐に潜めていた自身の短刀を、晴幸の腹に刺していた。
「ぐ……ぁああぁ……!!」
晴幸はあまりの痛みに腹を押さえ、後方に倒れ悶える。その様を見て
「まあ良い、御前に話したところでもはや意味など皆無じゃ。武田は既に囲まれておる、故に儂等の勝ちは既に決まっておるのだからな!
……案ずるな、じきに何も考える必要は無くなる、御前は此処で死ぬのだ」
晴幸は何も言えなかった。高遠はその様子を睨みつけながら立ち上がり、おぼつかない足取りで草むらへと姿をくらませた。
まて
声が出ない。辺りには、赤い液体が広がって行く。
薄れゆく意識の中、晴幸は悟る。きっと三度目は無いと。
こんなつもりではなかった。信じていた筈なのに、儂はいつから、何を間違えてしまったというのか。
こうして暫く経った後、彼の意識はぷつりと音を立て、暗闇へと誘われた。
「晴幸殿!如何された!?」
その後、彼が家臣三名に発見されたのは、その数分後の事であったという。
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