第6話 王妃の奮闘
1
〈バルド・ローエン〉
〈バルド・ローエン〉
石の階段を上っている。
若き日のバルド・ローエンである。
階段を上りきったところに、石畳のゆるやかな斜面がある。
斜面の端に、鍵の掛かっていない花模様の飾り戸がある。
押し開いて中に入り花と草で囲まれた道を左に曲がる。
そこには陽だまりの庭があった。
「まあ、バルド様。
正装をしてどうなさったのですか」
それには答えずまっすぐ進む。
アイドラの膝にはジュールランが乗っている。
きょとんとしたつぶらな瞳がバルドを捉えると、その顔は笑顔になった。
様子を察した侍女が後ろに下がる。
バルドはアイドラのそば近くに進み、帯剣を鞘ごと外すと右膝を突いた。
そして両手で剣を捧げ持つと、誓約の言葉を口にした。
「わが守護神パタラポザの名のもとに誓約いたします。
わが剣をアイドラ・テルシア様とジュールラン・テルシア様に捧げ、生涯その安寧を守り抜くことを。
いずこの地にあっても常にアイドラ様とジュールラン様のことを想い、危難にあっては直ちに駆けつけることを。
アイドラ様とジュールラン様の願われるところをおのが願いとして、その実現に全身全霊を傾けることを。
どうかこの誓約の剣をお取りください」
バルドが頭を下げて待っていると、アイドラは椅子から降りてバルドに近寄り、その剣の柄に優しく手を触れた。
ジュールランにも同じようにさせた。
そして、
「バルド様。
その剣を持ち上げることはできないので、これでお許しくださいませね。
あなたの剣は確かに受け取りました。
このわたくしと、ジュールが。
バルド様。
このことだけは申し上げておきます。
ジュールランは、あなたの忠誠を受けるに値する者です」
バルドは顔を上げてアイドラを見た。
濁りなき瞳がバルドを見つめ返した。
コエンデラ家に輿入れするためこの城を出てから初めて、二人の心と心がまっすぐにつながったのを、バルドは感じた。
〈バルド・ローエン〉
〈バルド・ローエン〉
2
夢と熱と汗の不快感で、バルドはわずかに目を覚ました。
窓際の椅子にカーズが腰掛けて、目を閉じている。
風にそよそよと髪が揺れている。
相変わらずその顔は若々しく、神話の英雄のように美しい。
と、カーズが薄く目を開いてバルドのほうを見た。
そしてテーブルの水吸いをとってバルドに歩み寄ると、その吸い口をバルドの口に当てた。
ちょろちょろと流れてくる水が、乾ききった口を、喉を潤していく。
水は体にしみこんで、こわばった指や足をほぐしていく。
わずかな安息を得て、バルドはまた寝た。
〈バルド・ローエン〉
〈バルド・ローエン〉
「いやいや。
本当に危ないところだったのですぞ。
心の臓が完全に止まっておりました。
胸を強くたたいて再び心の臓を動かすという救急法が功を奏しましてな。
そこからあとは地力の勝負でした。
それにしても、こういう場合には、手や足にしびれが残ったり、うまくしゃべれなかったりすることがあるのですが、まったく問題ないようで安心いたしました。
ですがあと一日だけ、安静にしておいてください」
といいながら診察を終えた薬師の言葉を、バルドはうつろな目で聞いていた。
話し掛けられる言葉は聞こえるし理解できるのだが、それでどうということもなかった。
それはどこか遠い場所で他人が他人に話しているように聞こえた。
バルドは寝た。
〈バルド・ローエン〉
〈バルド・ローエン〉
カーズが時々水や果物を持って来てくれる。
あるいは一切れのパンや、一かけのチーズを。
差し出されるそれを、バルドは機械的に口に入れて咀嚼した。
飢えをわずかに満たすと、バルドは寝た。
〈バルド・ローエン〉
〈バルド・ローエン〉
3
寝ていると、不快な呼び声ばかりが頭に響く。
本当の呼び声なのか、心のおびえが聞かせる幻聴なのか、もはやバルドには区別がつかなかったが、それがひどく耳障りであり、途切れることのない頭痛をもたらしていることは明らかだった。
バルドはベッドから起き上がり、着流しをまとった。
剣も腕輪も着けず、そのままリンツ伯の屋敷を出た。
街の喧騒もどこか遠い。
水路は広げられ、土手は石造りになっていた。
立ち並ぶのはもはや屋台ではなく店構えを持つ店舗だ。
水路を通う船も大きくなり、その数も多い。
そのにぎわいが、今のバルドにはうっとおしかった。
腰を下ろして川面を眺めるともなく眺めた。
大オーヴァは風に吹かれて澄み切っている。
だがバルドの頭には深いもやが立ちこめていた。
何も考えられない。
だが考える必要もないではないか。
もはやすべては終わったのだから。
このまま石になってしまえばよい。
苦しみも悲しみも感じない石像に。
そんなふうに考えている自分に気付いて、少し驚いた。
それほどまでにわしは、ジュールを愛していたのか。
それほどまでにわしは、ジュールに寄りかかっていたのか。
自分で考えて、
だが、そうなのだ。
それは当然なのだ。
そういう者であろうと、自分自身に言い聞かせてきたのだから。
アイドラと結ばれることはないと知った、あの日。
苦しみ抜いて、ならばアイドラにおのれを捧げると決心したあの日。
アイドラの願いに沿うとはジュールランを愛し信じることであると結論したあの日。
ジュールランをおのれの全てであると思い定め、仕え抜くと決めたあの日。
そうだあの日以来、ジュールの生きる輝きこそが、わしの命だったのだ。
そのわしの命は、失われてしまった。
もう気力も喜びも、湧いてくることはない。
日が落ちて二つの月が頭上に舞う時刻まで、バルドは川岸にぼんやり座っていた。
その日から、オーヴァの川辺に通うのが、バルドの日課になった。
朝の食事が済めば、着流しに帯を結んで外にでる。
カーズがガウンを掛けてくれた日には、ガウンをまとったまま歩いて行く。
ある日のこと、いつものようにオーヴァに向かって歩いていると、道端に座っている子どもに、ふと目がいった。
子どもは薄汚い格好でトガの実をかじりながら、バルドを見ている。
オーヴァのほとりに腰を下ろしてからも、その目が気になった。
あれは。
あれは案じる目だ。
心配する目だ。
あの子の目に、わしはどう映ったのだろう。
しょぼくれて。
背を丸めて。
気力も希望もないうつろな目をして。
足をひきずるようにして歩く、哀れな老人か。
あのみすぼらしい子どもにわしは同情され、憐れまれたのだ。
バルドよ。
バルド・ローエンよ。
それでよいのか。
アイドラの騎士バルドがそんなことで、本当によいのか。
いいや。
よくない。
胸を張れ、背を伸ばせ、バルド・ローエン!
お前はまだ生きておるのだぞ。
戦え、バルド・ローエン!
バルドは右手で握りこぶしを作った。
しわの多い手ではあるが、まだまだたくましい。
敵を打ち砕く強いこぶしだ。
大きく息を吸い込んだ。
オーヴァの風が胸に入り込み、体中に力が満ちた。
バルドは立ち上がって、後ろを見た。
そこにはカーズが立っていた。
ずっとそばにいてくれたのだ。
わしは独りではない。
バルドは泣いた。
顔中をくしゃくしゃにして泣いた。
温かな涙とともに、心にため込んでいた悲しみやいらだちが、みんな流れ出ていくのを感じた。
その夜カーズが差し出してくれた夕食は、いつもより少し量が多く、一杯の酒も付けられていた。
悪夢を見ることもなくぐっすりとバルドは寝た。
4
倒れてから十二日目の昼下がり。
リンツ伯邸迎賓館の食堂のベランダに椅子とテーブルが並んでいる。
バルドとサイモンは、ともに大オーヴァを見下ろし、並ぶように座っている。
その脇にはカーズとセトも座っている。
「いやあ。
本当にすまんことをした。
あやうくバルド殿を殺すところであった。
それで、ジュールラント前王陛下のことじゃがな」
バルドは、ジュールラントの死のいきさつとその後の成り行きをぜひ聞きたいと、サイモンに乞うた。
今となっては聞かずにいるほうが体に悪い。
いや、ぜひ聞くべきだ。
ジュールラントがどのように死んだのか。
ジュールラントの生きた証しは、どう引き継がれたのかを。
サイモンは、このような辺境にいながら非常によく情報を集め、整理しているようだった。
ジュールラントの発病から死に至る経緯は、さほど語り所もなかった。
昨年の年明けから体調が優れず、やがて寝込むことが多くなった。
それを見て重臣たちは、やはりいくらなんでも激務が過ぎたのだと言い合った。
しかしそれでも政務を執り続け、ついに四月二十三日、帰らぬ人となった。
ジュールラントが王都に召し出されたのが、四千二百七十年、つまり十五年前の春だった。
親子の対面を果たし正しく王の長子であると認められてからのジュールラントは多忙だった。
王太子候補としての教育が過密な日程で組まれ、次々と会談する貴族たちと渡り合い、さらには実績作りのため、有力都市を回って条約改定をして回った。
それもただの改定ではない。
過去数代の王が取り組んできた制度改革に沿って、海千山千の大貴族たちと交渉を続けなければならなかったのだ。
立太子式を迎えたかと思えば、中原には戦乱のきざしが現れ、ジュールラントは慣れぬ戦いをする軍を率いて戦わねばならなかった。
やっとのことで勝利を得て凱旋したかと思えば王の急死である。
このとき次期王をめぐっては熾烈な王族間の争いがあったらしい。
王位継承権を与えられていた王族が十数人いて、いっせいに自分こそが次の王にふさわしいと言い立て始めたのだ。
この場合、戦乱のさなかであることがジュールラントに味方した。
つまり早急に次期王を決めなければならない。
相手の欺瞞を見破ってファーゴ、エジテおよびグリスモとの戦に勝ったジュールラントを王位に就けることが、最も抵抗が少なかった。
ウェンデルラント王が急死であったため、他の王族の準備活動が間に合わなかったことも幸いした。
さらに他の王族はウェンデルラント王に批判的であり、一部の例外を除いて治世にまったく協力していなかったことも、ジュールラントに有利に作用した。
とはいえ、それは王族ほとんどの多大な不満を内包しての、薄氷の戴冠だったのである。
しかもジュールラントには使命があった。
過去数代の王が挑みウェンデルラントが進めた制度改革を、さらに推し進めるという使命が。
制度改革とは、簡単にいえば、複雑化した軍制と税制を中心に国の制度や命令統治の系統を整備し、さらなる発展の下地を作るというものであり、直接的には王権の強化ともいえるものである。
軍制でいえば、軍を一つの目的に差し向けても、その内容が混成部隊とならざるを得ず、さまざまな大臣や貴族の利権がらみの指示要望を酌み取って動かねばならない状態であり、指揮権自体もあいまいなものとなりやすいという問題があった。
税制でいえば、重要都市の徴税権が複雑化し、店一つ出してもさまざまな部署や貴族から個々ばらばらに徴税を受けるという状態であった。
こうしたもののうち、直接大貴族たちの権益に触れる部分は後回しにしつつ、現場に直接王の意志が反映できるような制度改革を進めていたのであり、ジュールラントはこの志を継ごうとしていたのである。
実績少なく信頼できる家臣も少ない新王が、戦争を継続しつつこの問題にも取り組まねばならなかったのである。
その苦労たるや想像を絶するものがある。
そういわれてみて、バルドにも思い出される光景がある。
ファーゴ、エジテ、グリスモの反乱を鎮圧して凱旋したジュールラントは、夕刻王宮に着き、おそらくさまざまな事項の処理命令にあたったあと、翌日早朝にはバルドと会談した。
その場でカーズとジュルチャガを返してくれたのだが、ジュールラントはそのまま重臣会議や枢密顧問会議を重ねたことだろう。
また、すでに危篤状態にあった前王ウェンデルラントの見舞いも行い、その遺言をも受け止めていたに違いない。
ウェンデルラント王が死するや、息つく暇もなく王位をめぐる争いがあり、そのかたわらでグリスモ伯爵の尋問から得られた情報に基づいて戦略を練り、ゴリオラ、ガイネリアの両国代表との折衝も重ねた。
こんな状態でしかも当てになる股肱の臣などいないのだから、テルシア家筆頭騎士たるシーデルモントを召し出すという、ほとんど禁じ手のような挙に出たのも無理はないのかもしれない。
果てしない重圧を負いつつ、ジュールラントは、十年分の寿命を一年で使うような過酷で多忙な日々を過ごしたのだ。
また、第二次諸国戦争のおりに第一側妃から受けた毒の短剣も、ジュールラントの寿命を縮めたかもしれない。
在位十二年、享年四十二歳。
ああ!
ああ!
ジュールよ!!
5
「まあ、そういうわけでな。
王の崩御やその死因に不審な点はないようなのじゃ。
それに王というのはとんでもない激務じゃからなあ。
ちゃんと仕事をした王は、歴代短命らしい。
問題はそのあとじゃな。
ジュールラント王の治世のあいだは、王位継承権保持者は、二人を増やしたほか変動はなかった。
じゃから依然十数人の王位継承権保持者がいたわけじゃな。
増やしたうちの一人は王子バルドラント様じゃ。
もう一人は珍しいことに王族ではなかった」
それは誰ですかな、とバルドは訊いた。
「王直轄軍中軍正将シャンティリオン・アーゴライド侯爵じゃよ。
シャンティリオン将軍がサンギエル伯爵とサーク伯爵を継承し、侯爵に叙せられたことはご存じじゃったかな。
本当はこれほどの身分の貴族を王直轄軍の将軍に据え置くというのは少し無理があったのじゃがな。
ジュールラント王はぜひにと慰留し、シャンティリオン将軍もそれを受け続けた。
シャンティリオン将軍は少数精鋭の電撃戦が得意で、しかも抜群の家柄じゃ。
契約条件を有利に改定するための反乱なども、あっという間に平定したし、下手な貴族はシャンティリオン将軍の威光の前に反乱自体を思いとどまった。
また、パルザム王国の貿易権や領土が南に伸長しておるため、都市国家や亜人と小競り合いも多い。
シャンティリオン将軍は敵味方双方の被害を最小限に抑えつつ、こうした小競り合いを収めていった。
諸侯軍と王軍が一緒に軍事行動を取るときも、シャンティリオン侯爵より身分が上の者が実戦に出て来ることなどないから、必ず王軍が主導権を取れた。
戦えば必ず勝ち、しかも無用の被害は出さない。
その名は王国の隅々にまで鳴り響いていったのじゃ」
なるほど、とバルドは思った。
シャンティリオンは、自分にできることを見つけ、それをひたむきに果たしていったのだ。
「しかし、王位継承権を得たからといって、それはあくまで名誉の問題であり、実際には王族以外から王が出ることなどあり得ん。
それは王朝が交代するということなのじゃからな。
だからシャンティリオン将軍もアーゴライド家も静観を保った。
シャンティリオン将軍への王位継承権付与は第一次諸国戦争の直後じゃったから、褒賞の意味が強かったのじゃろうな。
領地の代わりに名誉を、というわけじゃ。
いっぽう、バルドラント王子のほうは本当にぎりぎりの滑り込みじゃった。
病の床に就いてから、前王陛下は枢密顧問会議を召集なさり、バルドラント王子に王位継承権を与える決議を勝ち取ったのじゃ。
じゃが若年ということで、王太子指名には至らなんだ」
というよりも、枢密顧問たちは、次代の趨勢を見極めたのだろうな、とバルドは思った。
つまりジュールラント王の血筋を見限ったのだ。
賛成に票を投じた者もいたろうが。
「さて、ここで奇妙だったのが、正妃シェルネリア様の動きじゃ。
周りは、正妃が慌てて息子を王位に就けるべく奔走し始めるとみておった。
ところが正妃は粛々とジュールラント前王の葬儀のことを進めるだけで、次期王位に関する争いにはまったく無関心を貫いた。
王妃の地位というものは、次の王が位に就くまで継続する。
しかも第一側妃が欠けたままじゃから、正妃の権威は非常に高い。
シェルネリア王妃がうまく立ち回れば、バルドラント王子を王位に就けることも夢ではないのじゃ。
王位を得るためには、枢密顧問会議と重臣会議の両方で多数の票を獲得する必要がある。
重臣会議の票を得るためには、その背後の大貴族たちの支持を得る必要がある。
王位継承権保持者たちは、財をはたいて買収工作に走り、あるいは王位就任後の権益を約束して支持者を獲得していった。
じゃが正妃は恐ろしいほどに静かであったという」
それは妙だな、とバルドは思った。
ジュールラントと志を同じくする者こそシェルネリアであるはずだ。
その志を伝え実現できるものは、やはり息子のバルドラントではないのか。
それともシェルネリアの目からみて、バルドラント王子はその器ではなかったのか。
「ジュールラント前王の密葬の日が来た。
主催者はもちろん正妃シェルネリア様じゃな。
シェルネリア妃は、弔問に訪れたアーゴライド公爵を別室にいざなった。
これを見た者たちは思った。
正妃はバウクルス侯爵を、あるいはシャンティリオン将軍を宰相に欲している、と」
なるほど、とバルドは思った。
初代王の血を引く七つの公爵家のうち、アーゴライド家は最大の権勢を持つ。
枢密顧問会議にも重臣会議にも最大の影響力を持つといってよい。
バウクルス侯爵はそのアーゴライド公爵の長男で跡継ぎ。
シャンティリオンは、分家から本家に引き取られた俊英で、今はアーゴライド家の顔といってよい。
この二人のどちらかに宰相という権力を与える代わりに、バルドラントの王位獲得に協力せよと交渉するわけだ。
しかし宰相という地位はそこでうまみのある職なのか。
そこがよく分からない。
「人々は冷笑した。
宰相の地位は魅力的だが、そのためにバルドラント王子の王位獲得を援助するというような火中の栗を拾うにひとしい選択を、老練なアーゴライド公爵がするわけがないからじゃ。
やがて密葬が終わり、主宰者のあいさつとなった。
シェルネリア妃が進み出てあいさつを行ったのだが、肝心の本葬の日取りを発表する前に、後ろに下がってしもうた。
次に起こったことを見て、人々は驚愕した。
シャンティリオン将軍が進み出て、本葬の日取りを発表したのじゃ」
それがなぜ驚きをもって迎えられるのか、バルドの知識では分からなかった。
「分からんかの、バルド殿。
日取りを発表する者は、すなわち本葬を主催する者じゃ。
王妃以外が王の本葬を主催するとすれば、それは次期王になるというにひとしい意味をもつのじゃよ」
王の葬儀を行う者は、すなわち次の王。
なるほど。
そういえばそういう話を昔聞いたことがある気もする。
「あとになって分かったのじゃが、この日シェルネリア妃がアーゴライド公爵に提案したのは、シャンティリオン将軍を代王の位につける、というものじゃった。
そしてバルドラント王子の王位継承権を保持したままにして、いずれバルドラント王子が成人し実績を積んだら王位を譲ってほしいというものだったのじゃ。
枢密顧問にも重臣にも、ジュールラント王を敬愛し、その遺志を継がんとする者たちがおる。
いずれバルドラント王子に王位を委譲するという約束なら、その者たちもシャンティリオン将軍の代王就任に票を投じましょう、というのじゃな。
それとこれもあとで分かったのじゃが、シャンティリオン将軍が代王として戴冠されるその式典および祝賀会の費用は私が持ちましょう、とシェルネリア妃は持ちかけたのじゃ」
ふむ、とバルドは考え込んだ。
なるほど。
シャンティリオンは王位継承権を持っているのだから、代王にもなれるのだろう。
王権をまったく譲り渡すということでなく、代王に就くということであれば、王族以外の者であっても抵抗は少ないのかもしれない。
しかし、バルドラント王子が成長した暁には王を譲る約束じゃと。
その約束は果たしてどれだけ信用できるのか。
シャンティリオンは約束を守ろうとするかもしれないが、アーゴライド家がそれを許すかどうか。
いったん代王の地位を得たアーゴライド家が、それを手放したりするだろうか。
それにしても、枢密顧問にも重臣にも、それなりの数のジュールラントの同調者ができていたようだ。
おそらく時間をかけて信頼を築き、あるいは育て上げ、ジュールラントは自分の味方を増やしていったのだろう。
「まあ、その時点では、正妃がアーゴライド家に王権を譲り渡したようにみえたのじゃな。
王族たちは怒り狂った。
継承権を持つ王族はなおさらじゃ。
おそらく相当の数の刺客が後宮に送り込まれた。
ドリアテッサ殿が育て上げた女武官たちが活躍したと聞いておる」
それとシェルネリア妃の侍女軍団じゃな、とバルドは思った。
彼女らはお茶の淹れ方に堪能なだけではない。
非常に優れた敵探知能力と防衛技術を持っているのだ。
とは、かつてドリアテッサから聞いた話である。
「アーゴライド家の影響下にある枢密顧問と重臣。
それにジュールラント派というべき枢密顧問と重臣。
この二つを合わせただけで代王の位はまず勝ち取れる。
じゃが、アーゴライド公爵は念には念を入れた。
王位継承の争いに財産をつぎ込んでいる王族の懐柔に回ったのじゃな。
なにしろパルザムの王族というのは、味方にしても益はないが敵に回せば厄介この上ない。
ため込んだ財貨を吐き出して王族にばらまき、領地の一部を献上することさえして機嫌を取った。
また、他の六公爵家にも莫大な利益提供を申し出た。
こうして新王の選定会議では大過なくシャンティリオン将軍の代王即位が決定され、前王の葬儀はシャンティリオン将軍がその主催者となった」
シャンティリオンが。
あのシャンティリオンが代理とはいえパルザム王に就いたのか。
バルドは感慨にひたった。
「さて、いよいよ代王の即位式じゃ。
もちろんこれは国費で行われるものじゃが、国庫に余裕があるものでもなく、こうしたときは特別寄付を募る。
今回の場合最初から正妃が出資してくれると分かっておるわけじゃな。
いったい正妃に代王即位式を賄えるほどの財貨があるのかは分からなかったが、嫁入りのとき相当の持参金を持ってきていることは推測されていた」
ああみえてシェルネリアは商売に目端が利く。
持参金とは実際には彼女自身が稼いだ金であるかもしれない。
「老アーゴライド公爵はこの世の春を謳歌しておったじゃろうな。
代理の王といっても権限は王と同じ。
いったんその座に就いてしまえば、あらゆる権限を行使できるのじゃ。
むろん、適性でない人物の王位継承権を剥奪することもな。
しかも過去数代の王の血のにじむ努力により、パルザムの王の権威と武力はかつてなく高まっておる。
いったん握った王権を手放す気などさらさらなかったはずじゃ」
ふむ。
それは当然のことじゃ。
ふふ。
古狸公爵とシェルネリア姫か。
陰謀合戦はどちらに軍配が上がったものやら。
「さて、いよいよ代王即位式の段取りを協議する段階に入った。
ところがここでシェルネリア妃が妙なことを言い出した。
手はずはお任せくださいね、と。
いったいどれだけの金を持っているのかは分からないが、即位式の手はずなど簡単にできるものではない。
いや、金がいくらあっても、それだけではどうにもならん。
非常に繁雑で複雑な調整や準備が必要なのじゃ。
じゃがここで前王の側近や協力者たちが表に出てきた。
マードス・アルケイオス鎮西侯やバリ・トード上級司祭を始めとする枢密顧問たち。
重臣たちの中でジュールラント王に共鳴し、あるいは王に見いだされ育成されてきた者たち。
リシオネル子爵始め実力派の側近たち。
バドオール子爵を始め、もとからジュールラント王擁護派であった人々。
カッセ執政官ティグエルト・ボーエン侯爵ら、ジュールラント王に取り立てられた諸侯。
キジェク・レイガー始め、近衛に引き込んだ貴族の次男三男の有望株たち。
シーデルモント・エクスペングラー将軍を始めとする軍部の実力者たち。
そうした人々が、まるで申し合わせたかのように寄り集い、力を合わせて即位式の準備を取り仕切り始めたのじゃな。
アーゴライド公爵は慌てたが、やはりこういうことは、建前はともかく実際には金を出す者が強い。
王族や上級貴族への手当ですっかり財を吐き出していた公爵は、じっと正妃の手際を見守るよりなかった」
そうだ。
ジュールラントの姿を見て、協力者が現れないわけはないのだ。
ジュールラントが、有能な者たちを引き立てて側近としないわけがないのだ。
彼らがジュールの志を引き継いでいく。
「ふたを開けてみれば、即位式の規模は、誰もがまったく想像もできないほどのものになっておった。
ゴリオラ皇国からは皇太子が、テューラ、セイオンからはなんと王ご自身が、ガイネリアからも王太子が参列。
そのほか二十数か国から国王もしくは太子が出席という、すさまじい顔ぶれじゃった。
しかし一番の驚きはそこではない。
なんとメルカノ神殿からは四人の大教主のうちの一人がやってきて儀式をつかさどることになった。
いったいどれだけの金を積めば大教主などを呼べるのじゃろうなあ。
シェルネリア妃の持参金はとてつもない額で、しかもそれをすっかりはたいてこの段取りをつけたのじゃな。
アーゴライド公爵は真っ青じゃったろう。
各国国王、皇太子、王太子の居並ぶ中で、しかもメルカノ神殿大教主が執行する儀式で、代王として統治にあたり、前王の長子の成人を待って王位を譲渡すると、シャンティリオン代王は誓わされたのじゃ。
この誓いを破れば、パルザムは中原の笑いものになる。
というより、バルドラント王子以外を次の王に指名しようものなら、顔をつぶされたメルカノ神殿はその即位式に神官を派遣しないじゃろう。
つまり即位式ができないのじゃ。
このときになってやっと公爵は、いっぱい食わされたことに気付いたわけじゃな。
しかもこのことは、シェルネリア妃一人がやったことじゃ。
シャンティリオン将軍を代王の位に就けることも、バルドラント王子を将来王位に就ける約定も、シェルネリア妃一人が取り運んだことであり、ジュールラント王の側近や同調者たちは、動きをしていない。
つまり、まったくどこにも借りを作っていない。
したがって、やがて来るべきバルドラント王の治世で、彼らは遠慮することなく手腕をふるえるわけじゃな。
どうじゃな。
見事なものではないか」
見事だ。
実に見事だ。
それでこそシェルネリアだ、とバルドは思った。
だが次の瞬間、背筋を寒いものが走った。
つまり、ということは。
「この誓いをほごにするには有効な方法がある。
バルドラント王子を殺してしまうことじゃ。
それもできれば功績もなくその才も定かでない年齢のうちに。
今まさにシェルネリア妃とジュールラント王の側近たちは、バルドラント王子の命を守る戦いを続けておることじゃろうよ」
油断はできない。
しかし少なくともシャンティリオン自身は、バルドラントの暗殺などという方法は採らないだろう。
ああ!
続いている。
ジュールランの夢は、命は、続いているのだ。
今はただ、シェルネリア妃の奮闘に喝采を贈りたい気持ちだった。
「しかし、バルド殿にまったく連絡が行かなかったというのが、ちとふに落ちんのう。
先王陛下のご崩御を連絡なさらなかったのは、これは分からんでもない。
伝えるにしのびないというところじゃろう。
しかしシャンティリオン代王陛下の即位式には、バルド殿を呼んだほうが好都合であったろうになあ。
なんといってもバルド殿は実績のある将軍じゃ。
あの国では一度将軍位に就けば、終生将軍と呼んで敬われるからのう。
ましてワジド・エントランテとしての名声は隠れもない。
バルド殿が後ろ盾としてにらみを利かしてくれれば、バルドラント殿下にはこの上なく心強いことであったろうに」
たぶんシェルネリア妃は、わしを利用したくなかったのじゃろうなあ、とバルドは思った。
事はパルザム王国内部の問題であり、そうでなくてもパルザムのためにいろいろと迷惑を掛けてきたバルドに、これ以上負担を掛けることをきらったのだろう。
その考えは分からなくもない。
バルドラント王子は、どうしているだろうか。
やはり行ってみるべきか。
それとも行かざるべきか。
バルドは思案に暮れた。
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