第5話 マヌーノの女王

 1


 上から何かが落ちてきた。

 バルドの頭をめがけて。

 カーズが抜く手も見せずに魔剣を一閃させ、落下物を斬り裂いた。

 トゲムツデだ。

 カーズのおかげで溶ける液を頭にかぶらずに済んだ。

 それはいいのだが、飛び散った体液が肩にべっとり掛かった。

 まったく樹海というのはいやらしい所だ。


 ロードヴァン城から樹海までは三十日ほどで着いた。

 体調は思ったよりよく、カーズとの二人旅は驚くほどはかどった。

 何よりユエイタンとサトラが疲れ知らずの疾駆をみせた。

 トライのみなとには、すでに新たな住人が住み着いて、ちょうど対岸のヒマヤから到着した船の荷を下ろしていた。

 バルドの顔を知った者がいなかったようなので、これ幸いと食料だけを買うと、そのまま川沿いに北上したのである。


 トゲムツデというのは、バルドが勝手にそう呼んでいるだけのことで、本当の名は知らない。

 まるで六本指の巨人の手を手首から切り落としたような姿をしており、極彩色のトゲに覆われているのでそう呼ぶことにした。

 一見、高い高い木の枝に成ったとげ付きの木の実のようにみえる。

 実際にはこれは生き物で、木の実に見えるのは擬態である。

 獲物が下を通れば落下してくる。

 そして体をばくりと開く。

 ちょうど巨人が握り拳を開いたように。

 そしてぬめぬめとしたいやらしい体で獲物に取りつき、じわじわと体が溶ける液を出して相手を溶かし、食っていくのである。

 振り払えばよさそうなものだが、どうもトゲムツデの出す溶解液には瞬間的に相手をしびれさす効果があるようだ。

 目の前で大きな猿が食われているのを目撃したが、けいれんしながらも体を動かせないでいた。

 生きながら溶かされて食われるというのは、ぞっとしない話だ。


 この樹海というのは、こうしたおぞましい生き物でいっぱいだ。

 しかも足場がじめじめしており、所々では急に体が沈んだりする。

 今もしかたなく馬から下りて歩いている。

 奥に踏み込んで生きて帰った者はないといわれる秘境である。

 もっともこんな辺鄙へんぴな場所にあるすこぶるつきの不気味な場所を訪れるような者はめったにいない。

 その樹海を、バルドはひたすら奥に進んでいる。

 はっきり当てがあるわけではない。

 マヌーノの女王の居場所を正確に知っている者などいないのだ。


 2


 マヌーノは、他の多くの亜人たちと違い、部族を持たないようだ。

 全員が一つの集団なのだ。

 その集団を統括するのが〈女王〉と呼ばれる存在である。

 パルザム王宮で調べた資料を信じるとすれば、すべてのマヌーノは女王の子である。

 女王がその内容は秘匿されているところのおぞましい行為の果てに、ヤンバカルパの巨樹に巻き付き、無数の卵を産み付ける。

 そうしてマヌーノが生まれる。


 マヌーノはすべて女である。

 いや、この言い方は正しくない。

 人間でいえば女にみえるような姿をしている。

 マヌーノ同士は結婚もしないし子もなさないのだから、男は必要ないのだが、それでいえば女も必要ない。

 ただマヌーノの姿は、乳房にみえる器官もあり、髪の長い女にみえるような頭部をしてもおり、人間からみれば女にみえるのだ。

 といってもバルド自身はマヌーノを見たのはロードヴァン城での防衛戦が初めてだったし、ずいぶん遠くから見たので、はっきりした姿など分からなかったが。


 マヌーノたちがどれほど遠くにいても、女王は命令を伝えられるようだ、と資料にあった。

 そう思うほかない出来事があったのだろう。


 人間がマヌーノを嫌悪し恐れる理由は、しかしこうした奇怪な生態にあるのではない。

 ありとあらゆる生き物は、マヌーノの邪眼ににらまれたら身動きができなくなる。

 そしてマヌーノの命令通りに動く人形になってしまう。

 そのくせ自分自身では支配されているとも気付かず、いつも通り自分で判断し行動していると思い込む。

 古来からいわれる、この奇怪極まる能力が、人間をマヌーノから遠ざけてきた。

 幸いなことに、マヌーノのほうでも縄張りを侵さないかぎり、人間に敵対することはない。

 だから人とマヌーノは、もう何百年もお互いに干渉することなくやってきた。

 そのはずなのである。


 だがマヌーノは、今回人間を襲った。

 あの戦場で見た光景は、マヌーノが魔獣たちを操り人間を襲わせたとしか思えないものだ。

 グリスモ伯爵の供述でも、マヌーノが魔獣の軍団を調えている、とあった。

 なぜマヌーノはそんなことをしたのか。

 それをどうしても知りたいと、バルドは思った。

 知らなければならないと思えるのだ。


 そしてまた、マヌーノに生き物を支配する不思議な力があるというのが事実であるとすれば。

 それは人間にも有効なのではないか。

 自分の意志で王に毒を盛ったといいながら、その理由を説明できない侍医。

 ジュールラントを襲っておきながら、敬愛の心は失っていないという伯爵。

 それはまるで誰かに意志を支配され、記憶を操られてでもいるかのようだ。

 彼らの行いに、マヌーノの不気味な能力が何か関係しているのか。


 そしてまた、あのあまりにも多すぎる魔獣の大群。

 あれはどこから連れてきたのか。

 同じような群れがどこかに潜んでいるのか。


 こうした疑問は、放置しておいてよいものと思えない。

 だからバルドはマヌーノの女王に会うことにしたのだ。

 質問をすべき相手がいるとすれば、それはマヌーノの女王のほかにない。


 3


 今日は四月十二日だとバルドは思っていたが、カーズは十一日だという。

 こういうことは、旅をしていればよくある。

 辺境では、村が丸ごと日にちを勘違いしていた、ということも珍しくはない。

 たぶんカーズのほうが正しい。

 体もまだ少しふらふらするし、頭にも薄いもやがかかったような状態だ。

 自分よりはカーズのほうが当てになる。


 ここにはジュルチャガはいない。

 ジュルチャガには別の命令を与えた。

 テューラとセイオンの調査だ。

 両方の国の都がどうなっているか、それを調べに行かせた。

 一介の盗賊に対して少し無理な命令かもしれない。

 できる範囲で構わないから調べて来てくれと頼んだ。

 とにかく信頼できる情報が少なすぎる。


 本当にテューラとセイオンは、シンカイの武力に屈したのか。

 屈したとして、シンカイは大した戦力を残していないと思われるのに、なぜ唯々諾々いいだくだくと支配下に置かれているのか。

 シンカイがいかに大国であっても、ゴリオラ、ガイネリア、パルザムの三方面で同時に侵略戦を行うとすれば、テューラやセイオンに大軍を置けるはずがないのである。

 置こうとはしないはずだといってもよい。

 侵略は少数精鋭でできることもある。

 相手の虚を突けば、それは可能だ。

 しかし反乱反抗を押さえて支配を続けるには膨大な兵力がいる。

 新たな政治を行い、徴税や住民の管理を行うとすればなおさらである。

 いったいそこはどうなっているのか。

 現状がどうなっているのかを調べておかなければ、ここから先の展開を予想することができない。

 正しい知識に基づく予想こそが、効果的な対応を可能にするのだ。

 テューラとセイオンの真実を知ること。

 これが先決である。


 4


 体に張り付いたヒルをはがしながら、沼の横を通り過ぎようとした。

 カーズが立ち止まって沼の中心を見ている。

 それに気付いてバルドも立ち止まった。


 濁った水から何かがぬうっと出てきた。

 人の頭だ。

 頭部が水の上に出て、そして目が水の上に出た。

 小さな目だ。

 まっすぐバルドのほうを見ている。

 そのままこちらにゆっくりと近づいて来る。

 静かに波紋を描きながら。

 そして岸辺近くまで来て止まった。


 ざわざわ。

 ちゃぷちゃぷ。


 水を揺らしてそれは体を持ち上げた。

 小さな小さな顔だ。

 幼い少女の顔だ。

 長い髪は水にぬれてべっとりと顔に張り付いている。

 鼻は小さい。

 口も小さい。

 その次にはあごと首が現れると思ったバルドの予想ははずれた。

 あごや首と呼べるほどではないわずかなくぼみがあり、肉色の体はそのまま下に続いている。

 やがて二つの乳房が現れた。

 乳首はない。

 妙に淫靡いんびなふくらみである。


 人間に似ているのはそこまでだった。

 その下には長い長い体が続いており、それは蛇のようなうろこに覆われている。

 マヌーノである。


 マヌーノは、バルドの腹辺りの高さまで頭を持ち上げると、そこで水から体を突き出すのを止めた。

 バルドとの距離は十歩もない。

 こうして近くから見てみると、マヌーノの顔は人間よりずっと小さいことが分かる。

 少女というより幼女というべきか。

 どうしてこんな奇怪な生き物が生まれたのかと考えたが、もしかしたらそれはあちらの台詞かもしれない。


 人間であれば腕があるはずの位置にあるものを、マヌーノはじゃばりと広げた。

 それは翼、いや魚のひれに似ている。

 こうもりの羽にも少し似ているかもしれない。

 半透明の膜の中に細い血管のようなものが葉脈のように走っている。

 魚のひれであれば骨がある部分には奇怪な触手のようなものが通っており、最上部の太い触手は先端部で幾本にも分かれてうねうねとうごめいている。


《人間》


 バルドは、はっとした。

 頭の中に、声のようなものが聞こえたのである。

 耳に聞こえるのは、しゅわりしゅわりという不気味な音だけであり、この声は口から発せられた言葉ではない。


《人間。

 われはお前を知っている》


 バルドは口に出して、お前はマヌーノか、と訊いた。

 それは通じたようで、奇怪な蛇女の亜人は、


《そうだ》


 と答えを返してきた。

 バルドは続けて、ではお前がマヌーノの女王か、と訊いた。


《ちがう》


 とそれは答え、こう続けた。


《お前はわれと仲間に与えられた呪縛を解いた。

 お前は女王の呪縛も解けるかもしれない。

 ゆえにわれはお前がわれらの国に足を踏み入れるのを許そう。

 女王の寝所に向かうのを許そう》


 そして、右のひれを畳み、左のひれで、ある方向を指した。

 バルドはその方向を見た。

 何があるというわけでもなく樹海が続いている。

 この方向に進めばよいのだろうか。

 振り返ると、すでにマヌーノは沼に沈み始めていた。

 バルドははっとして、待てっ、訊きたいことがある、と言った。

 だが、マヌーノは、


《急げ。

 長くは抑えられぬ》


 と言い残し、そのまま沈んでいった。

 見る間にその姿は水に没し、水面に残った波紋だけが、今の邂逅かいこうが現実の出来事だと告げている。


 バルドとカーズは、教えられた方角に進んだ。

 それからも水辺を通るときには何度もマヌーノが現れ、進むべき方向を教えてくれた。

 歩きながらバルドは、マヌーノの言葉を反すうしていた。


  お前はわれと仲間に与えられた呪縛を解いた。

  お前は女王の呪縛も解けるかもしれない。


 バルドがマヌーノたちの呪縛を解いたという。

 そういわれて思い出す光景がある。

 古代剣から流れ出た光の奔流が魔獣の群れを打ち据えたときのことだ。

 あのあと、かすれゆく意識の中で、不思議な光景を見たような気がする。

 押し寄せる川熊の魔獣たちの体から、何か光の塊のようなものが飛び出して天空遙かに舞い昇っていった。

 そんなものを見たような気がするのだ。

 頭痛と耳鳴りと体中の痛みとだるさの中で精神が焼き切れる寸前の幻のような光景であるから、確かなこととはいえない。

 しかし、そんなものを見たような気がする。

 空を舞う何百という光の生き物。


 だがそのことと、マヌーノたちの呪縛を解いたということは、どうつながるのだろう。

 ジュルチャガのいうところでは、古代剣からあふれた光はマヌーノたちにも届いていたというが。

 バルドは死んだ先代ゼンダッタの言葉を思い出した。

 古代の魔剣は神霊獣が宿る剣である。

 神霊獣はそれぞれ姿形も能力も違う。

 だから本当の魔剣は、それぞれ固有の力を持っているといわれる。

 そうゼンダッタは言った。


 この古代剣には。

 わしがスタボロスと呼ぶこの鉈剣には。

 魔獣の呪いを解き、マヌーノたちを縛る呪いを解くような力があるのか。

 そんなことを考えながら樹海を進んだ。


 樹海に入ってから十二日目、つまり四月十六日、バルドたちはマヌーノ女王のもとに着いた。


 5


 奇怪な形をした樹木がもつれ合って空を覆っている。

 樹海の奥まった場所は、地の底に降りてきたかのように薄暗くて不気味だ。

 鳥や獣の声も、聞いたこともないような種類のものばかりで、ひどく陰鬱に響く。

 これほど日当たりが悪ければ下草は育ちにくいはずなのに、足元に絡みつく草の多さは何としたことか。


 もうその場所が近いのだと、誰に言われずとも知ることができた。

 じゃぶじゃぶ、ちゃぷちゃぷと水をかき分ける音に混じって、無数のうめき声のようなものが聞こえる。

 甘い腐臭と禍々まがまがしい気配は、一足ごとに強まってゆく。


 突然。

 視界を覆い尽くして乱立していた木々が途絶え、ぽっかりと開けた空間が目の前に現れた。

 あおくらい湖である。

 ここまでに遭遇した池がみなどろどろの沼であったのに対して、この湖は異様なほど美しい。

 ただし澄み切った水ではなく、鮮やかな染料を溶かし込んだような色の水である。

 そして対岸には巨木というのもおろかしいほどの巨木が、幹の部分をぽっかり開けて立っている。


 いや。

 いや、そうではない。

 見ているうちに気が付いた。

 その巨大な木は。

 神話の巨鳥の宿り木のようなヤンバガルパこそは。

 この湖であり、この森そのものなのだ。

 小さな村ほどの太さのあるヤンバガルパの根元にできたうろ

 その洞にたまった水が、すなわちこの湖なのだ。

 そして巨木が四方に伸ばした根の表面が腐ったものこそが、今バルドたちが歩いてきた泥のような腐葉土のような不思議な感触の大地なのであり、そこに生えた苔であり草であり木であったのだ。

 まさか樹海の全体がこの老いたるヤンバガルパで出来ているとは思わないが、ここ数日歩いたのはこの巨木の身体の上であったに違いない。


 深い深い青くて赤くて緑色の、澄んでいるのに淀んだ水には、何百何千というマヌーノが上半身を突き出している。

 彼女たちは同じ方向を向いている。

 ただ一つの方向を向いている。

 彼女らの父にして母胎なるヤンバガルパのうろの中央を向いている。

 そこには一人の巨大なマヌーノがいる。

 〈女王〉であろう。

 彼女らすべての頭から伸びる髪は、ツタが巨木に向かって伸びるように、〈女王〉に向かって伸びている。


《早く》

《早く》

《女王のもとに》


 と、耳の中に声がする。


《人間よ》

《急げ》

《女王を》

《とどめられる時間は》

《あとわずか》


 と、声はバルドをせきたてる。

 しかしどうやって女王の元に行けばよいのか。

 この湖に足を踏み込んだならば、バルドの体はそのまま沈んでしまうだろう。

 だが、ええい、ままよ、とばかりにバルドは一歩を踏み込んだ。

 すると蒼く濁った湖の表面に何かが浮いてきた。

 鱗に覆われた、ねとねとした何か。

 おそろしく長い何かがうねうねと絡み合いながら、水面に浮いてきた。


 マヌーノだ。

 かのおぞましい蛇妖たちが体を寄せ合って浮き橋を作っているのだ。

 バルドは足をその異形の橋の上に置いた。

 体は水に沈むこともなく支えられている。


 見る間に。

 蛇妖たちの胴がうぞろうぞろとよじれながら、水上の道を形作っていった。

 この見るもおぞましい桟橋を、ちゃぱりちゃぱりと水を踏みしめながらバルドは進んだ。

 足を下ろすたびに、その感触の不快さにぞわりとした悪寒が背筋を走る。

 カーズはと振り返れば、二頭の馬とともに傍観者になり果て、湖の中に踏み込もうとせず静かに立っている。

 中ほどまで進むころには、緊張感からか足首から下がしびれてきたように感じた。

 それでもバルドは前進した。

 ここまで来たのは途中でおじけづいて引き返すためではない。

 そう自分に言い聞かせながら前に向かって足を運び続けた。


 近づくにつれ、女王の姿がはっきりしてきた。

 それは巨大な銀髪の美女である。

 これはもう、女に似た姿などというものではない。

 今まで見たどんな美女にもまさる、美しくみだらな理想の佳人である。

 ただしその肌の色は死人しびとのように白く、蝋のように冷たい質感である。

 つぶらな瞳はかえるの卵のように透き通っている。

 長く豊かな銀髪は体の後ろにざわざわと流れ。

 薄紫の乳首を持つたわわな双丘は、画家たちにため息をつかせるほどの造形の妙をみせ。

 体の両横に広げられた水の翼は不思議と体軀に似合って美しさを引き立てている。

 その眉と口と形のよいあごは、怒りに震えている。


《おおお》

《おおお》

《いまいましい》

《いまいましい》

《なにゆえに》

《なにゆえに》

《わらわにこのような》

《このようないましめを》


 いましめ、とはその体中に突き刺さるマヌーノたちの髪の毛だろうか。

 いや、それは髪の毛ではない。

 おそらく獲物に刺し込まれて麻痺の毒を送るとげのようなものなのだ。

 その黒く長いとげは、女王の近くでは透明な色に変わっている。

 湖のあらゆる所から伸びてきた無数の髪の毛は、すべて女王の体に深々と刺し込まれているのだ。

 顔といわず、首といわず、乳房といわず、そしてへそから下の鱗に包まれた下半身といわず。

 巨大な身体のありとあらゆる場所に、それは打ち込まれている。


 しかしよく見れば、女王を束縛しているマヌーノたちは苦しげだ。

 身をよじり必死に耐えているが、この状態を長く続けられないことは明らかだ。


 バルドは古代剣を抜いた。

 この前この剣の力を解放したときは、二か月にわたり意識を失うことになった。

 その危険は今もある。

 だがやってみるしかない。

 バルドはよどんだ空気を大きく吸い込んだ。

 吸い込んだ空気が喉と肺腑をちりちりと焼き全身が不快感に包まれる。

 それに構わず古代剣を前に向かって突き出すと、声に出して叫んだ。


  スタボロス!


 するとあのときと同じようにまぶしい光が古代の魔剣を包んで現れ。

 一瞬あとにうねる光弾が発せられ、女王の体に命中して光の瀑布となって流れ落ちた。

 バルドは意識が遠くなるのを感じたが、必死で踏みとどまった。

 幸いにも今度は倒れて気絶することなく、おのれを保つことができた。

 だが脱力感の強さはただごとではない。


 気が付けば、ほんの目と鼻の先、十歩と離れていない場所に女王がいた。

 目は落ち着いた黒色になっている。

 髪の毛も黒色になっている。

 肌の色もやや血の気を取り戻したかのように色づいている。

 マヌーノの血の色が人間と同じというわけでもないのだろうが。

 自分を見下ろす巨大な美女の目を、バルドはまっすぐに見つめ返した。


《まさか人間に救われることになるとはのう》


 その声に似た何かは、バルドの頭の中で強く強く鳴り響いた。

 あまりの力強さに苦痛さえ感じた。


《あの腐れトカゲには、いずれ相応の報いをくれてやらねばならぬ》

《だがその前に、わらわは休まねばならぬ》

《人間よ、名は何という》


 バルドは声に出して名を告げた。


《んむ》

《人間ばるどろえん》

《今は去れ》

《いずれ礼はする》

《とどまればお前を殺してしまうだろう》


 その前に教えてくれ、とバルドは言った。

 マヌーノはこれからも人間を襲うのかと。

 この質問に女王は苦々しい表情を浮かべて答えた。


《こたびのことはわらわのめいによって行われた》

《だがそれはわらわの意志によるものではない》

《二度とわらわが人間を襲うことはない》

《ただしわらわの土地に踏み込んだ人間は殺す》


 この場合「わらわが」というのは「マヌーノは」という意味なのだろう。

 バルドは続けて聞いた。

 今何者かに操られている人間がいるようなのだが、それはマヌーノのしわざなのかと。


《それはわらわのしたことではない》

《わらわは人間を凍り付かせることはできるが》

《自在に操るような力はない》


 さらにバルドは、魔獣はまだいるのか、あれほど多くの魔獣はどこからきたのだ、と聞いた。


《まじゅう、とは憎しみの精霊の宿る獣のことか》

《それはもういない》

《あれだけの数を用意するにはひどく長い時間がかかる》

《作り始めたのはパタラポザの暦で二晩も前のことであった》

《いずれにしても石はトカゲが持ち去った》

《もうわらわがあれを作ることはない》

《去れ! 人間ばるどろえん》


 女王の顔が変貌した。

 口は醜く裂け、長い牙をみせながら、くわっと開かれた。

 頬にはうろこが浮き出している。

 目は真っ赤に染まり。

 顔や胸に血管が浮き出し。

 全身から怒りの波動を噴き出した。


 バルドは思わず一歩後ずさった。

 と、足元の感触がおかしい。

 蛇女の体で組み上げられた桟橋が水に沈みかけている。

 バルドは振り向いて走った。

 目の前で、どんどん橋がほどけていく。

 蛇が水に散っていくように。

 走りながらバルドは見た。

 マヌーノの下半身は鱗に覆われているが、さらにその先では無数の鞭のようなものに分かれている。

 それはあるときにはねじり合い、あるときには分かれてうねる。

 今バルドの目の前で、無数のマヌーノが下半身を寄り合わせて作った橋が、ほどけて分かれ、水の中に藻のようにただよっていく。


 駆けて駆けて、ようやく岸にたどり着いたときには、もう膝の上まで水につかっていた。


 振り向いてみれば、女王の体に再びマヌーノたちの髪が突き立っている。

 女王は怒りもあらわにそれをふりほどこうとしている。

 ふりほどこうとしながら、徐々に徐々に、女王の体は水に沈んでいく。


 バルドはひどく体の調子がおかしいのに気付いた。

 目がくらくらし、汗が噴き出し、悪寒がする。

 体は重く、手足はしびれたように動かない。

 そこでバルドの意識は途絶えた。

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