第7話 ジャン王の物語
1
結婚式が終わり、客たちが帰って、さらにその置き土産の整理が一段落したころ、やって来た人物がいた。
騎士ヘリダン・ガトー。
ヴォドレス侯爵家の騎士だった男だ。
ヴォドレス家から皇王の妃となったマリエスカラ妃の、嫉妬からくる狂気の命を受けて、ドリアテッサを殺そうとした男である。
こんな辺境のはずれの村にドリアテッサがいると知って来たわけではなく、事件後国を出て辺境を放浪していて、たまたまこの地に立ち寄ったのだという。
嘘をつくような男ではないから、その言葉は信用してよい。
騎士ヘリダンはドリアテッサの前にひざまずいてわびた。
ドリアテッサは騎士ヘリダンを許し、これからはフューザリオンの騎士となって尽くせ、と命じた。
騎士ヘリダンはこれを承諾した。
こうしてフューザリオンは強力な戦力を得た。
ヘリダンは一人の若者を連れていた。
辺境で出会い、騎士にしようと見込んで養育しているのだという。
その若者の名を聞いたとき、バルドの背筋を雷電が走り抜けた。
タランカ。
それがその若者の名だった。
その名は、いつぞやの奇妙な夢で出てきた名だ。
クインタという名の壮年の騎士が、御大将と呼び掛けた人物に話していた。
すでにタランカが準備を調えております、と。
あれはやはりこれからずっと先に実際に起こる出来事なのだろうか。
タランカという青年は、十六歳だという。
よく鍛えられ、年よりもずっと落ち着いてみえる。
ヘリダンとタランカの加入により、バルドは非常に楽になった。
近頃クインタとセトの成長も著しい。
この一年半のあいだに、普通の若者の三年分にも四年分にもあたる心身の成長をみせた。
例えていえば、水気も乏しく栄養も足りない荒野に芽吹いた若芽が、雨の訪れとともに一気に成長するようなものだろう。
最近では言葉遣いも変わってきた。
クインタは十歳ぐらいかと思っていたが、たぶんもう少し上だ。
十三歳か十四歳だろう。
セトが十歳ぐらいだ。
クインタはすっかりカーズの弟子のようになり、毎日剣の稽古をつけてもらっている。
そこにタランカが来た。
タランカもカーズに剣を教わるようになった。
カーズにいわせると、タランカには天性の防御勘があり、守勢の剣を目指せば天下一品の剣士になれる。
クインタはバランスの取れた万能型の剣士で、細剣よりむしろ盾と騎士剣の戦いに向いている。
セトも並以上の剣才があるのだが、タランカとクインタに比べれば二段も三段も劣る。
バルドはクインタに、騎士ヘリダンに剣を教わってみてはどうかと勧めたが、クインタはどうしてもカーズがいいと言う。
カーズにつきまとうようにして剣を教わるものだから、カーズも力を入れて指導している。
その様子を見たドリアテッサが、自分にはあんなに優しく教えてくれなかったと怒っていた。
ここまできて、バルドも心を固めた。
ジュルチャガとドリアテッサとも相談の上、クインタに騎士を目指してカーズの従卒となれ、と命じたのだ。
クインタが壮年の騎士となっていたあの夢が、バルドの背中を押したかもしれない。
正確には命じたのは村長でありオルガザード家の家長であるジュルチャガなのだが、誰の意志か皆が知っていた。
クインタは驚喜して拝命した。
バルドはまた、カーズは説明を面倒がるから、騎士の心得の分からない点については騎士ヘリダンに教えを受けるよう諭した。
クインタもその点は分かっていたようで、真剣な顔でうなずいた。
騎士の修業をするとなれば、覚えることは多い。
礼儀作法はもちろん、手紙や帳面の読み書きもできなくてはならない。
経営の基本となる算術や収支のまとめかたも知らなくてはならない。
各種の武器や馬の扱いも学ぶことになる。
行軍のしかたは狩りをしながら教わることになるだろう。
最低限、各国の歴史も知らねばならない。
さらに軍の組み方、従卒らの使い方も覚えていくことになる。
騎士ヘリダンは大国ゴリオラの騎士だったのだから、バルドよりずっと正式の騎士の教程を知っており、知識も豊富のはずだ。
クインタも、タランカも、辺境にはもったいないような騎士となれるだろう。
このバルドの読みは正しかった。
騎士ヘリダンは、タランカを見いだしたとき、泥の中に宝石を見つけたような気分だったのだが、クインタの資質はそれに劣らない。
この二人の才能あふれる青年を指導できる喜びは、非常に大きいものだった。
騎士ヘリダンは、精魂を込めて若者たちを指導し、そして期待以上の成長ぶりに胸を震わせていくのだ。
すでに村はほぼ自給自足の態勢を調えている。
布を自給できるようになるのは相当先のことだろうし、鉄などは永久に自給はできないかもしれない。
だがそうしたものは頻繁に買うものでもない。
使い切れないほどの土産をアーフラバーンたちが置いて行ってくれたのだから、当面何の心配もない。
すでにエガルソシアは特産品として販売を始めている。
薬草としても食品としても優秀なうえ、絞り汁をまけば野獣よけになるという特性が知られつつある。
これほどの優良商品はないといってよく、しかもここ以外では大量に作ることはできないのだ。
輸送が一番の難点なのだが、ジュルチャガは自信満々で、そのうちボーバードやヤドバルギ大領主領がここまで馬車を出して買い付けに来るよ、と言っている。
フューザリオンはこれから大きく発展していくだろう。
2
陣容が調ってきて余裕のできたバルドは、近頃しきりに考え事をしている。
魔獣のことだ。
魔獣とはいったい何なのか。
魔獣を作れる石があるという。
それはマヌーノの女王から聞いたことだ。
また、魔獣を操れる石がある。
それはジャミーンの居住地で実際に見たことだ。
バルドは長年魔獣と戦いこれを殺すことを使命としてきた。
その使命を必死に果たしながら、心の奥に疑問を持っていた。
魔獣というが、それは普通の獣が何かの作用でこうなるのだ。
なぜ魔獣になるのか。
なぜ魔獣などというものがこの世にあるのか。
いったん魔獣になれば、絶対にもとの獣には戻れない、と思っていた。
そう教えられてきたからだ。
だが。
あの大攻防の最後に古代剣からあふれ出た光は、魔獣たちをマヌーノの呪縛から解くだけだったろうか。
しかとは分からないが、もしや魔獣をただの獣に戻しはしなかったか。
分からない。
考えたからどうにかなるものかも分からない。
だがなぜか、そのことが気になって仕方がない。
それからまた、この世界ではない別の場所にいてバルドを、というより古代剣を狙っているという存在のこと。
その存在は、バルドがどこに行こうが居場所が分かるのだと、マヌーノの女王は言っていた。
やがてその存在と戦わねばならないのだろうか。
その存在とは何者なのか。
その狙いは何なのか。
3
「近頃ずいぶん考え込んでるようだねえ。
何を悩んでるんだい」
ザリアが訊いてきた。
この
バルドは、長い話になるがと前置きして、自分の経験してきたことと考えていることを話した。
話が終わったあと、ザリアはしばらく黙り込んだ。
そして、おもむろに口を開いた。
「こいつは驚いたねえ。
その剣がただの剣じゃないことは気付いてたし、その腕輪もただの腕輪じゃないことは気付いてた。
だけどそれが偉大な精霊が宿る剣で、ヤナの腕輪だとはねえ」
古代剣やこの腕輪について何か知っているのなら教えてほしい、とバルドは言った。
だがザリアは、その二つについては噂程度に知っているだけで、あらためて教えるようなことはない、と答えた。
ただし、魔獣についてはいろいろ話さねばならないことがあるという。
「どこから話したもんかねえ。
まさかこの話をするようなことになるとは思わなかったよ。
そうそう。
あたしが魔女だと言われて焼き殺されそうになった話はしたね」
その話は以前聞いた。
ザリアの母は旅の途中である村に居つき、薬師として長年村人を助けた。
ザリアもそのあとを継いで薬師として人を助け続けた。
だがあるはやり病の薬が一人分しかなかったことから、家族を失った村人から
長年村に尽くした報酬は、家の柱に縛り付けられ外から火を掛けられるというものであったのだ。
「母親が死んだあと、あたしは一人だった。
でも本当は一人きりじゃなかった。
一人の
母親の若いころから友達だったらしい。
母親が死んだあとは、あたしと一緒にいてくれた。
あたし以外の人間には姿も見えないし声も聞こえないんだけどね。
火に巻かれて死にそうになったとき、その精霊が訊いてきたのさ。
死にたくない?
ってね。
あたしは馬鹿だった。
死にたくない、って答えちまったのさ」
それがどうして馬鹿なことなのだろう。
それにしても、精霊というのはそんな状況から救えるような力を持っているのだろうか。
「その
あたしの中に入ってきたんだ。
あたしに食べられたのさ。
精霊はもともとこの世のものじゃない。
ほんのちょっぴりだけこの世に現れているけれど、体や力の大部分はこの世界にはないんだ。
でも人間の中に入って、その人間の一部になることで、精霊は力を発揮することができるようになる。
その人間に大きな力を与えてくれるんだ。
あたしは縛めを引きちぎり、炎の中を歩いて小屋の外に出た。
髪や服や肌が焼けたけど、見る見るそれを治すことができた。
あ、いや。
服は直せなかったし、髪が元通りになるにはかなりの時間がかかったけどね。
村人は悲鳴を上げて逃げていったよ。
あたしはほんとの魔女になっちまったんだ。
それでも命は助かった。
お礼を言おうと思ったけど、いくら呼んでも精霊は返事をしなかった。
しないはずさ。
あたしに取り込まれて、精霊は消えてしまったんだから。
あたしは命と引き換えに、たった一人の本当の友達をなくしてしまったんだ。
それから二百年近くがたつ。
この前、あたしが炎を操るのを見ただろう?
あれはあたしの若いころの姿さ。
たぶん年取った体では耐えられないから、あたしが一番生命力があったころの姿になるんだろうね」
驚くべき話だ。
本来なら疑ってかかるべき話だ。
だがバルドは、そのひと言ひと言が真実であると感じた。
今まで見聞きしてきたことと符合するのだ。
「さて、ほんとの話はこれからだよ。
あたしの中に入った精霊は、あたしに食われて消えちまった。
けれど精霊が何百年のあいだに蓄えた記憶を、あたしは自分のものにした。
これからあんたに話す話は、精霊の話でもあるけれど、それだけではない。
魔獣の話でもあるけれど、それだけではない。
この世界に人間がやってきてから何が起きたかという話なのさ。
偉大なるジャン王の物語さ」
4
ジャン王は、この地の人ではない。
遠い遠い天空のかなたから、〈
星船には多くの〈船乗り〉と、さらに多くの〈眠れる人々〉が乗っていた。
不思議なことだけどねえ。
〈船乗り〉たちも〈眠れる人々〉も、眠ったままで星々のあいだを飛んで来たんだ。
ジャン王は、〈船乗り〉の一人だった。
星船がこの地に降り立ったとき、全員が目覚めるはずだったけど、なぜかジャン王一人が先に目覚めてしまった。
ジャン王は、ほかの〈船乗り〉を起こそうとしたが、起こせないようになっていた。
〈眠れる人々〉を起こすことのできる〈船乗り〉は数人しかおらず、その人たちが起きないかぎり、〈眠れる人々〉も起こせない。
ジャン王は一人でこの地に降り立ち、冒険を始めた。
この地には、たくさんの人が住んでいた。
ああ。
人間のことじゃないよ。
今の言い方でいえば亜人のことさね。
ジャン王は彼らを〈もとからの人々〉と呼んだ。
〈亜人〉という言葉が生まれたのは、ジャン王の時代じゃあない。
ずっとずっとあとのことなんだよ。
あたしは亜人て言葉が好きじゃない。
けれどまあ、ここではあんたになじみの深い言い方をしておこうかねえ。
亜人は、他の種族の亜人と争い、同じ種族の他の部族と争っていた。
ジャン王は亜人の中に友を作ってゆき、多くの亜人たちに手を結ばせ、この地に平和をもたらした。
そんな大事業を十何年かそこらでやっちまったというんだから、なるほどジャン王は偉大さ。
亜人たちはジャン王のことを、ただ一人の王、と呼ぶようになったのさ。
若かったジャン王は、壮年になっていた。
やがて〈船乗り〉たちが目覚め始めた。
ジャン王は大いに喜んで、〈眠れる人々〉も起こそうとした。
だけど、〈船乗り〉の中に反対する者がいた。
ジャン王は、古き定めにしたがい、〈船乗り〉と〈眠れる人々〉と亜人たちがともに手を携えていくべきだと考えた。
これに対し一部の〈船乗り〉は、〈船乗り〉が貴族になり、〈眠れる人々〉が平民になり、亜人たちが奴隷になるべきだと考えた。
〈船乗り〉の中にも階級があった。
そして、ジャン王はあまり高い位ではなかったんだねえ。
〈
それどころか、一人だけ早く起きて王になったジャンを、裏切り者と呼んで閉じ込めた。
何のことはない。
彼らは、自分たちこそが王になりたかったのさね。
最上級の〈船乗り〉たちが王となり領土の配分を決め、民を支配するからくり仕掛けを埋め込んでから、〈眠れる人々〉を起こそうとしたのさ。
ジャン王は、味方してくれる〈船乗り〉に助けられて脱出し、〈船乗り〉たちは、二派に分かれて相争った。
一方は〈
長く激しい戦争が続いた。
〈船乗り〉たちは星々のかなたから持ち込んだ強大な武具を持っていたからね。
空を斬り裂く
あるとき、ジャン王が敵にとらわれた。
処刑の寸前、奇跡が起こった。
かねてジャン王と親しくしていた精霊が、ジャン王の命に溶け込んで一つになったのさ。
世界で最初の〈精霊憑き〉だよ。
そのときまで、そんなことができるとは、誰も思いもしなかった。
〈船乗り〉たちにも精霊は見えなかったんだけど、見えるようにするわざを持っていたんだね。
けれど精霊は邪魔にもならないが助けにもならない、ふわふわと漂うだけのものと思われていた。
ジャン王は、そんな役にも立たないものとも仲良くするような変わり者だったわけさね。
精霊というのは、もともとこの世ではないどこか別の所にいて、そこからこの世界に生まれてくる。
死んだらもとの世界に戻り、また新しい力を得て、この世に生まれてくるんだ。
限りなくね。
精霊が人に溶け込んで命の一部になると、その人間は不思議な力を得る。
体は頑丈になり、傷を負ってもすぐに癒える。
力は強くなり、疲れを知らなくなる。
寿命はうんと長くなる。
それだけじゃない。
火や水や土や風の力を大きくしたり、幻を作ったり、いろいろと不思議なわざが使えるようになる。
精霊憑きになって得た力で、ジャン王は再び自由を得た。
それからというもの、二つの陣営の〈船乗り〉たちは、やっきになって精霊憑きになろうとした。
無理矢理精霊を取り込む方法も編み出された。
たくさんの精霊が取り込まれたよ。
あたしの友達だった精霊のように、取り込まれなかった者もいるけどね。
結局、亜人たちの協力が決め手になってジャン王は勝利を収めた。
〈船長〉は捕らえられ処刑され、ジャン王に反抗する者はなくなった。
けれど、大陸中央は人が住めないほど荒れ果てた。
ジャン王は、〈眠れる人々〉を目覚めさせ、大陸の西東北南それぞれの辺境に住まわせた。
こうしてやっと平和な時代が訪れたけど、それは長続きしなかった。
〈魔獣〉が現れたのさ。
それまでは普通の動物であったものが、ある日突然魔獣となった。
体は大きくなり、寿命は何倍も長くなり、生命力は驚くほど強くなった。
なぜ魔獣化が起きるのか、最初はまったく分からなかった。
ジャン王は、調べ、考え、そして答えを得た。
精霊は死んでも時がたてば復活する。
前の記憶を持ったまま。
そういうものだったんだ。
ところが、人間に取り込まれて消えていった精霊たちは、いつになっても復活してこなかった。
そうではなかった。
復活していたんだ。
魔獣としてね。
人間と一つになった精霊は、復活したとき、それまでの記憶を失ってしまう。
それだけじゃない。
知恵も心も優しさも持たない、いわば狂った精霊として復活するんだ。
狂った精霊は、復活するなり生き物に取り憑こうとする。
けれど狂った精霊は、知恵ある生き物には取り憑けない。
だから獣に取り憑くのさ。
狂った精霊に取り憑かれた獣は、強くたくましくなる。
でもそれだけじゃない。
凶暴になるんだ。
しかもその凶暴さは人間にだけ向けられる。
人間の姿を見、人間の匂いを嗅げば、猛り狂って襲い掛かり、やつざきにしなければならないようになってしまう。
それが魔獣の正体だった。
そうさ。
精霊憑きになった〈船乗り〉たちが殺し合った結果、たくさんの狂った精霊が生まれた。
それが獣に憑いたのが魔獣の正体だったんだ。
魔獣を殺せば、そこから狂った精霊が抜け出し、別の獣に取り憑く。
魔獣は、獣や亜人は憎まないけれど、人は憎む。
人が近づけば魔獣は凶暴になり、その近くの獣も凶暴になる。
魔獣は、殺しても殺しても獣に憑いてよみがえり、魔獣となって人を憎み襲うんだよ。
真実を知ったジャン王は、衝撃を受け、嘆き哀しんだ。
あの無邪気で幸せそうだった精霊たちを滅ぼしてしまったばかりか、永遠に人と憎しみ合い、殺し合うことになったんだからねえ。
とはいえ、魔獣を放置するわけにはいかない。
ジャン王は、魔獣を倒せる武器を作った。
偉大な精霊たちの力を借りたようだけど、そこは詳しいことは知らない。
偉大な精霊たちというのは、精霊の神のようなものでね。
一体で精霊何百何千にも匹敵する強大な力を持っていた。
そのくせ精霊たちと話をすることもなく、精霊たちと世界を見守ってきた不思議な存在なのさ。
精霊神の宿る剣は一振りで百の魔獣を倒せたらしい。
といっても、殺しても殺しても魔獣として復活するだけなんだけどね。
このころには、精霊憑きとなることで長命になったジャン王にも死期が迫っていた。
長くない余命のなかで、人と魔獣が殺し合わずに済む方法を必死で探った。
その結果生まれたのが、〈
あんたは、〈
魔獣をなだめ、従わせることのできる魔石だよ。
〈
ジャン王は、人の住む地を巨大な壁で覆った。
ジャンの大きな壁、ジャン・デッサ・ローの誕生さ。
バルド・ローエン。
あんた、大障壁の向こうに何があるか知ってるかい?
ふぇふぇふぇ。
そうさ、そうさ。
魔獣の棲む森が広がっている。
じゃあ、その向こうには何があると思う?
分からないかえ。
そうだろうねえ。
常識では考えもつかないさ。
水だよ。
塩水さ。
人の住む地はぐるりと大障壁で囲まれ、その外側には魔獣の棲む森があり、さらにその森は塩辛い水で囲まれているのさ。
水の上にこの大地が浮かんでいるといってもよいわえ。
ひゃっ、ひゃっ、ひゃっ。
信じられないかえ。
無理もないねえ。
自分の目で見るのでもなけりゃあ、とても信じられないさ。
あたしも、知ってはいるけど、信じておるかどうかは自分でもよく分からない。
でも、それが真実だ。
何?
その水の外側には何があるのかだって?
さあねえ。
それ以上のことは、あたしも知らない。
あたしに溶け込んで消えた精霊の記憶にもないことなのさ。
大陸中央には広い土地があり、四方の辺境も広い。
その二つを合わせたとちょうど同じほどの広さが、大障壁の外側にある。
ジャン王は、大障壁の外に大量の〈
そのうえで、大障壁の内側の魔獣を狩り尽くした。
殺さずに済む場合には捕らえて大障壁の外側に捨てた。
死んだ魔獣がよみがえるときには、〈
大障壁には〈
もう分かっただろ。
ジャン王は、人間の住む場所と魔獣の棲む場所を分けたのさね。
分けることによって、それ以上殺し合わずに済むようにね。
けれどジャン王には悔いがあった。
精霊たちをそんな運命に追い込んだ後悔があった。
同時に、希望は持てないものかと考えた。
だから、大障壁には、わずかな切れ目が作られた。
今は人と魔獣は殺し合うしかない。
けれど。
いつか、ずっと先の、そのまた先では。
狂化が静まり、再び無邪気で友好的な精霊に戻る日が来るかもしれない。
来てほしい。
もう一度人間と精霊が仲良くできる日が来てほしい。
その願いが、あの切れ目には込められているのさ。
そうだろう?
切れ目がなければ、魔獣と人間は隔たったまんまだからね。
元の精霊に戻ったとしても、知ることもできない。
魔獣たちがいつか静まることを願って。
魔獣たちがいなくなり、精霊が復活する日を楽しみに。
人と精霊をつなぐ絆として、あの切れ目は作られたんだよ。
ジャン王は死に、星々のかなたから持ち込まれたわざも失われていった。
人は空を飛べなくなり、山を砕くこともできなくなった。
ジャン王は、それでいい、と考えていたんだろうねえ。
ああ、そうそう。
家畜にできる獣の多くに角が生えているだろう。
あれはねえ。
星船に乗って人間と一緒にこの地にやってきた獣たちなのさ。
あの獣たちを目覚めさせたときには、まだ大障壁はできていなかった。
家畜が魔獣化しては困るからというので、仕掛けをほどこして、狂った精霊が取り憑けないようにしたんだね。
そのしるしが、あの角なのさ。
だけど、もとからこの地にいた獣には、角を付けても魔獣化を止められなかったそうだよ。
ジャン王の物語は、ここまでにしておこうかねえ。
バルド・ローエン。
これ以上のことは、あたしにも分からないさ。
でも、マヌーノの女王の言う〈石〉は〈
大量の〈
大障壁の外を掘り返しでもしたのか。
〈
しかもそれを人間にけしかけるとは。
何者かが、ジャン王の定めたことわりを崩そうとしているんだろうかね。
それから、ジャミーンが持っていたというのは、おそらく〈
竜人のことは知っているけど、彼らは〈船乗り〉たちの戦争にも加わらなかった。
彼らは〈もとからの人々〉の中でも特別に強い種族でね。
ほかの種族を支配していた。
いやいや、統治していたわけじゃないよ。
そんな面倒くさいことはしないさ。
おもしろ半分に、他の種族に命令を出し、もてあそんでいただけさ。
星から来た人々とは関わりを持たないようにしていたはずなんだけどねえ。
あの、見つけたぞ、という声はあたしも聞いたさ。
恐ろしい力を感じさせる声だった。
何者であるかはあたしの知識にはない。
ということは、あたしの中の精霊が人間たちから離れていた時期に現れたんだろうね。
ジャン王と同じ時代のものなら、精霊の記憶にありそうなもんだ。
亜人たちが秘密の鍵を握っているよ。
彼らは、伝説や
今いる人間はみんな〈眠れる人々〉の子孫だからね。
古いことは知らないさ。
ああ、そうそう。
魔獣が子どもを作れないのは知ってるね。
精霊憑きの人間もそうさ。
精霊憑きになっちまった人間は、子どもを作ることができないんだ。
だから〈船乗り〉たちはとうの昔に死に絶えてしまった。
旅に出るんだよ、バルド・ローエン。
まずは〈
それにしても、無事な精霊が生き残っていたとはねえ。
こんなうれしい知らせはないわさ。
ルジュラ=ティアントのことはよく知らないよ。
でも昔からルジュラ=ティアントは精霊とよく友達になったもんだった。
あんたの予感は正しい、とあたしも思う。
このままでは済まない。
何か恐ろしいことが起こる。
旅に出るんだよ、バルド・ローエン。
一刻も早く。
5
この話を聞いたバルドは体調を崩して寝込んだ。
それほどに、身にこたえた。
人間がもともとこの世界の住人ではなく、星界のかなたからやって来た人々の子孫だという話は、興味深くはあったが、格別の驚きをバルドに与えなかった。
格別に目新しい話でもない。
ケッチャ=リ神の教義では人間は地から自然に生じたとされるが、コーラマ神の教義では、星々のかけらから神が人間を作ったとされる。
人間が空や天に起源を持つとする教義は少なくない。
星のかなたから人間がやって来たというのは、いかにもありそうな話である。
その人々の中に神のごとき力と叡智をもって導いた人々と導かれた人々がいた、という点が新しいといえば新しい。
しかし、魔獣は。
魔獣の真実は。
バルドに衝撃を与えた。
バルドの生涯は、その大半を魔獣から人を守ることに捧げてきたといってよい。
バルドだけではない。
パクラの騎士すべてがそうだ。
魔獣は理不尽そのものであり、悪意そのものだった。
相対すれば分かるのだ。
それがいかに人間を憎んでいるか。
人間を滅ぼすために、おのれのすべてを捨てて襲い掛かってくるのだから。
これと戦って倒すことは、正義以外の何ものでもなかった。
やつらが人々に流させた血のあがないをさせなければならない。
やつらを殺すことによって。
やつらがこれ以上人々を恐怖に陥れるのをやめさせなければならない。
やつらを殺すことによって。
魔獣は殺してもよいものであり、殺さなければならないものであり、そのことに疑問の余地はなかった。
やつらは世界の異端者であり、破壊者であり、平和の敵だと思っていた。
だが、そうではなかった。
復讐する権利を持っているのは人間のほうではなかったのだ。
やつらのほうだったのだ。
その幸せを踏みにじり、
人間のほうだったのだ。
世界を欲のために踏みにじり、世界から復讐されるべきだったのは、人間のほうだったのだ。
やつらは世界を代表して、人間にその欲の対価を支払わせるために、現れた。
そしてこれからも現れ続ける。
やつらこそが復讐者であり、人間は裁かれる側だったのだ。
なんということだ。
数日後バルドが起き上がったとき、旅に出る決意を固めていた。
だが、それを実行に移す前に、使者が来た。
アーフラバーンの部下の騎士だ。
皇都を目指して帰って行ったアーフラバーンたち一行は、途中でとんでもない報に接した。
突然、シンカイ軍がゴリオラ皇国に侵攻し、皇都を落としたというのだ。
しかも何ということか。
皇王はゴリオラ皇国がシンカイに従属すると発表し、各地の騎士に皇都に参集するよう命じたという。
ただちにロードヴァン城にお越しいただきたい。
アーフラバーンの懇請を、使者はバルドに伝えた。
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