第166話ティータ

 少女は路地を駆けていた。目的は一つ、ただ彼女の弟のために。


「おっと、何急いでんだよ?」


 突然横の廃屋から腕が伸びてきたと思ったら、強く右腕を掴まれた。


「きゃ!?」


 その痛みに小さく悲鳴を上げた彼女の目にはニヤニヤと笑いながら、下卑た目を彼女に向けてくる禿頭の太った男と、痩せぎすの男が立っていた。どうやら痩せぎすの男の方に掴まれたようだった。


「放せよ!」


「ああ?何だてめえ、誰に舐めた口聞いてるかわかってんのか?」


 痩せぎすの男が少女の髪を掴み、引っ張る。その痛みに少女の瞳に涙が浮かんだ。


「誰のおかげで、ここで飯を食えてると思ってんだよ?全てはここにおられるカルボ様のおかげだろ?じゃなきゃ、てめえみてぇなクソガキがこんなところで客とれるはずねえだろうが!」


 そう言うと男は少女の腹を殴った。


「かはっ」


 少女の口から肺に溜まっていた空気が溢れ、あまりの痛みに体をくの字に曲げて倒れそうになるも、痩せぎすの男は髪を掴んでそれを許さなかった。


「あんまり調子に乗ってんじゃねえよ!」


 何度も何度も少女の腹部を殴りつけ、ついには顔を殴ろうとしたところで、禿頭の男がその腕を抑えた。


「レスコよぉ、顔はやめろっていつも言ってんだろう?こいつの価値が下がるじゃねえか」


「す、すんません!つい熱くなっちまいやした!」


 カルボに睨まれて、レスコと呼ばれた男が慌てて頭を下げる。


「……れも」


「ああ?」


「……れもあんなこと頼んじゃいねえ!あんたらがお父さんを殺して、お母さんの心を壊したからだ!」


 少女は震える声でそう叫ぶとペッと唾をレスコの顔目掛けて吐いた。ピチャリと血が混じった唾が頬に付着した。


「て、てめえ、いい度胸してんじゃねえか!」


 レスコは強引に掴んでいた髪を引っ張り、彼女の頬を思いっきり殴った。髪が何本も抜ける代わりに、レスコの手から逃れることは出来たが、腹部の鈍痛と頬を殴られた痛みでその場から動くことが出来なかった。


「価値が下がるから、顔はやめろってさっきから言ってんだろうが、この馬鹿が。まあいい。なあティータ、俺たちは何もお前を苦しめたくて、こんな事をしているわけじゃねえんだ。だがよぉ、いくらガキとは言え、働いている以上、通すべき筋ってもんがあるだろ?だからお前みたいに1人じゃ何にも出来ないガキに、変態どもを斡旋してやっている俺たちにしっかりと払うべきものがあるだろ?」


 ティータを起き上がらせると、その肩を撫でながら優しく諭すような声で彼女に話しかける。


「俺たちの優しさだよ。賢いお前なら分かってくれるだろ?」


「ひっ」


 少女はギュッと両肩を抱き、縮こまって震える。初めて目の前の男に犯された日のことを思い出す。忘れたくても忘れられない恐怖が心の底から湧き上がってくる。今すぐ泣き喚いて逃げ出したくても、体が金縛りにあったように硬直した。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 ティータと彼女の弟のカルルは裕福ではないものの、一般的な家庭に生まれた。優しく美しい両親に愛されながら、日々を過ごす。そんな当たり前の日常を、ある晩、目の前の男が全てぶち壊した。


 その夜は激しい雨が窓を叩いていた。雨宿りをさせて欲しいと、カルボとその部下が2人、ティータたちの家にやってきたのだった。両親は明るく受け入れていたものの、ティータは男たちの目に潜んでいる暗い感情を感じ取り、何度も父親に追い出すように影でこっそりと懇願した。しかし父はそのお願いを聞いてはくれなかった。困っている人を見過ごせないのがティータの父であり、ティータはそんな所を尊敬していた。結局彼女はカルボ達を受け入れた。


 事件が起こったのはティータと弟のカルルが寝静まった後だった。突然父親の叫び声とともに母親の悲鳴が聞こえてきた。怖がるカルルを隠れさせてから声が聞こえてきた部屋まで行った彼女は、それが父の断末魔であったことを目の前に広がる光景を見てすぐに理解した。


 男に組み敷かれ、泣き叫びながら父の名を呼ぶ母親。そのすぐそばで生気を失った目で虚空を見続けている父親。吐き気のするような血臭と下卑た笑顔を浮かべながら、母に覆いかぶさって腰を振る男。母親がふと顔を上げてティータの存在に気がついた。


「逃げて!」


 母親の声にティータは弾かれるように動き出そうとして、いつの間にか後ろに立っていた見知らぬ男に抱き留められた。どうやらいつの間にか入ってきていたらしい。おそらく目の前の男に手引きされたのだろう。


「おっと、逃さねえよ」


 ニヤニヤと笑いながら、その男はティータを地面に押さえつけると、彼女の母親が犯される光景を見せつけた。


「見ないで、見ないで!」


 泣きながら懇願する母親の願いを叶えるために、ギュッと目を閉じて顔を背けるが、すぐに自分にのしかかっている男が彼女の髪を乱暴に掴んだ。


「見ろ!ぶっ殺すぞ!」


 ティータはその声を聞いて心の底から震え上がった。初めて他人から殺意を向けられたのだ。10歳程度の少女には無理もないことだった。そうして生き残るために彼女は自分の母親が辱められていく様を見続けた。やがて満足したのか、母親から体を離した禿頭の男は、今度はティータに近寄ってきた。


「お前の母ちゃん、中々よかったぜ」


 その言葉をティータは聞き流しながら、ただ感情が抜け落ちたような表情を浮かべて泣き続ける母親に、他の男達が群がっていく様を茫然と眺めていた。


「さて、お前はどうかな?」


 そう言って、禿頭の男はティータの体に優しく触れた。ティータは自分がこれからどうなるか、すぐに理解した。


「やだ、やだ!助けて、お母さん!助けて、お父さん!」


 必死に束縛から逃れようと体を動かすも、頭を踏みつけられる。ティータは痛みに泣き叫んだ。


「無駄だって。親父はもう死んでるし、母親は向こうでお楽しみ中だから気がつかねえよ」


 カルボがティータの服を掴むと強引に引き裂いた。悲鳴を彼女は上げる。


「ぎゃあ!」


 突然、母親の方から男の苦悶の声が聞こえてきた。ティータとカルボがそちらに顔を向けると、何かを食いちぎった母親が周囲の男達から必死に逃れ、カルボに体当たりをした。カルボは無様に床に転がった。


「カルルを連れて逃げて!」


「で、でも、お母さんは?」


「お母さんは後で必ず迎えに行くから、だから今は逃げて!」


 その言葉に、ティータは頷くと必死になって弟が隠れている彼女達の寝室に駆け込み、弟を立たせるとその手を取って走り出した。何があったのか聞いてくる弟を無視して、部屋の窓から飛び出そうとした所で、弟が悲鳴を上げた。振り返ると弟の首元にはナイフが突きつけられていた。いつの間にか家に入り込み、別の部屋を荒らしていた男がいたようだ。


「カ、カルルを放せ!」


 だが男は笑いながら断った。結局、弟を人質にとられたティータは家から逃げ出すことが出来なかった。そうしてまた母親達がいる部屋まで連れてこられた。彼女の目の前には散々殴られて顔を晴らした母親が転がっていた。プルプルとティータとカルルに向けて伸ばした彼女の手を、禿頭の男が笑いながら踏み潰す。骨が砕ける音が部屋に響き、カルルがあまりの恐怖に泣き出した。


「ちっ、うるせえな。おいレスコ。黙らせろ」


 カルルを拘束していた痩せぎすの男がカルルの首を締める。呼吸が出来ず、苦しむカルルを見て、ティータは精一杯叫んだ。


「やめて!あたしには何をしてもいいから、カルルには手を出さないで!」


 その言葉は受け入れられ、ティータは自分の体と引き換えに、カルルの命を守った。だがティータとカルボの情事を見せつけられたためか、既にそうだったのかは分からないが、母親の心は完全に壊れてしまった。そうして彼女は10歳にして心の壊れた母親と、まだ幼い弟の面倒を見なければならなくなった。


 彼女は憎むべき相手だと分かっていても、カルボの力を借りるしかなかった。彼の持つパイプで、自分のような子供を買ってくれる変態達を紹介して貰い、日々生きていくために体を売り、盗みを働いた。定期的に教育と称してカルボ達に殴られ、犯された。そんな生活がいつ終わりになるか分からない。ただ弟のカルルだけが彼女に残された最後の希望だった。


そんな彼も昨日ティータを守るためにカルボの部下に文句を言った。大して酷い言葉ではなく、せいぜい馬鹿とか間抜けとか、そんな幼い言葉だった。でも運が悪かった。相手は機嫌を損ね、逃げようとしたカルルを背中から切りつけた。ティータがカルルを発見した頃、彼は大量の血を流し、ぐったりとしていた。カルルを救うために、彼女には早急に金が必要だった。つい先日、借金の返済としてカルボに金を支払ったばかりだったからだ。ジンを狙ったのは、本当に偶然だった。


〜〜〜〜〜〜〜〜


 レスコに突き飛ばされ、カルボがズボンに手をかけたことで、今から何をされるかをティータは理解した。体を押さえてくるレスコから必死になって逃れようとすると、懐に隠していたジンの財布が地面に落ちた。


「お?なんだ、盗んだのか?」


 カルボが拾い上げて中を確認する。


「少し足りねえが、とりあえずはこれを斡旋料として受け取ってやるよ」


「か、返せ!あたしはこの金であの子の薬を買うんだ!」


 カルボになけなしの勇気を振り絞ってティータは叫ぶ。だがカルボはそんな彼女を嘲笑った。


「あのガキはもう助からねえよ。それよりその生意気な態度を直さねえとな。そういう奴が好きって客もいるにはいるが、従順な奴の方がいいって言うクズどもの方が多いからな」


「やめろ!あたしの体に触るんじゃねえ!」


 ティータは涙を流しながら、首を振って嫌がる。そんな彼女の頭を強引に掴んで固定すると、カルボは無理矢理彼女の唇にむしゃぶりついた。


「やっと見つけたぞ。クソガキ」


 突然の言葉に、その場にいた3人が一斉に振り向いた。そこには砂が入ったせいで目を赤くした青年が立っていた。

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