第245話欠片達

【集え】


 黒髪の青年は結界の中で、そう呟いた。その言葉は瘴気の中に溶け消え、結界をすり抜けて、世界へと拡散されていった。


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 女の耳元で囁き声が聞こえてきた。たった一言、それも聞き取る事すら難しい程の小さい声だった。それなのに彼女はそれが何を言っているのか理解した。そうして彼女はその声に従うかのように部屋を出て歩き始める。後ろの方で上司が何かを言っているが、彼女にその男に構う暇はなかった。


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 その日は少女にとって特別な日になった。法術を扱えない代わりに不思議な力を有している彼女はいつも異端な存在として石を投げられ、罵詈雑言を浴びせられていた。だが耳元に響いた声が、彼女に彼女が何なのかを教えてくれた。だから少女は喜んで抑えていた力を解放し、自分を迫害した者達の未来を摘んでから、晴れやかな気持ちで歩き始めた。


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 初老の男は家族にすら自分の秘密を隠し続けてきた。それを知られれば嫌悪され、その末に殺される事など目に見えていたからだ。だから彼は自分を押し殺し続けてきた。耳元の囁き声はそんな環境から彼を解放した。初めての自由を噛み締めながら、老人は昔使っていた剣を取り出して、家族に何も告げずに旅に出た。


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 その女はまだ若いのに一つの商団の主人だった。彼女の誇りはその商才であり、この世界に彼女を超える存在はいないと確信していた。だがそんな彼女は地位も名誉も金も全て捨てて、歩き始める。彼女の力は彼女の為にあるものではない。その事に彼女は気がついたからだ。主人が戻ってきたのなら、返上するのが彼女の義務だ。


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 森の中で狩りをしていたエルフの男は獲物に向けていた矢を共に来ていた息子の頭に目掛けて放った。まだ10歳になったばかりの子供だ。エルフは寿命が長い分、子供が中々できない。事実、男もその子供ができたのは妻と結婚して100年程してからだ。だが彼には何の後悔もない。自分にはしなければならない事があるからだ。そうして男は大結界のその先を目指し歩き始めた。


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 猫人の幼女はまだ世界を知らない。まだ幼いから当然の事だった。だが彼女は自分の役目を理解した。彼女は両親が大好きだった。それでも彼女は旅立たなければならないのだ。全ては自分の使命を果たすために。例えそれで自分が死ぬ事になったとしても。そうして彼女はエデンを去り、人界に向かう為に大結界を越えた。


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 昔の事などもう何も思い出せなかったその魔物は、その囁き声で意識を取り戻した。かつての肉体ではない。人の言葉を話す事も出来ない。そんな化け物であっても、彼にはまだ使命が残っていた。ならば彼がすべき事など決まっている。だから彼は走り出す。住処を離れ、人を喰らって強くなりながら。全てはただ一人の為に。


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 全く同じ日、同じ時刻に、664の生命が一つの目的に向かって動き始めた。人界、エデン関係なく、それどころか人か魔物かも関係なく、ただ魂ある全ての生命の中で664の生き物が呼応するかのように進んでいく。そんな光景を旧キール神聖王国の王城にある最も高い尖塔の上に立った青年が眺める。もともと茶色だった短髪は彼の腰まで伸びている上に、左と右に分けるように左側は茶色く、右側は黒く染まっている。


 王国の周囲には何もない。逃げられる人は全て逃げた。しかし、彼の目は世界全てを見通す事が出来る。動き始めた同志たちを捉える事など至極簡単だった。


「ようやく目覚めたか。全くどれだけ待たせるんだ」


 青年はそう呟いて笑う。記憶を司る魂の核を封印され、弱体化した彼は簒奪者達に敗北した。核を失った絞りカスの様な魂は、その際に665の欠片になって世界に溶け消えた。長い年月を経て、器を得た欠片達に記憶は無く、宿った人々に風変わりな力を与えるだけの存在でしかなかった。


「だがそれももう終わりだ」


 彼は歯痒かった。何の因果か、目覚めた時、彼だけは他の欠片達とは異なって敗北の記憶を忘れていなかった。それから数千年。無力な彼は力を蓄えながら闇に潜み、簒奪者達の目を掻い潜り続けた。時折人界に降りる事もあったし、ここ数年は役を演じて裏から世界に介入してもいたが。


「だがそれももう終わりだ」


 青年はもう一度そう呟く。彼の次の役目は目覚めた核の下に集い、彼が持つ力を捧げる事ではない。強い自我を評価された彼は核のバックアップに選ばれたのだ。仮に核が敗れたとしても、その力と記憶は青年に継承され、簒奪者達を殺すだろう。


「さて、行くとするか」


 尖塔に立っていた青年は次の瞬間、崩壊した騎士学校の前にいた。それから彼は懐かしむように学校の中を一回りすると一瞬にしてどこかへ消え去った。


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「これから先生……さっきのアルツという人の様子を見に行こうと思うんだけど君はどうする?」


 資料館で本を読んでいたイブリスがジンに尋ねた。


「ああ、一緒に行かせてもらおう」


ジンは頷いて2日前にアルツを預けた警備隊の詰所に向かう事にした。


「それにしても今更だけど、アルツってどんなやつなんだ?」


 彼の事を何も知らない。唯一知っているのはイブリスに襲いかかり、食い殺そうとしていた事だけだ。だが不思議な事に魔物化する兆候はなかった。つまりあの行為はアルツの性質によるものなのか、それとも何か異常があったのか判断できなかった。


「普通に優秀な研究者だよ。言語学者でね。特に例の写本の解読を研究課題にしている。彼のおかげで少しだけ解読も進んでいるらしい。それと昔私が学生だった頃にお世話になった先生なんだ」


「ああなった理由は分かるか?」


「いや、残念ながら分からない。彼の所属する研究室のものなら何か知っているかもしれないが。後で話を聞きにいくとしよう」


 そんな事を話していると、気がつけば警備隊の詰所の前に来ていた。受付に声をかけてから二人は中に入る。途中止められる事なく、アルツが収監されている牢の前まで来た。牢の中ではアルツが鎖で何十にも体を縛られ、その端の部分は壁に繋がっており、口には猿轡が噛まされていた。意識はないようで微塵も動かなかった。


「すごく厳重だな」


 イブリスがボソリと呟く。それが耳に届いたのか、牢の前に立っていた警備隊の男が色々と話してくれた。彼曰く、自傷行為を防ぐためなのだそうだ。逮捕された直後は意識を失っていたため特に問題はなかったが、目覚めてからは脱走をしようと暴れ回ったのだ。壁や床を破壊しようとして殴りつけたり、蹴りつけたり、頭突きしたりと、死ぬのではないかと思うほどに暴走した。その瞳には完全に理性はなく、その様はただ獣のような凶暴な何かだった。


「魔物化の兆候がある訳ではないんだよな?」


 彼女の問いかけに警備兵は頷いた。


「ジン、君はどう思う? 魔物化してもいないのにまるで獣になった様に行動する理由は何だと思う?」


「……まさか瘴気とか?」


 つい先日ソールから聞いた話を思い出す。鏡の瘴気が人を狂わすという話だった。その上狂った者の中には殺して魂を奪おうとする者もいたらしい。その事をイブリスに話すと、彼女は深刻そうな顔を浮かべた。


「その可能性は高いかもしれないな。先生は何かを発見し、実験のために鏡の様子を見に行き、その時に瘴気に飲まれて精神が壊れたのかもしれない。当日の先生の行動を探ってみようか」


 その提案を受け入れ、二人は早速研究室に向かった。そしてその結果、二人の予想通り、アルツが調査に行くと言って鏡が封印された地に向かったという話を聞く事となった。

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