第10話 ヒルプリマルチェ

 1


 三十日間でカッセの近くまで軍を進め、南東のゴルト平原に陣を敷いた。

 シンカイ軍は道中さんざんに削られている。

 途中の諸侯に対し、敵が王都に攻めて来るときは足止めだけでよいが、カッセに逃げ帰るときには削れ、と王命が出ていたからである。

 シンカイ軍は、二つの城と四つのとりでに兵を込めていたが、いずれもほとんど歩兵であった。

 これを見捨てずに連れて帰ろうとしたのは立派であるが、そのため退却行は厳しいものになった。

 兵糧の多くを捨てて逃げなければならなかったから、なおさらである。

 小刻みに戦闘を繰り返しながらも、こちらと同じ三十日でカッセにたどりついたのには感心させられた。


 連合軍の布陣は、やはりパルザム王軍を主体としたものである。

 騎馬隊四百、槍隊四百、装甲歩兵隊四百、弓隊四百の編成は変わらない。

 死傷した将兵は予備の者と入れ替えたからである。

 ゴリオラ軍は、負傷者を王都に残してきたことから、騎士と従騎士合わせて百二十、従卒百と少し減っている。

 諸侯の軍は騎士と従騎士を合わせて三百八十と大幅に増加している。

 その二倍程度の従卒が随伴している。

 これは北部や西部の諸侯が新たに参加したためである。

 ここはさじ加減の難しいところである。

 新たな領土を切り取れる戦ではないから、参集した諸侯への褒賞は王家の自腹に近い。

 だから勝ちを見込めるほどの人数が集まってほしい半面、あまりたくさんの騎士が集まりすぎるのも困るのである。

 今回集まった人数は、ほぼ重臣たちのもくろみ通りか、それよりやや多い程度であるらしい。

 勢いのあるとき、人は集まりやすいものなのである。


 物見から、物欲将軍がカッセの街を出たと報告があった。

 カッセを攻めるのはいくつかの理由で避けたかったので、バルドはこの報告に安堵の息をはいた。

 続いて、敵の兵力が騎馬八百と歩兵千という報告が来た。

 思ったより多い。

 これは厄介かもしれない。

 その戦力で攻められたら、物欲将軍を狩るための仕掛けがうまく維持できない可能性がある。


「腹が減った。

 何かないか」


 ジョグの言葉に、コリン・クルザーが慌てて食べ物を探すが、見つからないようだ。

 それはそうだろう。

 さっき最後の堅焼きパンをジョグに渡したところなのだから。

 ジュルチャガが何かをジョグに渡した。


「おっ。

 牛肉の燻製か。

 こりゃ、いい。

 ジュルチャガ。

 お前、気が利くな。

 俺の所に来ないか」


 ジョグ・ウォードは食べ物をくれる相手の名前は覚えるのだ。

 そういえば、あの件はどうなったのだろう。

 ジョグは、カムラーが勤め先を探していることを知ると、うちに来いと熱烈な勧誘を始めたのだ。

 俺の給料の半分をやるから、と。

 ジョグの給料がいくらだか知らないが、ガイネリア国第五騎士団団長にして、第五から第八騎士団までの指揮権を持つ筆頭将軍だ。

 相当のものだろう。

 バルドはジョグに、カムラーは承諾したのか、と訊いた。

 とたんにジョグは不機嫌を絵に描いたような顔になった。


「ふられたよ。

 じじい。

 あんたはいっつもそうだ。

 俺のほれたやつは、いっつもあんたがかっさらっていく。

 俺が本気になった女は、みんなあんたに取られちまった。

 ふざけるんじゃねえ」


 バルドはジョグに、何を人聞きの悪いことを言う、お前はいつも女には好かれたし気に入った女は強引にものにしていたではないか、と言った。


「ああ。

 それなりの相手には不自由したこたあねえ。

 けど、いざっていうときは別だ。

 これはと思った女を口説くと、どいつもこいつも言うこたあ同じだ。

 バルド様のほうがいい、だとよ。

 こんちくしょうめ。

 この寝取りじじいが。

 いつか覚えてやがれ」


 それは寝取りとはいわんじゃろう。

 そもそもお前とわしでは世代が違うから、女を取り合うなどできはせん。

 だいいち、暮らしておる場所も違ったではないか。

 そうバルドは言い返した。


「自分で気が付いてねえだけ罪がふけえなあ。

 可哀相かええそうによう。

 どんだけの女を泣かしてきたのか、分かってねえのか」


 気が付けば、周り中が聞き耳を立てている。

 いかん。


「その話、詳しく」


 こら、ジュルチャガ!

 要らんことを言うな。

 

 と言おうと思ったそのとき。

 カーズの異変に気付いた。





 2


 カーズは愛馬サトラの上で、苦しげに背を曲げている。

 食いしばった歯のあいだから、ふっ、ふっ、と鋭い息をはいている。

 眉間と鼻筋にはしわが寄り、目は大きく見開かれ、その瞳は金色の光を発している。

 手綱を握る手と肩は激しく震え、必死に悪寒に耐えているかのような姿だ。

 いつも憎らしいほど落ち着いているカーズのこの異様な様子に、くつわを並べているシャンティリオン、ジョグ、キリー、アーフラバーンも驚いている。


 彼らは知らない。

 物欲将軍がカーズにとって何であるかを。

 どれほど憎い怨敵であるかを。

 その憎むべき敵が近づく気配に、カーズは興奮を抑えきれないのだ。

 うつむきながらもその目は前方に向けられている。

 近づきつつある、その敵に。


 来る。

 近づいて来る。

 あれは、何か。

 あの巨大な生き物は、何か。


 何度も話には聞いていた。

 カーズやシャンティリオンが嘘を語っているなどと思ったことはない。

 だが。

 だが心のどこかに。

 そんな化け物がいるわけはないという気持ちがあった。


 ゆえに今、バルドはおののいている。

 目にしているものの信じがたさに。

 肌に感じるその存在感の巨大さに。

 いつしかバルドも身を震わせ、荒い息をはいていた。


 シンカイの黒い騎馬軍団八百騎が大きく横に広がって近づいて来る。

 その中央に、遠近が狂ったかと思わせるような存在がいる。

 人の二倍の身長を持つ怪物が。

 何か見知らぬ獣に乗っている。

 その獣も巨大だ。

 毛のない大赤熊に鎧を着け、首を太い馬のそれにすげ替えて、鼻先に太い角を付けたような生き物である。

 物欲将軍は、連合軍と五百歩ほど離れた位置でシンカイ軍を止めた。

 獣から降り、一人でこちらに歩いてくる。


 バルドは、まのあたりにした物欲将軍の威容におののきながらも、心の中で、よし!と叫んだ。

 問題はいかに物欲将軍一人を引っ張り出すかだった。

 この態勢でこちらの指揮官級の騎士たちが前方に突出していれば、物欲将軍は一人で来るのではないかと考えた。

 それは半ばはブンタイ将軍から聞き出した物欲将軍の気質による。

 半ばはバルドの直感のようなものである。

 それに、カーズとバルドは、たぶん餌になる。


 物欲将軍は、二百歩ほど離れた所で止まった。

 バルドは、自軍を五百歩下げさせた。

 今前線に残っているのは、バルド、カーズ、シャンティリオン、ジョグ、キリー、アーフラバーンの六人である。

 六人の右と左には、それぞれ十台ずつ、倒した荷馬車が防壁代わりに並べてある。

 こちらの将兵が後ろに下がると、物欲将軍は再び前進してきた。


 よし!

 よし!

 よし!


 作戦は成功しつつある。

 バルドは心で快哉かいさいを叫んだ。

 物欲将軍は、バルドたちから五十歩ほどの位置で止まった。

 見れば見るほど、近づけば近づくほど、物欲将軍の異常さが分かる。

 これは地上にいてよい存在ではない。

 体中から強い精気があふれ、バルドたちのほうに吹き寄せてくる。

 全身を覆う革鎧は、魔獣の皮を貼り合わせたものではなかろうか。

 胸や肩には頑丈そうな金属板が埋め込まれている。

 手の指先までが手甲に覆われているが、首から上には何も着けていない。

 肌の色は白い。

 白輝石のように白い。

 そして切り傷だらけだ。

 目は赤い。

 まるで魔獣のように。

 毛髪も口ひげもあごひげも真っ白だ。

 爆発したかのように四方八方に突き出している。


「やはり生きていたのか、小僧。

 あの傷でよく助かったな。

 さすがは先祖返りだ」


 カーズをにらみながら、怪物がしゃべった。

 何人もの巨人が同時に声を出したような響きだ。

 五十歩もの距離を隔てて普通にしゃべっているのに、その声はしっかりと届いている。


 カーズはいつもの静かさを取り戻していた。

 返事もせずに、鋭い目で怪物をにらんでいる。

 代わりにバルドが言葉を発した。

 腹に力を込めた大声である。


 ルグルゴア将軍。

 なぜザルバンの王族を皆殺しにしたのじゃ。

 〈王の剣〉を倒した時点でお前の欲しがっていた魔剣を奪うこともできたはずじゃ。

 それさえ手に入ればよかったのじゃろう。


 怪物はバルドのほうを見て目を少し見開いた。


「ぐぐ。

 貴様がバルド・ローエンか。

 最後の神獣の剣の使い手。

 よりによって魔獣が進撃を始めた、その場所に居あわせるとはな。

 やつはずいぶん喜んでいたな。

 時間をかけて魔獣を作らせたかいがあったわけだ。

 いっそ貴様を殺しておくか。

 それもおもしろい。

 ぐ、ぐ、ぐ。

 なぜザルバンの王族を皆殺しにしたか、だと。

 その剣を奪ったら、やつらは最後の一人になってもわしを殺しに来る。

 根絶やしにするのでなければ、その剣は奪えない。

 それが分かっていたから、あそこにそれがあると知りながら、何百年も奪いに行く覚悟が決まらなかったのよ。

 ぐ、ぐ」


 お前のような者でも、一つの国の王族を皆殺しにするのはさすがに気がとがめるのか、とバルドは冷やかした。

 それに対する怪物の答えは、思いもよらないものだった。


「そりゃあ、そうさ。

 さすがに同族殺しは気がとがめる。

 やってみたらなんてこともなかったがな。

 ぐ、ぐ、ぐ、ぐ、ぐ」


 この怪物は自分もザルバンの王族だったと言っているのだ。

 バルドも驚いたが、カーズもわずかに目を開いている。


「その剣は、〈地を這うもの〉という名が付けられているが、実際には〈地を這うもの〉と戦ってそれを食った狼人王自身が宿っている。

 それが失われたら国は滅びるし、それさえ残っていれば滅びてもよみがえると、わしたちは教わってきた。

 実際にはそうではなかったがな。

 ぐぐ、ぐぐ、ぐ。

 いや、まだ分からんな。

 わしの作る国を滅ぼされてはたまらんからな。

 小僧は殺しておこう。

 ついでにその剣も食わせてもらおうか。

 今となってはもうどうでもいいのだがな。

 ぐぐぐ、ぐぐ、ぐぐ。

 そういえば、あのときの偽物はよく出来ていたな。

 わしがいなくなってから作ったのだな。

 まさかわしが奪いに来ると分かっていたのか。

 ぐぐ、ぐぐぐぐ」






 3


 話は終わったとばかり、物欲将軍は剣を抜いてバルドたちに向かって歩き始めた。

 その刃渡りはバルドの身長ほどもあるとバリ・トードは言っていた。

 何を馬鹿なと思ったが、その言葉は間違いではなかった。

 バルドの頭の中には、今の話を聞いていて生じたいくつもの疑問が渦巻いていた。

 だが、好機だ。

 あと二十歩近づいてくれれば、攻撃地点となる。

 物欲将軍の歩幅でいえば十歩である。


「ぐぐ、ぐぐ。

 ずいぶん大勢の兵を荷車に伏せているな。

 弓か?

 やってみるがいい」


 気付かれている。

 もちろん気付かれるだろうと思っていた。

 物欲将軍は異常に勘の鋭い男で、人の気配を見逃すことはない。

 兵が伏せてあることは承知の上で、怪物はなおも進む。

 殺しがいのある六人の餌に向かって。


 ここだ!


 その距離に達したとき、何の前触れもなく荷車から矢が飛び出した。

 百本の矢が。

 さしもの怪物も反応が遅れた。

 弓を引く気配も、射撃の命令もなかったからである。


 弓を引く必要などないのだ。

 隠した兵は改良クロスボウを持っており、初めからつるは引いてあったのだ。

 荷車の底の板は至るところで穴が開けられ、のぞき込んで矢を射ることができるようになっている。

 そして馬車の底にはララスの布が張ってある。

 近くからなら布の向こうが透けて見えるし、クロスボウの矢は抵抗もなくそれを破れる。


 百の矢が怪物に迫る。

 怪物はそれでも恐ろしい反応速度をみせて大剣を振った。

 その剣からは金色の光があふれ出て奔流となり、二十台の馬車とバルドたちをなぎ払った。

 馬車は竜巻にでもあおられたかのように吹き飛ばされた。

 バルドたちも乗った馬ごと風に吹き上げられて後ろに飛ばされた。


 だが百本の矢は風圧にも負けず、怪物を襲った。

 それは木の矢ではなく、鋼で作られた矢なのだ。

 しかも矢尻の先端部分は魔剣の素材で作られている。

 魔剣十本をつぶして得た素材で矢尻を作ったのだ。

 この矢なら物欲将軍にも通じるはずである。

 というより、これで倒せないような相手なら戦いようもない。


 バルドは風で飛ばされながらも、矢のゆくえを見守った。

 当たる、と見えた瞬間、物欲将軍が信じがたい反応をみせて後ろに下がる。

 だがさすがに逃げ切ることはできず、いくばくかの矢がその巨体を捉えた。

 風にもまれて地にたたきつけられたバルドは急いで起き上がり、くらくらと揺れる目で物欲将軍を探す。


 いた。

 およそ二十本ほどの矢を体に突き立てながら、両の足で大地を踏みしめている。

 一本の矢は右の頬骨に突き刺さっている。

 貫通していない、という事実にバルドは愕然とした。

 改良クロスボウの威力は戦慄すべきもので、重鎧を着た騎士を盾ごと貫いて一撃で絶命させる威力がある。

 それが貫通さえしていないのだから、物欲将軍の皮膚や肉や骨の硬さは魔獣以上だ。


 バルドたち六人は自分の足で走って怪物に殺到した。

 吹き飛ばされた勢いで脚を痛めた馬もいるだろうが、今はそれどころではない。

 この勝機をのがすわけにはいかないのだ。

 カーズとシャンティリオンとキリーは神速の歩法で怪物の後ろに回り込む。

 バルドとアーフラバーンとジョグは正面から怪物に迫る。

 バルドはちらと敵軍のほうを見た。

 八百の騎馬軍団は動こうとしない。

 この状況にあっても物欲将軍の勝利を微塵みじんも疑っていないのだ。








【後書き】

8月25日「ヒルプリマルチェ(後編)」(第5章最終話)に続く


------------------------- 第117部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

第10話 ヒルプリマルチェ(後編)


【本文】






 4


 怪物が大剣を振った。

 人の身長をしのぐ金色の光の弾丸が飛び出してキリーを襲った。

 キリーは、目には見えないはずのその金色の弾をかわしかけた。

 が、かわしきれず、ずたずたになって吹き飛ばされた。

 バルドは槍を構えて怪物に迫る。

 バルドの武器は魔槍である。

 この相手には長さのある武器のほうがよいと考えたのだ。

 怪物は光の奔流を放ってきた。

 バルドとカーズとアーフラバーンが吹き飛ばされた。


 顔を起こして前方を見ると、怪物は背を向けていて、その向こうでジョグとシャンティリオンがのたうっている。

 光弾を受けたのだろう。

 物欲将軍は一度に多くの敵をなぎ払うときは光の津波を起こし、一人の敵を討つときは光弾を放つ。

 いずれもかわすことは難しい。

 とはカーズから教わったことである。

 その光はカーズやバルドのような者にしか見えはしないのであるが。

 なるほど、これではかわしようなどない。

 しかし物欲将軍の最も恐るべき攻撃は、その二つではない。


 ジョグが素早く起き上がって再び怪物に突進している。

 振り上げた黒剣を怪物にたたきつけた。

 怪物は大剣に黄金の光をまとわせたまま、横なぐりにジョグの黒剣を迎え打った。

 黒剣は真っ二つに折り砕かれ、ジョグは後方の地面にたたきつけられた。

 死ぬほどの痛手を受けたジョグは、身動きもしない。


 これだ。

 この攻撃こそが、最も恐ろしい。

 これを受けたら死ぬ、と思っておくほかない。


 左からアーフラバーンが飛び込む。

 怪物は大剣を振りかぶった。

 アーフラバーンが盾を投げつけた。

 怪物はアーフラバーンに斬りつけようとしていた大剣の軌道を変えて盾をはじいた。

 その怪物の腹部にアーフラバーンの魔剣が食い込んだ。

 かと思ったが、一瞬早く怪物は体をひねって左の拳でアーフラバーンを吹き飛ばした。

 アーフラバーンの突撃と同時にバルドは遠間から怪物の脇腹に魔槍を突き入れた。

 だが魔槍は鎧と筋肉に押し返され、浅く食い込むにとどまる。

 次の瞬間、怪物の左の拳がバルドの胸をとらえ、バルドは魔槍を持ったまま吹き飛ばされた。


 これほどの巨体でありながら、なんたる速度と反射神経か。

 隙というものがない、とカーズが評していた意味がわかった。

 手強てごわそうな敵は懐にさえ入らせてくれない。

 確かにこれはまともには戦えない相手だ。


 だが。

 だが、もう毒が効き始めてもよいころではないのか。

 改良クロスボウの集中攻撃のあと、最強の顔ぶれで続けざまに攻撃を仕掛けているのは、それで倒せると思っているからではない。

 動き回らせることによって、クロスボウの毒が怪物を倒すのを助けるためだ。

 全部のクロスボウの矢尻には、腐り蛇ウォルメギエの毒がたっぷり塗布してある。

 ジュルチャガに、はるばるパクラまで取りに行ってもらったのだ。


 一人の相手を大勢で取り囲み、しかもクロスボウ部隊を伏せ毒の矢でねらうなど、およそ騎士と騎士との戦いではあり得ない作戦である。

 そのあり得ない作戦をあえてバルドは取った。

 相手は、あのカントルエッダが、カーズが、そしてザイフェルトが手も足もでなかったという敵なのである。

 まさに人の姿をした巨大な魔獣と思うほかない。


 そしてその作戦は見事に的中した。

 的中したのであるが、怪物は倒れない。

 なぜだ。

 二十本ほどの矢が刺さっているのだ。

 相当に深く体に食い込んでいる。

 この毒が効かないというようなことがあり得るのだろうか。

 もしそうだとしたら、もうこの怪物を倒す方法はないだろう。


 なぜこの怪物は倒れないのだ。

 苦しみもみせず、平然としているのだ。

 と、怪物の斜め後ろでキリーが立ち上がり、神速の歩法で怪物に襲い掛かった。

 怪物は素早く振り返り、剣に黄金の光をまとわせてキリーを横殴りにした。

 キリーは襲い来る大剣をにらみつけながら、吹き飛ばされた。

 大きく飛ばされて大地に横たわり、ぴくりとも動かない。

 もはやジョグもアーフラバーンも立ち上がる力もない。

 カーズとシャンティリオンは立ち上がろうとしているが、剣を振る力はほとんど残っていないだろう。

 バルドはといえば、魔槍を杖代わりに立ってはいるが、攻撃するだけの余力はない。


 そのとき、ふとバルドは思った。

 御前会議の席でこの怪物を魔獣と思えと言ったのは、もののたとえであり、それ以上の意味はなかった。

 だが、もしかすると。

 もしかすると、それは正しいのではないか。

 魔獣となった獣は、強靱な生命力を身につけ、体は大きくなり、斬っても突いても容易には殺せない化け物になる。

 この男こそ、まさにそうではないか。

 妖魔の妖気を浴びた獣が魔獣となるように、この男もまた妖魔の息吹を吸い込んだのではないか。


 ならば。

 それならば。


 バルドは腰から古代剣を抜いた。

 怪物はじっとこちらを見下ろしている。

 バルドは古代剣を抜いて怪物のほうに突き出し、今はもういない愛馬の名を叫んだ。


  スタボローーーーーース!!


 剣から青緑の光がほとばしり、怪物に殺到した。

 光が爆発した。

 それが収まったとき、そこには平然と立つ物欲将軍の姿があった。


 だめ、か。


 バルドが思わず漏らした声に、怪物は返事をした。


「いや、そうでもなかった。

 今のは効いたよ。

 危うく持って行かれるところだった。

 ぐぐ、ぐ。

 よごれていない剣というのは、そこまでの力が出るのか。

 だがわしは五匹の神獣を取り込んでいるからな。

 一匹では勝てんよ」


 激しい脱力感がバルドを襲った。

 渾身こんしんの力を込めて古代剣の力を振るったのだ。

 今にもバルドの意識は闇に落ちるだろう。

 長い眠りになるだろうか。

 いや。

 倒れた自分を物欲将軍がほっておくはずはない。

 二度と目を覚ますことのない眠りになる。


 いかん!

 このまま倒れてはいかん。

 これだけの陣容で、これだけの備えをして、今この時に討てなければ、この怪物は倒せん。

 ジュールが殺される。

 どうしてもここで倒しておかねばならん。


 そのバルドの祈りが天から援軍を呼び寄せたのか。

 後方から音がする。

 馬が駆ける音がする。

 よく鍛えられた馬が重装備の騎士を乗せたとき、こういう足音を立てるものだ。

 一騎の勇士が突撃してきた。

 首を動かせないバルドは振り返ることもできない。

 物欲将軍は、物珍しげな目で走り寄ってくる騎馬を見ている。

 そして大剣を振り上げた。

 ひづめの音はいよいよ接近し、バルドの横を通り抜けた。


 ゴーズ・ボアだ。


 辺境競武会の馬上槍部門で優勝した騎士だ。

 馬のような顔をしており、盾のような妙な形をした兜を使う男だ。

 昨日久しぶりに顔を合わせ、またうまい酒を飲もうと約束したばかりだ。

 ゴーズ・ボアは右手に長くて頑丈な突撃槍を持ち、巨馬にまたがり、左手に盾を持って突進してゆく。

 そのゴーズの頭部めがけ、怪物が非情の剣を横なぎに浴びせる。

 大剣はまばゆいばかりの黄金色に輝いている。

 触れるものすべてを破壊する斬撃だ。

 その一撃は難なく盾をはじき飛ばし、頭部をえぐった。

 盾の動きに少しだけ方向をそらされたが、頭部に入った必殺の攻撃は、この異相の好男子を絶命させただろう。

 誰もがそう思ったはずだ。


 だが。

 命を失ったはずのゴーズ・ボアはそのまま突進し、巨大な突撃槍は怪物の右腹部に突き刺さり。

 そのまま大きく腹をえぐり内臓を引きちぎって突き抜けた。

 ゴーズ・ボアの馬は、あるじを乗せたまま、怪物の攻撃などなかったごとく、走り抜けていった。


 怪物の顔が驚愕にゆがみ、左手で思わず右腹を押さえた。

 初めて怪物がみせた小さな隙を、カーズ・ローエンは見逃さなかった。

 すなわち死角から怪物に走り寄ったのである。

 その捷疾しようしつさは、およそ人の限界を超えるほどのものであり、残された気根のすべてを注ぎ込んだものであったろう。

 後ろから何かが来る、と気付いた怪物は、振り向きざまに攻撃を加えようとしたが、わずかに遅い。

 その怪物の大剣をにぎる右腕を、肘の上でカーズの魔剣〈ヴァン・フルール〉が断ち切った。

 怪物は左手を振り回してカーズを打ち据えた。

 カーズが吹き飛んでいくのと同時に、シャンティリオンの魔剣が怪物の下腹に突き刺さった。

 怪物は左手でシャンティリオンをはね飛ばした。


 だが怪物は、それ以上のことはできない。

 立ったまま、身をよじって苦しんでいる。

 そうだ。

 そうだ、今こそ。

 腐り蛇の毒が。

 突き立てられた矢が。

 ゴーズが、カーズが、シャンティリオンが与えた痛手が。

 この怪物を苦しめ、殺そうとしている。


 あとになって、バルドは想到した。

 ルグルゴア将軍の勁悍けいかんさは、五体の神霊獣を取り込んだことによる。

 改良クロスボウによって射ち込まれた二十本の勁矢けいしを食い止めたたい頑丈がんじようさも、そうである。

 光弾を放ち、光の津波を巻き起こし、剣に必殺の威力を与えるのもそうである。

 だがそれは、おのれの内にある神霊獣の霊力を引き出すことによって生まれる攻撃力であり防御力である。

 だから完全に不意を突く攻撃が決まったとき、さしもの怪物も無敵ではいられなかったのだ。

 バルドが古代剣で怪物の中に蓄えられた霊力に蕩揺とうようを与えていたこともまた、ゴーズの一撃に戮力りくりよくしたかもしれない。


 突如、地響きが聞こえてきた。

 ルグルゴア将軍が危地に陥ったことを知り、シンカイの騎馬軍団が突撃してきたのだ。

 呼応するようにシーデルモントの号令が響き、連合軍も突撃を開始した。

 連合軍の最前列には、突撃槍を構えた騎士たちが並んでいる。

 この武器ならばシンカイ軍の長柄武器に、間合いで負けることはない。

 その衝撃力たるや戦慄せんりつすべきものだ。

 ゴーズ・ボアもこの一員であったのだ。


 両軍合わせて千五百を超える騎馬が怒濤の突撃を行うのである。

 その轟音は地を崩すかと思われるほどだ。

 だが互角のぶつかり合いにはならない。

 シンカイ軍の狙いは、ルグルゴア将軍を逃がすという一事にあるからだ。

 ほどなく、連合軍はシンカイ軍を追い立てて、北の方角に走り去っていった。






 5


 勝った。

 物欲将軍を、倒した。

 あの傷では助からない。

 腹の傷は腐りやすい。

 まして臓物をかき破ったのだから、助かる見込みはない。

 右手を失った今、最後のあがきも怖くはない。

 追え、追え、シーデルモント。

 やつらをこの地から追い払え。


 と、一騎の騎馬がやってきた。

 ゴーズ・ボアが戻って来たのである。

 今にも倒れそうなバルドであるが、殊勲の勇士にせめて一声掛けてやろうと、気力を振り絞って意識をつなぎ止めた。


 ゴーズが近づいてくる。

 近づいてくるその姿を見て、バルドは掛ける声を失った。


 左腕が、ない。

 盾と一緒に吹き飛ばされたのだろう。

 兜も取れて、素顔をさらしている。

 その顔の半分がえぐり取られている。

 左目と脳みその左半分を、この男は失った。

 その状態で、人間は生きていることはできない。

 バルドの前で、馬は止まった。

 ゴーズは残った右目でバルドを見て、にこりとほほえんだ。

 ほほえんだようにみえた。

 そしてそのままぐらりと馬から落ちた。


 バルドの体も倒れかけて、誰かに支えられた。

 ジュルチャガだ。

 バルドは呆然と、地に倒れたゴーズを見つめた。


 そこに一人の娘がやって来た。

 農民だろう。

 その娘はゴーズのそばにひざまずき、開いたままの右目を閉じさせた。

 そして両手でゴーズの血まみれの頭を抱き、泣いた。


 この娘は、マルチェではないのか。

 わけしらず、バルドはそう思った。

 マルチェはロカルという村の少女だ。

 十年ほど前ゴーズはその村を敵から守り、少女に感謝された。

 だが半年後には、恐ろしい疫病に冒されたその村を焼き払い、住人を皆殺しにした。

 マルチェという少女もそのとき殺してしまったはずだと、ゴーズは言っていた。

 だが、死んでいなかったのだ。

 ゴーズのことが心配でならず、この恐ろしい戦場にやって来たのだ。


 突然、バルドの中でどす黒い感情が膨れ上がった。

 自分自身で驚いて、その感情の正体を見極めようとした。

 なんとそれは嫉妬であった。

 バルドはゴーズがねたましくて仕方がないのだ。

 誰も倒せなかった敵を倒して国と王と民を守り、いとしい人の腕の中で息絶える。

 騎士としてそれ以上の死に方があるだろうか。

 死に損ね、老醜をさらして生き永らえている自分と、何という違いか。

 だからゴーズがうらやましくてうらやましくて仕方がないのだ。

 そんな自分にあきれながら、バルドは意識を手放した。






 6


 少女はやはりマルチェだった。

 ジュルチャガが、マルチェやゴーズの従者たちから何かと聞き出してくれたおかげで、バルドは目を覚ましたあとにそれを知ることができた。

 村がゴーズ率いる領主の兵に焼き払われたとき、マルチェは近くの村に嫁いだ姉を訪ねていて留守だった。

 初めは村が焼かれ皆が死んだことに衝撃を受け、悲しくてしかたがなかった。

 だが村を焼いた指揮官がゴーズだと知って、別のことが気になった。

 あの優しい騎士様は、心を痛めているに違いないと。

 そうではないのだと伝えたかった。

 素早い処置のおかげで、死灰病は広がらずにすんだ。

 姉の嫁ぎ先の村も、そのほかの村も無事だった。

 だから感謝しているのだと、恨んでなどいないのだと伝えたかった。

 それで数年後、ゴーズに会いに領主の住む街に行った。

 だがゴーズは別の領地を治める伯爵の養子になっていて、もうそこにはいなかった。

 もう少し大きくなってからその伯爵の治める街を尋ねたが、あいにくゴーズは留守だった。

 それから三度尋ねたが、いつもゴーズは留守だった。


 実はゴーズは留守にしていたわけではなかった。

 伯爵が、村娘をゴーズに会わせないよう家臣たちに命じたのだ。

 これを聞いたバルドは伯爵のやり方に怒りを覚えた。

 だが考えてみれば、皆殺しにした村の生き残りが会いに来たのだから、会わせないというのは伯爵の優しさであったかもしれない。


 今回、ゴルト平原に国中の騎士が集まってシンカイ軍と戦うといううわさを聞いた。

 それならゴーズも来るかもしれないと思って、危険だから行くなという姉の制止を振り切って、両軍が見える場所まで出てきたのだという。

 そうなのだ。

 マルチェの住む村はここから近い。

 滅びてしまったロカルの村も、このゴルト平原の一角にあったのだ。

 ゴーズ・ボアは満足して死んでいったろう、とバルドは思った。

 今度こそ、守るべきものを守れたのだから。


 ジュルチャガは、吹き飛ばされた兜に取りつけられていた花筒を外してマルチェに渡した。

 その由来を聞いたマルチェは新しい涙をこぼし、花筒を抱きしめた。

 ゴーズの従者たちは、それをとがめようとはしなかった。

 ゴーズの亡きがらや武具は従者たちが運んでいったが、なぜか左腕が残された。

 マルチェはそこに穴を掘ってゴーズの腕を埋め、石を積み上げて墓標とした。

 そして花筒の中に残されていた花を供えた。

 シャンティリオンとアーフラバーンは追撃軍のあとを追って行き、残ったカーズとジョグとキリーは墓標に黙祷を捧げた。


 戦いからしばらくして、季節はずれの長雨が降り、戦いのあともゴーズの墓標も押し流してしまった。

 不思議なことに、殺風景だったその場所は草地となり、色とりどりの花を咲かせるようになった。

 誰いうともなくその場所は、マルチェの花畑ヒルプリマルチェと呼ばれるようになった。






 7


 逃げるシンカイ軍を追い、連合軍はカッセの街を解放し、そのままファーゴとエジテを奪取した。

 シーデルモントはそれ以上の追撃を禁止したが、少なくない諸侯がシンカイ軍を追った。

 シンカイ本国が極めて豊かな国であることは間違いなく、その富を切り取らんとしたのだ。

 だがかの国の底力は恐るべきものであり、深追いした諸侯は手ひどい反撃を受けた。

 ルグルゴア将軍を捕らえ殺すことはついにできなかったが、多くのシンカイ将兵を討ちあるいは捕らえた。


 ゴリオラ皇国に侵攻してコブシの城に立てこもっていたバコウ将軍は、城を捨てて引き上げた。

 夜のあいだに突然城を去ったその脚退きゃくたいの鮮やかさに、ゴリオラ皇国の将たちは、怒るより感心した。


 パルザム王ジュールラントは、前王ウェンデルラントの死はシンカイ国の陰謀の一部であり勝利によりその無念は果たされたと布告し、葬儀を執り行った。

 また、ロードヴァン城をゴリオラ皇国に譲渡し、ガドゥーシャ辺境侯マードス・アルケイオスをファーゴに移封した。

 同時に王領としたエジテの統治代行を命じ、新たに鎮西侯の栄職を設けてマードスをこれに任じた。

 王を守り抜いて死に、またシンカイ軍についての有用な情報をもたらしたザイフェルトについては、他の功績とも合わせ、死後ながらその位階を伯爵から侯爵に進めた。

 そしてその長男に侯爵位を継がせ、やはり王領としたカッセの街の執政官に任じた。

 若い執政官であるが、ザイフェルトが育てた優秀な家臣団がその任務をたすけるだろう。


 ジュールラントはまた、勲功の第一等はバルドとしたが、王国の騎士ではないため、賞詞と恩賞金以外の褒賞はないものとした。

 勲功の第二等はゴーズである。

 王宮の広場には石碑が建てられ、爵位が授与され、養父である伯爵には恩賞金が下賜された。


 結論がなかなか出なかったのが、捕虜の扱いである。

 一般兵については一定年限の奴隷労役で問題ない。

 鉱山などで無給の重労働をさせるのである。

 参戦した諸侯にも恩賞の一部としてそれぞれ下げ渡す。

 問題は将軍たちの扱いである。

 一般兵と彼らを一緒にすると扇動して反乱を起こしかねない。

 隙を見せればあるじを殺して逃げ出す力を持った奴隷であり、反抗する気持ちも強いから、ひどく使い勝手の悪い奴隷となることは明らかだ。

 かといって、見張りを付けてただ捕らえておくだけでは、やたらと費用ばかりがかかる。

 殺すほかないという方向に議論が向いたとき、シーデルモントが異見を唱えた。

 許して解放しましょう、と。


 将軍たちは彼らの国では勇士であり英雄である。

 英雄を助ければ恩を売ることができるし、殺せば恨みを買う。

 シンカイがこのままおとなしくしてくれるなら問題はない。

 だが再び諸国に牙をむいた場合、どうなるか。

 その場合、恨みに燃えて復讐をしようとする敵と、恩を与えた敵では、どちらがよいか。

 そう考えた場合、何の条件も付けずに解放することが、もっともよい。


 この意見が採用された。

 捕らえた将たちは馬と食料を与えて解放し、伝言をことづけた。

 身代金は要求しないが、この戦争で負けたことを認めるなら形で示せ、と。

 やがてシンカイから大量の金塊が届けられた。

 シンカイはまったく交渉に応じようとしないので、終戦の申し合わせもできず困っていたのだが、この金塊を賠償金と見なして終戦が宣言された。

 金塊は諸侯にも分配され、一般兵捕虜の奴隷労役は十五年から十年に短縮された。


 パルザム王宮の重臣のうち二名がシンカイ国と内通していたことが分かった。

 シーデルモントは、この二人を活用するべきだと主張した。


「彼らは、まったく国交のないパルザムとシンカイのあいだをつなぐ細い吊り橋のようなものです。

 旧悪を許して彼らを用いれば、パルザムの様子もかの国に伝わるでしょうし、かの国の情報もいくばくかは得られましょう。

 彼らを誅殺ちゆうさつしてしまえば、両国のあいだには断絶だけが横たわり、いたずらに疑心暗鬼を募らせることになります」


 だが、この意見は入れられず、内通した重臣二人は自殺を強要され、家臣たちもころされた。


 この戦争は中原のほとんどの主要国が直接関わることになった歴史上初めての戦であるから、諸国戦争と呼ばれる。

 三年後の戦役と区別するため、第一次諸国戦争と呼ばれることもある。






(第5章「諸国戦争」完)2013.7.1〜2013.8.25

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