第226話表へ

 黒い澱みの中へと体が沈んでいく。もう一度あいつに会いたくて、必死に抜け出ようともがいた。でもどんどん、どんどん沈んでいった。


 僕は僕の目を通して僕以外の『誰か』が僕の体を動かすのをただ眺める事だけしかできなかった。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 アレキウス団長が『僕』に攻撃を仕掛けてきた。僕は沈んでいくのも忘れて「逃げて」と叫んだ。だけどそれにはなんの意味もなかった。『僕』はアレキウス団長を弄びながら殺した。


 思わず目を背けると、すぐに口の中に甘美な味が広がった。何も口に入れていないのにだ。すぐに僕は『僕』の目を通して、今何が起こっているのかを認識した。生々しい赤い液体を啜り、引きちぎりバラバラになった肉片を口に入れる。おぞましい光景のはずなのに、僕の飢えは収まり、歓喜へと変わった。食べたくないのに、『僕』は止まってくれなかった。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「なにを食しているのだ?」


振り向くと今度は陛下がいた。


【ふむ? 誰だ?】


 僕ではない『僕』が言葉を発する。自分の口から発せられる自分の声のはずなのに、それはひどく別物の様に感じた。


 『僕』の挑発を受けて、陛下が剣を抜く。だけど一眼見ただけで、『僕』と陛下の間に存在する隔絶した壁に気がついた。以前まで感じていた圧倒的な気配は陛下からは感じられず、反対にひどくちっぽけな存在のように思えた。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 やっぱり僕の予想通りだった。陛下は何もすることができなかった。『僕』の内から次から次へと未知の力が湧き上がってくる。残虐な暴力が陛下を襲う。自信を内から醸し出していた陛下はいつの間にか小さな子供の様に怯えていた。それでも『僕』は実験を続けた。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 後ろから声が聞こえてきた。心が掻き乱された。こんな僕を見て欲しくなかった。こんな、化け物になった僕を。


 だけどそんな事、そいつには関係なかった。僕の想いなど関係ないかのようにニヤリと笑う。それを見ただけで僕の心は救われる様な気がした。赤ちゃんの事を知っても僕を想ってくれているのだと理解できた。


 愛しくて愛しくて心が一杯になる。今すぐ抱きしめたいと思った。でも僕の体は僕の願いを無視する。それにあの男の言葉をふと思い出した。ジンに対して抱くこの想いは本当に僕のものなのだろうか。それが急に怖くなった。あれだけ活力にしていたはずの想いがいつの間にか恐怖に転じていた。


 そうこうしているうちに、ジンが『僕』の術にかかり、動かなくなった。このままではアレキウス団長と陛下のように悲惨な目に遭うに違いない。だから僕は必死に叫んだ。


「ジン! 逃げて!」


 だけど声を届けるための口は別の言葉を発し続けた。


「……当然か。僕はもう」


 『僕』、いや法魔はもう僕よりも『僕』だった。初めから僕にはどうしようもなかったのだ。この澱みから抜け出すなんてもとより無理だったんだ。諦念が僕の心を覆った。その時だった。


「簡単に諦めるのは、お姉ちゃんちょっと感心しないなぁ」


 僕は声が聞こえてきた方になんとか顔を向ける。そこにはナギお姉さんがいた。


「お姉さんなの?」


 呆然とした顔で僕は尋ねた。


「うん。久しぶりだね」


 僕の記憶の中にあるお姉さんと同じように優しい笑顔を僕に向けてきた。


「まずはそこから出ようか」


 そう言うと、僕一人では動くのも難しかったのに、ナギお姉さんは僕をいとも簡単に引っ張り出してくれた。


「……どうしてお姉さんがここに?」


「あんまり時間がないから具体的に説明できないけど、あなたの精神を表に出して、法魔を抑え込むためよ」


「どう言う事?」


「あなたを法魔から解放するの」


 その言葉に僕は目を丸くする。


「そんな事出来るの!?」


「普通なら出来ない。だけどあなたは体の中に3つの魂を宿している特異な存在。法魔はまだあなたの魂が自身に取り込まれたと勘違いしている。だからこそ隙が生まれているの」


「僕は取り込まれているんじゃないの?」


「正確にはまだ取り込まれていないだけ。法魔はあなたの中にあった『私』の魂の一部をあなたのものと勘違いしているだけ。あいつの中にある私の魂が、あなたの中にある『私』と真っ先に結びついたの。あなたを取り込む前にね」


「でも法魔は僕の体も、記憶も持っているんだよ」


「『私』はあなたの半身で、『私』の魂はあなたと融合して以降も記録媒体としての役割を果たしてきた。だからあいつが読み込んでいるのはあなたのではなく『私』のもの。つまりあなたはまだ完全に支配されているわけじゃないわ」


「それじゃあ……」


「うん。あなたはここから抜け出せる」


 僕の心は明るくなった。でもすぐに自分が乗っ取られていた時に行ってきた事を思い出した。


「……やっぱりダメだ。僕は救われていい存在じゃない」


 忘れていた事も今では簡単に思い出せた。笑いながら人を殺し、喰らい、蹂躙してきた。そんな存在が生きていていい訳なかった。


「……ねえ、シオン。ジンのことは好き?」


 突然、お姉さんはそんな事を聞いてきた。


「……分かんない。好きだったと思う。前はそう言えた。だけど今は分かんない」


 ディマンの言葉を完全に信じた訳ではない。だけど、こうして目の前にナギお姉さんがいることからも、僕の感情は彼女から発露したものを、僕が勝手に勘違いしていただけなのではないかと疑いが強くなってしまっている。


「あの男が言った事を気にしているなら、心配しなくてもいいよ。『私』は今、ただ一つの魂、つまり『私』や法魔と融合していないあなたそのものに聞いているんだから」


 その言葉に僕はハッとする。お姉さんがこうして目の前に現れたということは、今こうして思考する僕はお姉さんと分離された元々の僕の魂という事だ。それがジンをどう思っているかなんて決まっていた。


「好きだ。好きに決まっている!」


 僕は断言する。この気持ちは絶対に揺るがないものだ。僕の言葉を聞いて嬉しそうにナギお姉さんが笑う。


「うんうん。確かにきっかけはあの男が言うように『私』の魂によるものかもしれないけど、今そうしてあの子を好きって言えるのは『私』じゃなくてあなた自身による気持ちなんだよ」


 その言葉が僕にはとてもありがたかった。ジンを、あいつを好きになったのは紛れもなく僕だったのだ。


「今、きっとあなたは自分の意識がない間に行われた惨劇を悔いていると思う」


 ナギお姉さんにそう言われて、僕は思わず目を背け、下をじっと見つめた。


「……」


「分かるよ。それがどれだけ辛い事か」


 僕はカッとなった。この苦しみを『分かる』の一言でまとめて欲しくない。


「お姉さんに分かるわけっ!」


「分かるよ。だって『私』もそうだから」


 ナギお姉さんは悲しげに微笑んだ。


「法魔に取り込まれていた私の魂が、あなたの中にいたこの『私』と結びついたおかげでね、『私』はこうして起きる事が出来た。『私』の半分は法魔に取り込まれたけど、もう半分はあなただから、『私』はまだ取り込まれずに『私』でいられる。だけど同時に法魔になった私の記憶も流れ込んできた」


 僕の事を優しく抱きしめてくれる。


「辛いよね。苦しいよね。全部、全部分かっているから」


 その言葉が胸に響く。僕は思わず泣き出した。そんな僕の頭を、お姉さんは優しく撫でてくれた。


「こうしてあなたを慰めてあげたいけれど、時間が本当にないんだ。泣きながらでいいから話を聞いてくれる?」


 僕はお姉さんから離れ、目を擦ってから話を続けるようにと彼女に目で訴えた。


「チャンスは一度。『私』が法魔の魂を揺らがせる。その時に出来た隙をついて表に出て。『私』はそのまま法魔を『私』の中に封印する」


「そんな事出来るの?」


「昔の『私』なら無理だけど、今の『私』は法魔でもあるの。だから必要な知識はもう持っているわ」


 お姉さんはにっこりと笑った。


「『私』は法魔を封じた後、あなたの魂から完全に分離して、この肉体から離れる。そうすればあなたは『私』からも法魔からも完全に解放される事になる。ただ『私』の力もその時に離れる事になるから、もう使徒ではいられなくなると思う」


 ナギお姉さんの言葉はなんとなく理解出来た。僕が全属性の法術を使えたのは、法魔の力を身に宿していたからだ。そしてその力は元々お姉さんの魂に刻まれたものだった。この体からお姉さんの魂が抜ければどうなるかなど容易に想像できた。


「安心して。魔物になる事もないはずだから。あなたの肉体を蝕んだオルフェンシアはもう完治しているもの。だから大丈夫」


 【生命置換】を行うきっかけになった病気であるオルフェンシアは人間の生命力を奪い、強引に魔物へと転じさせる。完治していなければ、また僕は魔物になるかもしれなかった。それに気がつく前に、ナギお姉さんはそう言ってくれた。


「それじゃあ、そろそろ始めましょう」


 ナギお姉さんが力を解放する。薄暗い空間に眩い光が広がっていく。黒い澱みがどんどん浄化されていく様に透明な液体へと変わっていった。ふと、外の声が聞こえてきた。


【……それにしても貴様、自分の子供を殺す気か?】


「当然だ。俺はシオンが表に出てくるならなんだってやってやる。たとえあいつに恨まれたとしてもな」


 とんでもない事をあの馬鹿は言う。僕達の赤ちゃんをなんだと思っているんだ。頭がカッとなった。


「ふざけるなぁぁぁぁぁぁぁ!」


 僕はあいつに向かって思いっきり叫んだ。後ろで楽しげに笑うお姉さんが、小さく「あの子と姪っ子によろしくね」と言っているのが聞こえた。そうして僕の意識は飛び出していった。

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