第7話 オーヴァを越えて
1
ボーバード領を北に迂回してハベル街道に出る道を通ることになった。
ハベル街道は、ボーバード領主が作った輸送路だ。
もとはボーバードの特産品をゴリオラ皇国に届けるのにヤドバルギ大領主領を抜けていたが、山や森や川があって時間がかかるうえ、嫌がらせのような通行料を取られるため、北の平野に道を整えたのだという。
水がやや補給しにくいのと賊が出る難点はあるが、馬さえあれば驚くほど少ない日数でオーヴァに着ける。
ボーバードを通れば面倒なことになるので、野営が続いてよいから迂回したい、とドリアテッサは言った。
聞いてみればよく分かる話だ。
代々のボーバード領主は、ゴリオラ皇国の貴族に叙されることを悲願としてきた。
経済力を充分に養った今は、何としてもつてが欲しいところだ。
そこに皇国の高位貴族の娘が突然やってきたのだ。
何としても引き留めて歓心を買おうとするだろう。
しかも、その娘は、独身で、妙齢で、とびきりの美人だ。
ボーバード領主が何を考えているか、想像するまでもない。
おそらく行きがけにも、何かドリアテッサがげんなりするような「歓待」があったのだろう。
いや、待て。
わしがボーバード領主なら、どうする。
ドリアテッサ殿の護衛をすべき部隊が壊滅に近い状態で引き上げたことは、耳に届いておるじゃろう。
ということは、近辺の村にも何らかの指示が出ており、斥候も派遣しておる、とみたほうがよい。
バルドはそう考え、ジュルチャガに、しばらくのあいだ人目を避けて移動したいので注意するよう頼んだ。
また、目立たないよう塩とできれば酒を買ってくるよう頼んだ。
ジュルチャガは、持ち前の飲み込みのよさを発揮して、にっこりうなずいた。
その後二度、兵士の巡回に出遭ったが、ジュルチャガがいち早く発見したため、気付かれずにやり過ごすことができた。
村もなく人通りもないこんな所を巡回するのは妙なことだ。
やはり狙いはドリアテッサなのだろう。
2
「ドーラって、シェルネリア姫様の結婚が決まったら、王宮の勤めをやめるんだよね。
そのあと、どーするの。
お嫁さんに行く?」
「普通ならそうだ。
私の年で婚約すら決まっていないというのは珍しい。
だが父上は、私が家を出ることをお許しくださっている。
子爵位を継がせてくださったのは、そういう含みなのだ。
私は、自ら立つ者になりたいのだ」
「それって、結婚しないってこと?」
「いや。
そういう意味ではない。
それどころか、子爵領を統治するには、どうしても夫を迎えねばならん。
わが国では女も領主になれるが、それはまったく形式だけのことでな。
家の当主は男でなければなれない。
女では他の貴族や商人たちと交渉することもできない。
ただ、他家に嫁ぐのと、わが家に夫を迎えるのでは、私の自由にできる範囲が大いに違う。
まあいずれにしても結婚はしなくてはならないが、今のところ夫になり手がないのだ」
「ええええっ?
こんなにめんこくって、気立てがいいのに?
ドーラの国の男たちって、見る目がないにもほどがあるよっ。
なんだったら、おいらがお嫁さんにしてあげようか?」
「はははは。
それはありがたいな。
そのときにはよろしく頼む。
いや。
今まで話がなかったわけではないのだがな」
よくもこんな質問を堂々とするものだと、バルドはジュルチャガに感心した。
まったく邪気が感じられないのがこの男の強みだ。
それが情報収集を助けている。
「それにしても、バルド殿の弓の腕には恐れ入った。
まさか、魚を弓で獲っていたとは」
「おいしいよね、この魚。
脂がよく乗ってて。
ドーラ、知ってる?」
「うん?
何をだ」
「バルドの旦那はね。
食徳を持ってるんだ」
「食徳?
何だ、それは」
「バルドの旦那が行く所、うまい物あり。
たまたま寄った店でめったにない魚があったり。
たまたま材料を持ち込んだ店の亭主が料理名人だったり。
たまたまその料理を食べるのに、最高のときだったり。
たまたまお偉いさんの命を助けてごちそうしてもらったり。
とにかくね。
旦那といると、うまい物をおいしく食べられるんだ。
旦那の周りには気持ちのいいやつが集まるしね。
楽しい仲間と食べる食事は、また格別ってやつさ」
「食物の徳で、食徳か。
それはいい。
うん。
それはいいなあ。
みんなと食べる食事は、本当においしい。
私もずっと、みんなと旅がしたい」
聞きながらバルドは、どきりとした。
ひょっとしてジュルチャガは知っているのか、と一瞬思った。
だが、そういうわけでもないようだ。
横でゴドン・ザルコスが、わが意を得たりとばかりにうなずいた。
「おお!
旅はよいともっ。
最高じゃ。
わっはっはっはっはっ」
カーズは無表情のまま、切れ長の目を細め、湯気を立てている魚の背中にかぶりついた。
皆のくつろいでいる様子を見ながら、バルドは、
はて。
一人の人間として自立したいという気持ちは分からんでもない。
だが、高位貴族の娘にはそうとしての役割がある。
女の戦いの場は、男のそれとは違うものじゃ。
それなのに、父親も娘が家を出るのに協力しておるようじゃ。
何かがあるのう。
これほどの娘の縁談がまとまらんというのも面妖じゃ。
などと考えをめぐらせていた。
やがて一行は山岳地帯の端にたどり着いた。
眼下には、広大な平原が広がっている。
その向こうには、かすかに大オーヴァが見える。
さらに前方左側、つまり西には豊かな森がある。
そこにヤドバルギ大領主領があるのだろう。
だが、一行の目をとらえたのは平原でもオーヴァでもない。
五人は、みな、左を見ている。
果てしなく続く平原のその果て。
地平線のかなたに林も丘も消えていくその向こう側に。
土の巨人が顔をのぞかせている。
霊山フューザである。
まさに、威容。
まだ裾野の全容をとらえることができないほど遠いのに、この大きさは何としたことか。
青みがかって白くかすむ山腹には三筋の雲が掛かり、その雲を見下ろす頂は白い雪をまとって神々しく、美しい。
山や川はすべて神々のみわざだ。
大地の神ケッチャ=リは土を盛り上げ岩を突き固め、風の神ソーシエラは木々を吹き寄せ、太陽の神コーラマは温もりを注ぎ、水の神イーサ=ルーサは雨を降らせ川を作って大地を潤す。
生きとし生けるものすべて、日々の糧を神のみわざによらざるはない。
だが、この美しく恐ろしい山は、神のみわざなどではなく、それ自体が一柱の神だ。
そうとしか思えない。
すがれば護ってもくれるだろう。
怒らせれば国々さえ滅ぼされるだろう。
あの雲の中には諸国から飛んできた魂魄が集まっているのだろうか。
バルドは、いつの間にか涙をながしていたのに気が付いた。
その感動の冷えぬうちに、足元に生えていたソイ笹の葉をちぎり取って胸の隠しに入れた。
3
鍛錬を続けながら、旅は続いた。
幸い日数にはまだ余裕がある。
いまだにバルドには、女の身で武芸の大会などに出て、勝利を得たとしてそれに何の意味があるのか、よく分かってはいなかった。
だが、ドリアテッサがまぎれもなく剣の天分を受けた人間であることは、よく分かった。
そして、その身に許される限りの最大の努力を剣の鍛錬にそそいできたことも。
「えーっと。
結局、ドーラは、細剣部門と総合部門で優勝したいんだよね」
「うむ。
私は、その勝利を姫様に捧げる。
それと、実はな。
総合部門で優勝した者には、相手側の主催者から、褒美が出る慣例なのだ。
私は、その褒美が欲しい」
「品物もらうの?」
「いや、そうではない」
「じゃあ、願いを聞いてもらうのかなあ」
ドリアテッサは、まばたきしてジュルチャガを見た。
「……ジュルチャガ。
おぬし、鋭いな」
「え?
そうかなあ。
やっぱり?
えへへ」
願い。
ドリアテッサがパルザム王国側の主催者にする願いとは、何なのだろう。
4
ハベル街道に入った。
一行は、バルド、ドリアテッサ、ゴドン、カーズの順に並んで馬を走らせている。
山道では、
ジュルチャガはといえば、先頭に立って誘導したり、横や後ろに回って何事かを観察したり、時にはずっと先行して様子を探ったりしている。
馬の速度に合わせて走り続けるのは大変だと思われるのに、少しも疲れた様子をみせない。
足は素早く動いているのだが、まるで歩いているようにみえるのだからふしぎなものだ。
音を上げるどころか
じつにうれしそうな顔で話しかけてくるものだから、一同の雰囲気はなごやかだ。
ドリアテッサの装備は群を抜いて上質であるから、一行を見るものがいれば、白銀の騎士とその家臣たち、とみることだろう。
バルドとゴドンとカーズはおそろいのマントを羽織っている。
ジュルチャガは、クラースクの初代領主から自分がもらったマントを、「お兄ちゃんから弟への贈り物だーっ」と威張りちらしながらカーズに与えた。
ジュルチャガは常に身を軽く保っている。
機動性という最大の武器を失わないためだろう。
マントですらジュルチャガには邪魔なのである。
カーズは無言でマントを受け取り、以来愛用している。
その代わりというわけでもないが、カーズの馬には、ジュルチャガが山で見つけた薬草が積まれている。
ジュルチャガはバルドなど問題にならないほど薬草に詳しい。
そういえば、もともとこの男はしびれ薬を使う盗賊だった。
普段は最低限の薬草しか持たないが、あの山には見逃すには惜しい薬草がたくさんあったらしい。
後ろから騎馬が駆けてきた。
二騎だ。
速い。
ずっとあんな速度で馬を走らせ続けられるわけはないから、バルドたちを見つけて速度をあげたのだろう。
近くに隠れる場所もない。
バルドは少し進行速度を落とした。
不穏な成り行きになれば、振り切って走ればよい。
そのために、今は馬の足をためておくべきである。
と、ドリアテッサが大きな声を上げた。
「あれはっ。
ファファーレン侯爵家の陣羽織っ。
バルド殿。
味方だ!」
二人の騎士は、すぐにバルドたちに追いついた。
ドリアテッサを見て馬から下りて走り寄り、
そして、どうしてここに来たのかとドリアテッサが訊いたのに答え、いきさつを話した。
騎士ヘリダンは約束を守り、帰国すると最初にファファーレン侯爵家を訪ね、ドリアテッサの手紙をファファーレン侯爵本人に手渡した。
手紙を読んだ侯爵は仰天し、騎士ヘリダンに詳細を確認したのち、息子二人を呼んで事情を説明した。
長子アーフラバーンは烈火のごとく怒り、ただちにヴォドレス家に討ち入る構えをみせた。
侯爵はアーフラバーンを叱りつけ、ドリアテッサを救いに行くのがお前の仕事だ、と言いつけた。
侯爵と次男は皇宮に上がって皇王に報告した。
その後、勅使と次男がヴォドレス家に向かったとの話を聞いたが、結果を聞く前に出発した。
アーフラバーンはボーバードにいるというが、そこに行けばボーバード領主に会わないわけにいかない。
それはドリアテッサが嫌がった。
事情を聞いた騎士たちは無理もないことと、近くの村に宿を取り、騎士の一人が伝令に走った。
なんと翌日の朝食が終わるころにアーフラバーンはやって来た。
夜の明けきらぬうちに飛び出して、とてつもない速度で駆け抜けて来たに違いない。
「ドリーーーー!
ドリアテーッサ!!
無事かっ。
無事なのかっ。
よかった!」
見事なこしらえの鎧を着た騎士が、馬から飛び降りるなりドリアテッサに駆け寄って抱きついた。
「あ、兄上。
ご心配をおかけしました。
私は無事です。
すべて、バルド・ローエン卿と皆さまのおかげです」
その騎士は、ドリアテッサをやっと離すと、バルドのほうに向き直った。
取り乱した表情を消し去った、精悍で強靱な武士の顔で。
「貴殿が、バルド・ローエン卿か。
私は、ゴリオラ皇国ファファーレン侯爵家継嗣にしてティルゲリ伯爵アーフラバーンという。
騎士ヘリダンから話を聞いた。
かたじけない。
この通りだ」
なんとアーフラバーンは、右手を拳にして左胸にあて、右膝を地につけた。
考えられない礼容だ。
いかにこの男が妹を愛しているか、この一事がよく表している。
バルドはこの男が好きになった。
思いをまっすぐに伝える人間は、どうも嫌いになりにくい。
しかもこの男、相当の腕前だ。
都の貴族などというから、どんな軟弱者かと思っていたが、この男からは武人の匂いが強くただよってくる。
アーフラバーンは、バルドたちにひとしきり礼を述べたあと、ドリアテッサに、
「これでお前も気が済んだろう。
さあ。
国に帰ろう」
と言った。
ドリアテッサは、魔獣の首を取りました、と兄に報告した。
兄は信じなかったが、バルドが大赤熊の首を袋から出し、ゴドン・ザルコスが毛皮を開いて見せるに及んで、言葉を失った。
一行には、魔獣の鑑定ができる騎士がいたようで、小さなナイフで切ったり引っ張ったりしてから、魔獣の首にまちがいございません、と報告した。
満座は驚愕の声に満ちた。
バルドは、自分とゴドン・ザルコスが証しを立てる、と申し出た。
うなずいたアーフラバーンは、高位の騎士二名に宣誓させて二人の証しを聞き取らせた。
バルドとゴドンは、それぞれの神に宣誓したあと、この大赤熊の魔獣は、ドリアテッサと自分たち三人が倒したこと、ドリアテッサは勇敢に戦い、脇腹に深手を与えたことを証言した。
これで、証言は皇宮に伝えられ、間違いなく有効とみなされるとのことだった。
バルドは肩の荷が下りてほっとした思いを味わっていた。
ファファーレン家は当然ドリアテッサの捜索隊を出すだろうとは思っていた。
しかし、ドリアテッサの魔獣討伐にファファーレン家の騎士が同行していないことを深読みすれば、ドリアテッサがファファーレン家の有力者からうとまれている可能性も捨てきれなかった。
が、長男で家の後継者たるアーフラバーンの様子をみれば、ドリアテッサに深い愛情を抱いていることは疑いもない。
とすれば、魔獣討伐の証しを立てるという役目も果たせたことだし、もうバルドたちがゴリオラ皇国に行く必要はない。
じつのところ、バルドは大国の都などに行きたいとは思わなかったのだ。
だが、ここで別れたいと告げると、アーフラバーンが大反対した。
ぜひ都に来て、父侯爵からの礼儀を受けてほしいというのである。
断りかけて、ドリアテッサの目を見た。
すがるような目で、バルドを見ている。
ついてきてほしい、と訴える目で。
はて。
兄上とその騎士団に護られて、もう何の心配もないはずなのにのう。
なぜ目におびえがあるのか。
いぶかしく思ったが、取りあえず落ち着く所まではご一緒しましょう、と答えたのだった。
「ローエン卿。
この魔獣はわが妹を助けて貴殿らが倒したもの。
毛皮はどうなさるおつもりか」
とアーフラバーンが訊いてきたので、頭は当然ドリアテッサ姫のものであるが、毛皮はこちらがもらう、と答えた。
すると、アーフラバーンは、ぜひ毛皮を譲ってほしい、と言い出した。
愛する妹の殊勲の証であるから、家の宝として大切に保存したいというのだ。
バルドはこの毛皮でカーズとゴドンの革鎧を仕立てる算段だったので、この申し出にとまどったが、あまりに熱心に頼み込んでくるものだから、仲間たちと相談した。
ジュルチャガの提案で、しかるべき値段で譲ることが決まった。
下人とおぼしきみすぼらしい若者が三人の騎士と対等に話しているのにアーフラバーンは面食らっていたが、その提案で毛皮が手に入ることになり、ジュルチャガに礼を述べた。
ジュルチャガは、いつものようににこにこ笑いながらあいさつを返し、ちゃっかりと、代金をはずんでくれるよう付け加えた。
5
吹き抜ける風の匂いが違う。
今まで嗅いだ、どんな風とも違う。
鮮烈なのにどこか生臭く。
開け放たれているのに、何かに包まれているように感じる。
朝霧の中、大河オーヴァを渡る帆船に、バルドは乗っている。
渓流に運ばれる丸木舟以外の船を知らないバルドには、ひどく新鮮な経験だ。
リンツからなら二晩つまり三日はかかる船旅も、この辺りでは川幅が狭まっているため、風さえよければたった一日で終わる。
笹の葉を二枚懐から出して、川面に落とした。
アーフラバーン伯爵は、なんと三十人の騎士と三十人の従騎士を連れてきていた。
装備は一級品で、練度も高い。
どこの砦を攻め落とすつもりだったのかと聞きたくなる。
もっとも従卒も輜重隊もない。
機動性を重視したためだろう。
ばらばらになってドリアテッサを捜索していた一行は、知らせを受けてオーヴァ川沿いの
ヒマヤは、リンツに比べればごく小さい津だが、なかなか上等の旅館があり、人も多く活気があった。
さすがにこの一行が馬ごと一度に乗り込める船はなかったが、それでもたった二回で運べるという。
船自体も大きいうえ、食事と宿泊の設備が必要がないから、大勢が乗れるのだ。
よほど大枚をはたいたのか、一行は早々に船に乗り込み、待つほどもなく出発することができた。
日が昇るにしたがい、大峰フューザがオーヴァのかなたに姿を現してきた。
水面越しにみるフューザは、また格別の見応えがある。
船縁でドリアテッサが飽きもせずに景色を眺めている。
ただしその視線はフューザのほうではなく、東のほうに向けられている。
喜びとせつなさに満ちた目で、じっと東のほうを見つめている。
おそらく滝つぼを見ているのだろう、とバルドは思った。
無論ここから見えるわけはない。
それでもきっと、ドリアテッサの目には、あの滝つぼのほとりが映っている。
あれは不思議な場所だった。
大国の大貴族の娘であるドリアテッサも、地方領主であるゴドンも、流れ騎士であるバルドやカーズも、盗賊であるジュルチャガも、何の隔てもなく心許せる仲間であり得た、不思議な場所だった。
神々の懐に抱かれたかのように、安心で、愉快で、驚きに満ちた場所だった。
あの場所に戻ることは二度とできない。
兄の迎えを受けた瞬間、ドリアテッサは本来の身分に戻ったのだ。
生身の人間に戻った、といってもよい。
だから、限りない感謝と憧憬を込めてあの場所を振り返り、心に焼き付けているのだろう。
そのドリアテッサを、少し離れた場所からアーフラバーン伯爵が見つめている。
それは、妹を見る目などでは決してない。
命懸けで惚れた女を見る目だ。
そのまなざしを、伯爵は隠そうともしていない。
この数日で、バルドは知った。
アーフラバーン伯爵は、女としてドリアテッサを愛している。
だが、ドリアテッサは、父を同じくする兄であるアーフラバーンの恋情に、嫌悪を感じている。
母が違っても父が同じでは、どこの神官もけっして結婚は認めないだろう。
世間もその関係を正しいものとはみない。
何代か前のゴリオラ皇王が、妹を愛し、そのあいだに出来た子を正妃の子にしたて、帝位を継がせたことは有名だ。
そしてまた、帝位を継いでわずか半年後に有力貴族の反乱で殺され、危うく皇統が絶えるところだったのも、同じく有名だ。
実の兄の愛に身を委ねれば、日陰の道を歩むしかない。
それでもドリアテッサの安寧を守り抜く権力と財力と覚悟を、アーフラバーン伯爵は持っているのだろう。
誰はばかることなく、堂々と妹に対する思慕を体全体で表現しているアーフラバーンが、バルドの目にはまぶしくみえた。
許されぬ恋を貫くのも、よい。
それも英傑の生き方の一つではないか。
バルド自身は、そういう生き方はできなかった。
だから、それを望む者を応援したい気持ちがある。
ただし、ドリアテッサは、バルドのみるところそれを望んでいない。
このように気付いてみると、今まで不審に思っていた多くのことがふに落ちた。
ジュルチャガは、水煙の向こうのフューザを眺めながら、何かをもしゃもしゃ食べている。
バルドは小さな怒りを感じて、歩み寄った。
こらっ。
ジュルチャガ。
お前、まだ油ゆでを持っておったなっ。
「えっ?
いやだなあ、旦那。
違うよ。
これはね、もう身の残ってない骨だよ。
包装してた笹に、ちょびっと塩が残っててね。
くっつけてしゃぶるとおいしいんだ」
ジュルチャガとは泊まる宿も違い食事の場も違ったから、船に乗るまで顔を合わせなかった。
出航してから、
「もう冷えちゃったけど、こんなの食べる?」
と言って差し出したのは、ポド芋をざく切りにしたものと、コルコルドゥルの骨付き肉だった。
冷えてはいたが、何かしら食欲をそそる匂いがした。
食べてみて驚いた。
何ともうまい。
食べたことのない、しかしどこかで知っているような料理法だ。
聞いてみてもう一度驚いた。
なんとこの料理は、水を沸かしてゆでる代わりに、油を沸かしてゆでたのだというのだ。
辺境では油は貴重品だ。
武具を始めさまざまな道具の手入れに、明かりに、調薬に、傷の手当てにと、その用途は広い。
リンツなどでは魚から採れる油も使うが、バルドがよく知っている油は、いずれも木や草から採るものだ。
ランプに使えばあっという間に備蓄を使い果たしてしまうから、室内でもできるだけ松明で明かりを採り、それも使わずに済めば使わないようにしていた。
料理にももちろん油を使うことはあるが、湯の代わりに油を使ってゆでるとは、なんたる贅沢か。
砦で凍える冬には羊の脂を沸かして飲んだことはあるが、油で食材をゆでるという発想はなかった。
相当に新鮮で、混ざりもののない、質のよい油をたっぷりと使うのだろう。
「やだなあ。
途中、峠からボーバードを見たじゃん。
ほら。
黄色い花のじゅうたんが広がってたでしょ。
あれ、チャリアの花だよ。
ボーバードはチャリアの大産地なんだ。
だから、チャリア油が、そりゃもう山のように取れるんだ。
あそこじゃ平民でも油は安く買えるから、油をたっぷり使った料理がたーくさんあるんだって。
とーぜん、この
これ、街の屋台で売ってたんだよ。
あつあつのときは、そりゃもう死ぬほどおいしかった」
うまい。
食べれば食べるほど、うまい。
芋のほうは、たぶん塩をかけただけだが、これがうまい。
コルコルドゥルのほうは、何かたれに漬け込んでから油ゆでしてあるが、これは未知の味わいだ。
くそっ、ジュルチャガめ。
一人でこんなうまい物を。
しかし、どうしてこんなうまい物が、わしたちの料理には出なかったのか。
「いや、だから。
この辺じゃ、油ゆではありふれた料理なんだって。
それに、旅籠には賓客の料理に使えるほど上等の油がなかったらしいって、騎士の人が言ってた」
ゴリオラ皇国にも油ゆでがあるといわれなければ、バルドはボーバードに引っ返していただろう。
ドリアテッサが振り返ってこちらを見た。
ヒマヤでゆっくり湯につかり、髪に油も乗せた。
肌も化粧し、唇には紅が引いてある。
とがった顎。
りりしい目鼻。
男性的な装いが、逆に女としての美しさを引き立てている。
このおなごを見ると胸がざわつく。
なぜじゃろうか。
びゅうと強い風が吹いた。
風は髪留めから髪を引き抜き、右半分の髪だけが前方に吹き流された。
匂い立つような色香が、一瞬はじけた。
6
まずいことになったらしい。
アーフラバーン伯爵は、金と権力で無理やり船を仕立てたが、そのため、本来ならヒマヤから運ばれていたはずの油樽が、三日遅れることになった。
その油樽の買い手は、パルザム王国の辺境騎士団だった。
部下を謝罪に行かせたのだが、なんと先方は騎士団長自身が来ているとのことだった。
相手の爵位は伯爵で、辺境騎士団長であるうえ、王都に上って留守中のガドゥーシャ辺境侯の全権代理でもある。
つまり、アーフラバーンと爵位は同じで、職位はあちらがはるかに上、ということになる。
新任の騎士団長であるため、視察がてら来たらしい。
アーフラバーン伯爵は、自ら謝罪するため相手を訪ねなければならない。
という話をしていたところに、先方の騎士団長が訪ねてきた。
その相手の顔をバルドは知っていた。
向こうもこちらを覚えていて、話しかけてきた。
「バルド・ローエン卿!
ここでお会いできるとは、まさしく
ザイフェルト・ボーエンだった。
かつてパルザム王の勅使の随行をしていた練達の騎士だ。
勅使の病気をバルドが手当てしたのが機縁となり、友誼を結んだ。
ともにカルドス・コエンデラを謀った同士でもある。
それにしても、アーフラバーン伯爵より先にバルドに話し掛けるのは、相当に礼を失した振る舞いだ。
そうバルドは思ったのだが、無論ザイフェルトはうかつな人間ではない。
アーフラバーンとあいさつを交わし、油が遅延する件については、
「おかげで部下たちが、三日間の休暇ができたと喜んでござる」
と
妹の恩人ゆえ、皇都にお連れして歓待いたす所存、とアーフラバーンが答えると、ザイフェルトは驚くべきことを言い出した。
「このたび飛燕宮のあるじとなられたおかたの導き手にして師父たるバルド・ローエン卿は、わが国に大いなる貢献をなされた。
ついては、バルド・ローエン卿を賓客として王都にお招きする旨、王陛下はそれがしに命を下されたのでござる。
フューザに向けて放浪の旅に赴かれたと聞き、捜索の段取りを付け始めておったところなのです。
客を奪うようで恐縮にござるが、勅命ゆえ、バルド・ローエン卿は、こちらでご案内つかまつる」
こう言われてみれば、弱みもあるし、アーフラバーンには言い返しようもない。
先ほどまずバルドに話しかけたのも、パルザム王国にとってはアーフラバーンよりバルドのほうが格上として扱われる、ということをあえて示したのだろう。
そうなると、いよいよアーフラバーンはバルドの行動に注文をつけにくい。
バルドたちはザイフェルトに同行することになった。
まずはパルザム王国辺境騎士団の根拠地たるロードヴァン城に行き、王都と連絡をとるという。
あとで訊いたところ、飛燕宮というのは王の継嗣たる人物の住居だった。
正式に立太子されれば同じ宮殿が紫燕宮と呼ばれる。
ジュールランは今、そこに住んでいるのだ。
「ただ者ではないと思っていたが、パルザム王のご長子の
ここでお別れするのは残念至極。
用務が済まれたら、必ずやゴリオラ皇国の皇都にファファーレン侯爵家をお訪ねあれ。
必ずですぞ。
毛皮の代金は、辺境侯の城にお届けする」
と、アーフラバーン伯爵はバルドに言った。
そもそもゴリオラ皇国の皇都とやらで位の高い貴族たちとまみえるのは、あまり気が進まないことだった。
それに対して、パルザム王国の王都を訪ねてジュールランの近況を確かめるのは、悪くない。
だから、ここでアーフラバーンたちと別れるのは構わないのだが、ドリアテッサが物悲しげな目でバルドを見ている。
あなたは私を見捨てるのですか、とその目線が語っている。
胸が詰まる思いがして、バルドは思わず、
ドリアテッサ殿。
ジュルチャガをあなたに随行させる。
何か連絡があれば、ジュルチャガにお言いつけなされ。
と言ってしまった。
ドリアテッサの顔が明るく輝いた。
ジュルチャガは、分かったとばかりにうなずいた。
7
「やあ。
こうして再びバルド殿と酒を酌み交わせるとは、実に愉快。
ザルコス卿もカーズ殿も遠慮なく杯を干されよ。
湖のほとりでお別れして以来ですな。
あれからコエンデラの城に行ったが、事の成り行きが、いちいちバルド殿の予測通り。
何も知らずに行っておったら、あそこで死なねばならなんだ。
貴殿は恩人です」
バルドは、カルドスは王都に招かれたらしいが、どうなったのかと訊いた。
ザイフェルトは、詳しい成り行きを説明してくれた。
カルドス・コエンデラは王都に召され、ウェンデルラント王にかつて与えた恩義の報いとして、伯爵位と屋敷を与えられ、当分のあいだ王の話し相手として王都にとどまることになった。
この場合の当分のあいだとは死ぬまでという意味であり、屋敷から一歩も出ることは許されない。
一方、ジグエンツァ大領主領の設立が正式に認められ、パルザム王国との庇護契約が結ばれた。
ただし、王の長子の偽物を立てた罪により、コエンデラ家は大領主の座に就けないものとされた。
カルドスの長子ゼオンは、死刑に処せられた。
コエンデラ家は、着服した養育費を今後三十年にわたって返却することとなった。
初め、ウェンデルラント王は、大領主の座をテルシア家に与えるつもりだった。
だが、それをジュールラント王子に相談したところ、それは適当でないという意見を奏上した。
ジュールラント王子によれば、余分な仕事が増えれば、大障壁の切れ目を守るという役目に支障を来しかねない。
また、テルシア家が政治権力を持つことは、長期的にみれば使命の妨げとなる。
この意見に王は深く納得し、では誰を大領主にすればよいか、と下問した。
ジュールラント王子は、ノーラ家が適当と思われます、と上奏した。
ノーラ家は、長年大領主の座をコエンデラ家と争ってきた名家である。
当主始め一族のほとんどがコエンデラ家に殺されたが、末子がパクラに逃げ込んできたため、ジュールラント王子の進言によりひそかにかくまっていたのだ。
家格や歴史的経緯からすれば大領主にふさわしい家だし、親戚や朋友も多い。
この状況で大領主に任じられれば、パルザム王国への忠誠は強固なものとなり、またテルシア家には強い恩義を感じるだろう。
周囲の諸家もテルシアの高潔をますます知ることになる。
この件ではテルシア家は利を得ないことが最大の利を得ることになる。
これを聞いて王は大笑いし、三名の騎士を呼んで、ジュールラント王子の指示に従い東部辺境の仕置きを行うよう命じた。
バルドは、ザイフェルトがジュールランのことをジュールラントと呼ぶのを怪しんだ。
これはパルザム王家独特の慣習で、名前の末尾がランかエンで終わる男子のみ、トを加えて呼ぶのだという。
ジュールラント王子は、飲み込みが早く順応力が高く、優秀な教育係たちをうまく使って周囲になじみ信頼を集め、もはや生まれたときから王宮にいたかのように振る舞っている、とのことだった。
それでこそジュールランじゃ。
バルドはひどく誇らしい気持ちになった。
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