第7話 エトナ

 1


 オーヴァを渡ってパデリアに着いた。

 船の中でバルドは迷っていた。

 バルドラント王子の顔を見にパルザムの王都に行くという予定の通りにするべきか、判断がつかなかったのである。

 行けば粗略には扱われないだろう。

 それは分かっている。

 シャンティリオンはバルドへの友情を失っていないはずだ。

 シェルネリア妃もいる。

 ふつう前王の妃は後宮を出て静かに余生を送ることも多いというが、次の王の母であるから、今も後宮にいるはずであり、しかもその権勢は非常に強いと思われる。

 バリ・トードも喜んで迎えてくれるだろう。

 それは分かっているのだ。


 だが。

 ジュールラントがもういないというそのことが、何かしらパルザムの王宮を、ひどく縁遠いものに感じさせていた。

 見知らぬ国の見知らぬ王宮であるような気がするのだ。

 そこに入り込んで王子の顔を見たい、などと言うことが、ひどく敷居の高い振る舞いに思える。

 どうしたものか。


 そう思いながらパデリアに着いた。

 着いてみてびっくりした。

 発展しているだろうとは思っていたが、けたが違う。

 大きな商館や倉庫が立ち並び、道を埋め尽くすように荷車や馬車が走り、人々の怒号が飛び交っている。

 ここはどこかと目をしばたたかせた。

 もうこじんまりした交易村などではない。

 一大貿易拠点なのだ。


 その夜はリンツ商会のパデリア支配人なる者から供応を受けた。

 病み上がりだと聞いていたようで、静かでこじんまりした宴だった。

 だが品数は豊富で味付けはよく、出される酒も上質のものだった。


 翌日、支配人と従僕に付き添われて、街の出口の門に向かった。

 以前は防御柵がほそぼそと立てられて歩哨が巡回していたが、門などはなかった。

 その門たるや実に立派なもので、入り口二箇所、出口三箇所の検閲所があり、出入りする荷や人を調べている。

 こちらにどうぞと言われ、脇門のほうに案内された。

 いや、脇門ではないかもしれない。

 検閲所のある門は大きく広いが無骨な作りである。

 こちらは小さいが、格式のある豪奢な作りをしている。

 こちらが正門であるのかもしれない。

 すると、


「おい。

 われわれ辺境騎士団の荷は検閲するのに、その老人は素通しか。

 いったいここは……。

 や!」


 荷駄隊とそれを指揮する騎士らしい男が検閲を受ける列に並んでいた。

 その指揮官らしき男が、バルドを見て目を丸くした。


「や、や、や!

 これはっ。

 バルド・ローエン様ではありませんか。

 なんともはや、お懐かしい。

 ワジド・エントランテの職位は辞されたとのことでありますが、今回また王都をご訪問なさるのですか。

 いやあ、それにしてもお元気そうでうれしいばかりです」


 見覚えのない男である。

 もじゃもじゃの黒髪とひげを持ち、団子鼻をした騎士で、まあまあ風格もあるといってよい。

 誰じゃこいつ、なれなれしい、とバルドは思った。


「団長!

 では、こちらのかたが、かの英雄バルド・ローエン卿であられますか」


「そうだ。

 うむ。

 お前たちではお顔も存じ上げないだろう。

 過ぐる第一次諸国戦争では、ロードヴァン城に立てこもって千匹の魔獣を殲滅し、王都防衛戦では千騎のシンカイ軍を手玉に取って敗走させ、さらにヒルプリマルチェの戦いでは御自ら物欲将軍を倒しなされ、さらに第二次諸国戦争ではわずか二十一騎の精鋭を率いて物欲将軍にとどめを刺し、わが国をお救いくださった大英雄であられる。

 しかもバルド大元帥は、先王ジュールラント陛下の師父にして導き手であられる。

 いやいや、それだけではない。

 なんとジュールラント先王陛下とシェルネリア太后陛下のお仲人でもあられるのだ。

 わしもこの目で見たことであるから間違いない。

 実は次期王たられるバルドラント王子の御名も、バルド様の御名から取られたに違いないと、わしは思っておる。

 皆!

 皆!

 英雄バルド・ローエン様であられる。

 拝謁してごあいさつせよ!」


「おおっ、このかたが」


「バルド・ローエン様じゃと!」


 いや、大騒ぎは勘弁してくれ、とバルドは思ったが、もう遅い。

 検閲待ちしていた者も、警備をしていた者たちも、近寄って来てバルドを拝んだ。

 しばらく頭のくらくらするような騒ぎがあったあと、どういうわけか、バルドはくだんの騎士の一隊と共に西に駒を進めることになっていた。


「バルド様の指揮下で戦ったことが夢のようです」


 なに?

 この騎士はわしの下で戦ったことがあるのか。

 ああ。

 王都防衛戦かカッセ平原の戦いのとき、王軍にいたのかもしれんな。

 と思いながらバルドは、ところで貴殿は、と自己紹介に水を向けてみた。


「おお!

 これは失礼いたしました。

 実は三年前、辺境騎士団長を拝命しました。

 ロードヴァン城をゴリオラ皇国に譲ってから、辺境騎士団の本拠地はコルポス砦に移されましたのであります。

 騎士団の規模も、いっときは半分以下に縮小されましたが、今は南方貿易も盛んになり、ゴリオラ皇国との貿易も拡大する一方ですので、今はまた増員傾向にあります。

 あのパデリアは、もともとパルザム王国が作ったのですが、リンツ伯が防衛戦力の肩代わりをすると申し出て以来、なし崩しにリンツ伯の領土のようになってきております。

 実にけしからんことであります」


 いや、そんなことよりおぬしの名は何じゃ、とバルドは思ったが、騎士の副官らしき男が助け船を出してくれた。


「エネス団長殿は、バルド様と剣を交えられたことがおありなのですね」


「うむ。

 まさに完敗。

 今はわしにとって最高の自慢話になったがな。

 はっはっはっはっはっ」


 エネス。

 エネス。

 どこかで聞いた名なのだが。

 しかし、わしと剣を交えたことがあるじゃと?

 わしはパルザムの騎士と剣を交えたことなど……

 思い出した!

 エネス・カロン。

 辺境競武会での部門優勝者で、模範試合で戦ったわい。

 バルドはしれっとした顔で、エネス・カロン殿もお元気そうで何よりじゃ、と言った。

 エネス・カロンはひげもじゃもじゃの顔一杯に笑いを浮かべた。


 2


 エネスは人懐っこいたちで、しばらく歩くうちに口調もこなれてきて、なかなかよい道中の話し相手になった。

 バルドはエネスから最近のパルザムの事情について、いろいろと話を聞いた。

 その中で驚いたのは、パルザムからパクラに定期的に騎士が派遣されている、ということだった。

 これには事情があった。


 第一次諸国戦争の勃発と相前後して、先王ジュールラントはパクラのテルシア家に対して筆頭騎士シーデルモント・エクスペングラーを貸してほしいと申し入れていた。

 初めは渋ったテルシア家も、期間を三年に限ることとそのあいだは代わりに二人の騎士をパクラに派遣する、という条件で押し切られた。


 ところがこの二人の騎士は一年で逃げ帰って来た。

 冬の砦詰めの厳しさと魔獣の恐ろしさに耐えかねたのである。

 テルシア家からはただちにシーデルモントを返すように催促があった。


 ジュールラント王は困惑した。

 当初客将に迎えるつもりだったシーデルモントは状況の変化で上軍正将の座に就いている。

 第一次諸国戦争は勝利に終わったものの、王軍は疲弊して立て直しが急務である。

 公正で面倒見がよく、戦術に優れ無理な指揮をしないシーデルモントは、今やなくてはならない人物だった。

 それに何といっても、ジュールラントにとりシーデルモントはバルドのもとで共に騎士修行をした兄のような存在であり、これほど気心の知れた信頼できる相手はまたとない。


 そこでジュールラント王は、五人のごく若い騎士を五年の期間で貸し出した。

 そちらで気の済むように鍛えて使ってほしいという含みである。

 その時点では、当初の約束の三年間がたてば、シーデルモントはパクラに返すつもりだった。


 ところが三年の期間が過ぎるころは、第二次諸国戦争の後始末と、国家全体の軍事力を西と南に向け再編する事業で大わらわであり、どうしてもシーデルモントに抜けてもらうわけにいかなかった。

 そしてさらに五人の若い騎士を五年の期間で貸し出し、シーデルモントの貸し出し期間を三年延長してほしいと頼み込んだのである。


 そうしているうちに、最初に五年間の期間で預けた騎士たちが帰ってきた。

 彼らの成長ぶりには目覚ましいものがあった。

 それに目を着けたのが王都の中下級貴族たちである。

 彼らの次男三男が出世する近道は軍功を上げることだが、王都の騎士家に修行に出てもろくな戦闘訓練は積めない。

 また、妙な家と師弟関係ができても困るし、かといって上級貴族家に修行に出せば便利使いされるだけだ。

 テルシア家に修行に出せば、役に立つ騎士に育ててくれるのではないか。

 しかも王都からはるか遠いテルシア家は、しがらみというものがない。

 王の実家なのだから家柄にも問題ない。

 そう考えた貴族たちが、騎士叙任寸前の次男三男らを、相応の謝礼を添えてパクラに修行に出したいので口添えしていただきたい、と王に申し出たのである。


 王は困惑した。

 パクラとしては、騎士見習いを引き受けても二年か三年してものになったら出て行く、というのではまったく迷惑なだけでうまみがない。

 だからパクラで修行して騎士になった者は、その後五年間パクラで聖なる勤めに従うこと、その間は無給であり滞在費用は自己負担とすること、という条件を付けた。

 この条件を聞いて引き下がる者が多かったが、それでもなおと願う者もいた。

 王は彼らをパクラに送った。

 以来、パクラでの修行が定着しつつあるのだという。


 バルドはあきれた。

 魔獣相手の戦いを覚えたからといって、中原での戦争のやり方が上手になるわけではない。

 ましてパルザムの王軍は中原の軍の中でも特殊である。

 すぐに順応したジュールラントやシーデルモントは例外中の例外なのである。

 しかしよく考えてみれば、そう悪い話でもない。

 装備と戦術と組織に重点を置いた軍では、個人の武威は育ちにくい。

 パクラで修行すれば、個々人の武と、少人数での連携が厳しく問われる。

 それを学んだ者がパルザム式の軍で戦えば、それこそ無敵の軍となるのではないか。


 パクラにとっても悪い話ではない。

 少人数の腰掛けならかえって迷惑だが、全体でそれなりの人数になり、しかも騎士叙任後五年間奉公してくれるとなれば、人員に余裕ができる。

 そうすれば、けが人にゆっくり治療させることもできるし、盗賊の討伐や巡回にもたっぷりと人を回せる。

 しかも費用は自弁なのである。

 この試みがうまく回るよう、バルドは祈った。


 ちなみにシーデルモントはいまだに上軍正将で、領地のない侯爵位を受けているという。

 妻子はパクラに残したままであるが、王都で妃を迎えたという噂もあるらしい。


 3


 ミスラの街の直前で、エネス・カロンたちは北に向きを変えた。

 直接コルポス砦に荷を運ぶのだという。

 荷のほとんどは食料で、本当はミスラで買ったほうが早いのだが、そうすると少し高い。

 直接リンツに注文して自分たちで取りに行けば、かなり安い。

 そこで定期的にまとめ買いをしているのだという。

 今回団長であるエネスがわざわざ同行したのは、パデリアの防備態勢などを調べるためだったらしい。

 別れを惜しんで、エネスたちは去った。


「エネス・カロン殿は、ずいぶんバルド様のことを尊敬しておられるのですね」


 セトの問いに、バルドは、うむ、と曖昧な返事を返した。


「辺境騎士団団長になられるほどのかたですから、お強いのでしょうね」


 辺境競武会の部門優勝者じゃからの、とバルドは答えた。

 実のところ、エネス・カロンがどの程度の強さであるかなど、バルドの記憶にはこれっぽっちも残っていなかったので、ほかに答えようもなかったのである。


 バルドとカーズとセトは、ミスラの門を通った。

 特に調べられるほどの荷物もないし、検閲はごく簡単なものだった。

 ここでバルドが使ったのは、今回リンツ伯から発行してもらった通行手形だ。

 この手形で王都の門もくぐれるという。

 リンツ伯の手形も随分格がついたものである。


 ミスラの街も大きくなった。

 城壁を壊して継ぎ足し、もとの二倍ほどの規模になっているのではなかろうか。

 以前はほそぼそとだったパデリアとの物のやり取りも激増しているし、南方からの物資をゴリオラに輸出するための中継点ともなっているというから、この発展ぶりもうなずける。


 門では騒がれず無事入れたが、街の中でバルドに気付く人がいるのではないかと懸念していた。

 その心配は要らなかったようだ。

 なにしろ今のバルドは年老いた庶民の旅行者以外には見えない。

 立派な鎧をまとっていたのであればともかく、このような質素な身なりでは、人目を引くはずもなかったのだ。


 と、道の脇にたって、驚いた顔をしてこちらを見ている者がいる。

 三十歳になるかならないかという年齢の女だ。

 荷物の入ったかごを持ち、横には娘とおぼしき少女を連れている。


「バルド・ローエン様……」


 雑踏の中、女の口がそう動くのが見えた。

 女がこちらに走り寄って来る。

 馬の脇まで来て何かを話し掛けている。

 バルドはユエイタンから降りた。


「あのっ。

 あの。

 あ、ありがとうございました」


 何について礼を言われているのだろうか。

 分からなかったが、うむ、とバルドはうなずいた。


「よかった。

 やっとお礼が言えた。

 ずっと、ずっと。

 お礼が言いたかったんです。

 あの、これ」


 と荷物からポープの葉に包んだ何かを差し出した。

 バルドはそれを受け取った。


「うちの自慢のパンなんです。

 わ、わたしが工夫したんです。

 食べてください。

 日持ちがしないんで、今日のうちに食べてください。

 それではっ」


 そう言って、女は少女の手を引いて足早に去って行った。

 女は振り返りながら手を振ってくる。

 手を振り返しながらバルドは、はて、あの女の顔立ちには覚えがあるような気がする、どこで見た顔じゃったか、と思った。


 ポープの葉を開いてみると、パンの挟み物が入っていた。

 しかし、このパンは。


 庶民が食べるパンは、王宮や上級貴族の家で食べられるようなパンとは、材料も作り方も違う。

 庶民のパンは日持ちがするが、固くて味けのないパンだ。

 しかしこのパンは違う。

 白くてふんわりしている。

 しかもなぜか四角くて平べったい。

 たぶんこれは大きなパンを焼いて、それを薄く切ったものなのだ。

 四つに切ってあるその一つを、バルドはぱくりとかじった。


 とたんに口の中に、うまみがあふれた。

 このうまみは、新鮮な野菜と、燻製の肉と、それから。

 なんだろう。

 二種類のソースが使われている。

 一つは甘辛くて舌の中ほどに強い刺激を与えてくれる。

 このソースは燻製肉にぴったりだ。

 燻製肉は細く裂いて食べやすいようになっている。

 もう一種類のソースは甘酸っぱくて舌全体を包み込むようだ。

 このソースは野菜に合う。

 いや、それだけではない。

 牛のブイユ・ウーだ!

 牛のブイユ・ウーを薄くパンに塗ってある。

 あんな高い物を庶民も使えるようになったのだ。

 そういえば、このパン。

 焼くときに牛のブイユ・ウーを混ぜているかもしれない。

 そうでないと、この柔らかさと甘さの説明がつかない。


 残った三切れのうち、一つずつをカーズとセトに食べさせた。

 最後の一個は、もう一度バルドが食べた。

 パンの挟み物はするりと腹に収まった。


 バルドは二人を振り返って、帰るぞ、と言った。

 そして、ユエイタンの馬首をめぐらせ、今入って来たばかりの門に向かって進み始めた。


「えっ?

 えっ?

 パルザムの王都に行くのではなかったんですか?

 帰るって、これからフューザリオンに帰るんですか?」


 セトは混乱しているようだ。

 カーズは相変わらず無表情にバルドについてくる。


 そうだ。

 帰るのだ。

 もう見るべきものは見た。

 パルザムは発展繁栄し、人の心は明るい。

 それでじゅうぶんではないか。

 自分はすでにするべきことをした。

 ジュールラントもそうである。

 そのあとのことは、その次の人々が担うのだ。

 老いたる騎士は、ただ遠くで見守ればよい。


 シェルネリア妃が、ジュールラントの死や、その後のことについて、バルドに知らせをよこさなかったわけが、分かったような気がした。


 バルドはバルドのできること、やらねばならないことをやればよい。

 バルドにはまだ大仕事が残っているではないか。

 パタラポザが目覚めたら、やつと対面し、やつが何を望み、何をしようとしているかを問い質すことだ。

 もちろん、聞いたからといって何ができるわけでもない。

 やつの力の前には剣も弓も通じないし、古代剣も無力だろう。

 だが訊かねばならない。

 やつが握っている秘密を。この世界の真実を。

 誰かがやつに訊かねばならない。

 その誰かが今はバルドなのだ。

 その時はたぶん近い。


 不思議なことだが、見知らぬ女からもらったパンの挟み物を食べたとき、バルドの腹の中にわだかまっていたものが、すうっと消えた。

 パンのうまさが、わだかまりを消してくれた。

 そのわだかまりとは、パタラポザとどう対面すればよいか、という迷いである。

 もとより戦いようもない相手ではあるのだが、その対面から何をつかみ取り、何を残せるかと、バルドはずっと自分自身に問いかけてきたのだ。


 よいのだ。

 何も残せなくてよい。

 バルドが気負うことなどないのだ。

 人の営みは続いてゆく。

 人々それぞれの汗と知恵によって続いていく。

 それを信じればよい。


 ただ会えばよい。

 そこから聞くべきものを聞き、感じるべきことを感じればよい。

 それをもって何かをしようとか、何かを伝え残そうかなどと前もって考える必要はないのだ。

 白紙の心で会えばよい。

 そして起こることを受け止め、心のままにふるまえばよい。


 わしは一滴の水となるのだ。

 一滴の水が岩に落ちて砕け散ったとて、岩にはわずかな傷も付かん。

 けれども無数の水滴が砕け散っていくなかで、いつか岩にも穴が開く。

 わしは一滴の水であればよい。


 パルザムの繁栄ぶりを見よ。

 国のはずれにあるこんなミスラのような辺鄙な街でさえも、これほど豊かになっている。

 このパンのうまさは何としたことか。

 人は多く、その表情は生き生きとしている。

 貧しい身なりをして旅人に食べ物をねだる子どもたちもいない。

 ジュールだ。

 これはジュールランがもたらしたものなのだ。

 ジュールは、志半ばにして倒れたのではない。

 その命を燃やしきり、改革を進め、国を豊かにして死んでいったのだ。

 もしもジュールが命の使い惜しみをしていたなら、これほどの発展はない。


 そうだ。

 命を惜しむことなど要らない。

 どうやってパタラポザから得た知識を残せばよいのか、などと悩むことは必要ないのだ。

 これほど考えて思いつかないのだから、そんな方法などないのだ。

 だからそんなことは考えもせずに、きゃつと対面すればよい。

 それではいけないと思うのは、自分の命が惜しいからだ。

 せっかくこの命を失うのだから、その見返りが欲しいという気持ちがある。

 せめて誰かを同席させ、得た知識を残したいと考えるのは、実は自分の命を惜しんでいるのだ。

 考えてもむだなのだから、考える必要はない。

 捨ててしまえばよいのだ、命も自分も、自分が生きてきた中身も。

 捨てきれないから、迷い悩む。

 迷いも悩みもまったく無用だ。

 ただ定めのまま、その時その時を精一杯過ごせばよい。

 精一杯にパタラポザと向き合い、引き出せるだけのものを引き出す。

 それはそのまま失われてしまう知識となるかもしれないが、それでよいではないか。

 道はあとから生まれるのだ。

 どのみち、自分が倒れたあとのことなど、神々のお計らいに任せるしかない。

 放り捨てればよい。何もかもを。

 それはおのれを軽んずることではない。

 最後の一瞬まで命を燃やして生ききるための最後の手段なのだ。


 今ようやく、バルドはパタラポザと対面する準備が調った。


 4


 バルドにパンを渡した女の名は、エトナ、という。

 十五年前、主家を辞して旅に出たバルドは、ある日ガンツにコルルロースを二羽売って、そこの客となった。

 あるじの姪にあたる少女がバルドの湯の世話をしてくれた。

 翌日その少女がミスラの学校に入るため旅立とうとすると、街を牛耳るならず者たちがじゃまをしようとした。

 バルドはならず者たちを抑え込み、少女は無事出発できたのである。

 しかし少女は騒ぎに取り紛れ、バルドに礼を言うことを忘れた。

 バルドの名前さえ訊くことを忘れていたのだ。


 だが、今日彼女が礼を述べたわけは、それだけではない。

 ミスラで学校に入った少女は、パン屋で働き始めた。

 学校を卒業してからも働いた。

 そんな彼女に恋人ができた。

 恋人は金を稼ぐため、騎士の従者となってコルポス砦に行った。

 そのコルポス砦に異変があった。

 少女は恋人の身を案じた。

 魔獣の群れが出現し騎士も従者も皆殺しになった、という噂も流れた。

 少女は必死で神々に祈った。

 恋人は無事に帰った。

 無事に帰ったばかりではなく、多額の給料と報奨金を物にした。

 バルド・ローエン大将軍という人が救援に来て助けてくれ、しかも手柄を立てさせてくれたのだという。


 それからしばらくたったある日、街が騒がしい。

 なんとバルド・ローエン将軍が街を訪問なさったのだ。

 その顔を一目見ようと彼女は領主邸に駆けつけた。

 あの人だった。

 バルド将軍とは、あの人だったのだ。

 あの騎士様だ。

 辺境から旅立つとき助けの手を差し伸べてくれた、あの神様のような老騎士様だった。

 エトナはバルド将軍にお礼を言いたかった。

 だが人が多すぎ、騒ぎが大きすぎて、老騎士様に近づくこともお礼の言葉を届けることもできない。

 彼女は泣きながら手を振った。


 やがて彼女は恋人と結婚した。

 彼女の伯父も辺境から出て来た。

 三人は店を開いた。

 パンを焼いて売り、料理も食べさせる小さな店だ。

 子どもも三人できて、二人は無事育っている。

 彼女は毎日老騎士様のことを神様に祈っていた。

 こんな幸せをくれてありがとう、と。

 どうかいつか、お礼を言わせてください、と。

 今日、彼女の願いはかなった。

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