第9章:再起編

第233話:プロローグ

 そこは大陸南西部に広がる広大な砂漠だった。キール神聖王国とメザル共和国のどちらにも属さないその砂漠は、エレミア砂漠という名前であったが、あまりの過酷さから死の砂漠と呼ばれ、何かしらの理由によって国から迫害された者達が流れ着く場所でもあった。人々が生存する事も困難な場所ではあるが、そこに逃げる事になった人々の中でも幸運な者達は、砂漠にいくつか存在するオアシスに辿り着く事が出来た。そうした人々はそのオアシスに街を作り、やがて砂漠の民と呼ばれるようになった。


 砂漠の民とは一つの種族を指すのではなく、エレミア砂漠のオアシスに住む人々を指し、そのオアシスに住む多種多様な種族の総称を意味した。例えばかつて人界と亜人界が戦争をした際に、奴隷として人界に連れて来られた獣人やエルフ、ドワーフ達の子孫や、人間達の中でも迫害された一族である、アトルム人と呼ばれる者達がそこに住んでいた。


 アトルム人達が迫害された理由はその特性と容姿によるものだった。彼らは高い知性を有する一方で、黒い髪に黒い瞳というオルフェの使徒あるいは悪魔と呼ばれる者の特徴を持っていた。また、彼らの多くが『加護無し』であり、正しく悪魔の一族として世界中から認識されていたのだ。その上彼らの血は強く、誰と結ばれてもその身体的特徴と特性は必ず子供に表れた。


 定住できる場所のない彼らがエレミア砂漠に辿り着いたのは1000年近く前であり、それ以来、彼らはオアシスで独自の文化を花開かせ、さらに逃げてきた亜人達と協力関係を作った事で、その生活の質は過酷な砂漠であるにも関わらず、他国となんら遜色なかった。


 アトルム人と亜人達が住むそのオアシスに出来た街は逃亡者達の最後の楽園だった。


〜〜〜〜〜〜


 モナークと呼ばれるオアシスの都市から1キロほど離れた砂漠で、今まさに巨大な蟲が人々を襲っていた。それは100メートル近くある、ナガーシカという名の巨大百足だった。


「皆、逃げなさい! 積荷は捨てて早く! 死ぬわよ!」


 彼女らはカロレという街からモナークの街を目指していたキャラバンだった。そのキャラバンの隊長でアトルム人とハーフエルフの血を引くイーニャが叫ぶ。24歳という若さでありながら、その優秀さで隊長まで上り詰めた美しい女性だった。


「くそ、なんで真昼間にナガーシカが襲ってくるのよ!」


 ナガーシカは巨大であり、毒まで持つ危険な蟲だが、夜行性でよっぽどの事がない限り日中は安全なはずだった。しかし現在、彼女らはナガーシカに追われ、50人ほどいた仲間はいつの間にか半分ほどに減っていた。ナガーシカに喰われたのか、はたまたナガーシカの移動に巻き込まれて地面に埋もれたのかは分からない。だがこのままでは全員が死亡する事は間違いない。


「あっ!」


 イーニャが手を引っ張っていた12歳になる彼女の息子のアファリが砂に足を取られて転ぶ。


「アファリ!」


 イーニャが急いで彼を立たせるものの、改めて走り出そうとした時、彼女らの頭上にナガーシカの頭があった。口元から涎のようなものが垂れ、彼らの頭を濡らす。


「母上!」


 アファリが金切声で悲鳴を上げる。イーニャはそんな彼を抱きしめて、ナガーシカに背を向けて、目を閉じて必死に息子を庇った。だが彼女らの想定とは異なり、ナガーシカはいつまで経っても襲いかかって来ず、それどころか、剣戟の音が響いたと思った瞬間に、大きなものが地面に倒れる振動が彼らに伝わってきた。


 恐る恐るイーニャとアファリが目を開けてナガーシカの方を見てみると、そこには頭が真っ二つに割れて死んだナガーシカがいた。さらによく見ると、ナガーシカの上には隻腕の青年が短剣を持って立っていた。どうやら幸運な事に砂漠を哨戒していたらしい。


「ああ、ナナシ!」


「ナナシ兄ちゃん!」


 二人が駆け寄ると、青年はナガーシカの血を背にかけていた鞄から取り出した布で、器用に右手で拭いたままそちらに顔を向けた。


「本当にありがとう」


「ありがとう、ナナシ兄ちゃん」


 感謝の言葉に頷き、すぐに関心がなくなったかのように、剣の手入れを始めた。それを見て、イーニャとアファリは苦笑いをした。


〜〜〜〜〜〜〜


 彼らが出会ったのは今から丁度10ヶ月前だ。世界が血にまみれ、大陸に存在する四つの国のうち三つが四魔達に支配されようとしていた頃、イーニャのキャラバンが所用で砂漠を移動中に倒れた青年を見つけたのだ。


 その青年はアトルム人の外見的特徴を有していた。つまり黒髪黒目であった。正確な年齢は分からないが大凡20歳前くらいで、体格はよく鍛えられてがっしりとしていた。また左腕は無く、砂漠を越えるというのに装備は2本の短剣しか持っていなかった。


 イーニャが様子を確認すると、極度の脱水症状により危険な状態だった。慌てて彼女は近くのオアシスに彼を連れて行き、看病した。


 数日後青年が目覚めた時、イーニャは彼に何故砂漠に装備もなく彷徨っていたのかを尋ねた。犯罪者であり、何かしらの罪を犯してこの砂漠に逃げ込んだのであれば、然るべき対応をしなければならなかったからだ。


 だがその返答は彼女の想定とは異なっていた。


「疲れたから」


 ベッドに横たわったまま、伽藍堂な瞳で虚空を見つめながら青年はそう呟いた。その目をイーニャは知っていた。今までにオアシスに辿り着いた多くの人達と同じ目だったからだ。もちろん彼女もそうだった。


 イーニャは父親がアトルム人、母親がハーフエルフで、生まれた時から奴隷だった。12歳の誕生日に、自分達の主人に両親を斬り殺され、母親譲りの美しさを持った彼女は犯された。しかし彼女はベッドでイビキをかいていた主人を近くにあった燭台で殴り殺し、金や宝石を近くにあったリュックに詰めて、隙を見てそこから逃げ出した。


 どこに逃げればいいか分からなかった彼女はかつて父親から聞いたエレミア砂漠の話を思い出し、一縷の望みをかけて小さな足で旅を始めた。幸いな事に路銀は潤沢にあった為、砂漠を乗り越える為の装備や乗り物となるラクダという動物を購入する事ができた。


 3ヶ月後、幸運な事に彼女はユステというオアシスにある都市に辿り着き、そこで暮らす事になった。人々は彼女の境遇に同情し、手厚く向かい入れてくれた。


 それからすぐに彼女は自身が妊娠している事を知った。父親が誰かは容易に想像出来た。両親を殺した男の子供を孕んだ事に彼女は絶望し、命を捨てようとした。しかし、複数のキャラバンのまとめ役で、今の夫であるゼルに救われ、そのまま商人という仕事を始めた。アトルム人の血を引いている彼女はメキメキと頭角を表し、4年後には自身のキャラバンを持つまで成長した。


 ゼルはアファリを実の子の様に大切にしてくれた。それは彼女が彼の子供を産んでからも変わらなかった。そんな事を思い出しながら、彼女は青年に話しかけた。


「あんたが今までどんな目にあってきたかは知らない。だけど、この砂漠に住む人々はきっとあんたを受け入れてくれるさ」


 その言葉が彼の閉じた心に届いたのかは分からなかったが、空っぽの瞳を向けてきた彼に向かって、イーニャは優しく笑いかけた。


「それで、あんたの事はなんて呼べばいい?」


「……名前は無い。あれはもう捨てた。好きに呼んでくれ」


 青年がボソリと呟いた。


「そうかい。ならあんたは今日からナナシだ。あんたが自分の名前を取り戻すまで、あたしはそう呼ばせてもらうよ」


 こうして、ナナシという青年が生まれた。ナナシは体調が良くなると、キャラバンの護衛や砂漠を徘徊する魔物や魔獣を討伐する狩人を務める様になり、瞬く間に人々に受け入れられていった。イーニャの息子のアファリと娘のレミアとスインも彼によく懐いて、ナナシが暇な時はいつも遊びに行くようになった。半年もすると、彼はもう砂漠の民の一員であった。


〜〜〜〜〜〜〜


 深夜、子供達が寝静まった事を確認してから、食卓で酒とつまみを食べるイーニャはゼルに今日会った事を具体的に話していた。


「それにしても、近頃魔物やら魔獣やらが活性化しているね。やっぱり獣魔の影響なのかしら」


「そうかもしれないな」


 イーニャのキャラバンが襲われたという報告を受けた、彼女の夫であるゼルは血の気が失せた。その上危うく死にかけたという話を聞いて、仕事もそっちのけで急いで家に帰ってきたのだ。


「本当にナナシには感謝してもしきれないな」


 ゼルが呟く。それにイーニャは賛同し、昼にあった光景を思い出した。


「やっぱり、ナナシは使徒なのかもしれないね。戦士が百人いたって倒せないようなナガーシカを一撃で仕留めるなんて、常軌を逸しているよ」


「かもしれない。だが、彼は我々アトルム人の特徴である黒髪黒目で、しかも法術を使っている様子がないから『加護無し』の可能性が高い。つまり、本当に使徒であるとすれば女神フィリアではなく、オルフェ様の使徒だろうな」


 砂漠の民はフィリアに見捨てられた民である上に、亜人達と共生しているため、フィリアよりもオルフェを信奉していた。そんな彼らにとって、オルフェの使徒は祀るべき存在である。


「そんな御方を今みたいに傭兵のように扱ってもいいものか」


「一応ナナシには不自由の無い様に衣食住を整えたり、女の子を紹介したりしたんだけどね。どうも女の子は嫌みたいだった。そんな事より化け物と戦う方がいいんだとさ」


「そうか。まあ、ナナシのいない場所で勝手に彼の望みを考えても意味は無いな。明日、彼にお礼として何か欲しいものがあるか聞いてみるとしよう」


「それが良さそうだね」


 そんな事を話してから、二人は寝室に向かい、やがて眠りについた。


〜〜〜〜〜〜〜


 窓の外をぼんやりと眺める。満天の星空はいつ見ても綺麗だった。今ここにいない彼女を思い出し、その名を呟く。あいつと一緒に見たかった。でも、もうそれは叶わない。それが苦しくて、涙が溢れてくる。


 街の明かりが徐々に減っていき、星空はより鮮明に見える様になったはずだった。だけど涙のせいで、その星空を見る事は出来なかった。


「シオン……」


 もう一度彼女の名を呼ぶ。それから顔も性別も知らない俺達の子供を思い浮かべた。その子は今生きているのだろうか。何も分からない。だけど、それを確認する勇気が、シオンに会いに行く勇気が俺にはなかった。どれだけ怪物を倒そうとも、どれだけ強くなろうとも、どれだけ強い怒りや憎しみを抱こうとも、結局俺はいつまでも甘ちゃんで弱虫で情けない。姉ちゃんを失った7歳の時から何も変わっていないクズだ。


 ゼルから聞いた話によると、この砂漠の外では多くの人々が苦しんでいるらしい。シオンがその一端を担っている事を想像する。あいつがそんな事を望んでいないなんて分かっている。あいつがそうなった原因が俺にある事も理解している。レトの中できっとあいつは泣いている。だけど、それでも俺は、あいつと戦うという選択肢を選べない。


 そうしてあいつは囚われ続け、苦しみ続ける。俺はそんなあいつの事を知りながらも、見て見ない振りを続ける。どこまでもクズで終わっている人間だった。

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