最終話 女は存在しない
雨宮が優子に出会ってから、どれくらい経っただろうか。雨宮は優子が死んだことについて、その記憶を持っていない。とはいえ多少はあるだろうと思う。記憶の奥底にはあるかもしれない。だれかが海に向けて石を投げる。重い石だ。その石はゆっくりとそこに沈んでいく。ついに海底まで石が落ちて僅かに砂が舞い上がる。その砂の一粒一粒が雨宮にとっての優子の思い出である。しかし砂はまた海底に静かに落ちていく。もう誰も海に石を投げるものはいない。そのようにして彼の記憶の奥底にはもうだれも届くことは出来ない。本人でさえも。
雨宮にとって優子は失ってはならない存在だった。優子を失ったことで、彼は自身の半分を失った。雨宮は人間らしく稼動すべき心の大部分を失った。彼は多くの解離症状、記憶の混濁、妄想、夢遊病に苦しめられた。優子が死んでから雨宮は泣き続けた。昼は普通にしていたようだが、夜の寝るべき時間の全てを泣く時間に当てていた。一晩も眠らなかったのだ。それが二週間ほど続いた後で、彼は深い眠りについた。72時間程度の睡眠だった。彼の家族も友人も、彼を放っておいた。彼が目を覚ましたときに、雨宮は優子の死を受け入れた。少なくとも周りからは受け入れているように見えた。雨宮は少しずつ元の生活を取り戻し始めた。
ある日、彼はパーティで、ある好みの女性を見つけた。美人なのだが、ただ美人というわけではなく、どことなく気立てのある雰囲気だった。
そこには僕もいた。
その女性はおそらく誰か参加者から誘われた偶然そこに居合わせた女性だろう。おそらく、と断るのは、彼女を見たのはそのパーティーが最後だったからだ。
しかし、雨宮にとっては違った。
その瞬間に、雨宮の中である人物が誕生した。それは、そのパーティーの女性の外形に優子や優子の記憶が混在して雨宮のイメージの中に一人の人物像を形成した。
沓子。
それは雨宮にとっての優子の延長であり、恋人であり、愛人であり、最愛の人であり、精霊であり、妄想であった。
雨宮は仕事を辞め、一人で色んなところへ行っていたようだった。沓子と一緒に。
ちょうどそのくらいの時期に、僕たちの周りでドラッグが流行り始めた。共感覚を呼び覚ます薬。そのドラッグを手に入れるとき、そこには必ず暴力があった。雨宮も一時期かなり深くのめり込んでいたようだった。週刊誌もこの事件をよく取り上げていた。
そのドラッグの元締めが沓子かもしれないという疑念が雨宮の中に生まれたとき。沓子は消えた。妄想が治癒したわけではない。妄想の中から沓子が消えたのだ。
僕はその話を聞いて、雨宮が回復に向かっていると思った。しかし実際は大幅に悪化をしていたのだ。雨宮は存在しない沓子を見つけるために、かつて優子と二人で出かけた思い出の場所や旅行先を一人でもういちど歩きまわっていたのだ。
雨宮は二度女を失った。
そして彼が帰国したとき、彼の妄想はもう取り返しのつかないところまで来ていた。彼は黒服に追われているといって、自宅に引きこもっている。沓子への行手を阻む存在で、黒服は必ず雨宮を先回りしている。そして黒服は雨宮を脅してくるのだ。お前から何かを奪うと。
実際のところ、そのときに彼の全ては損なわれていたし、人間の体を為していないように思われた。
帰国してから1ヶ月後のある日、彼は突然僕に通話をかけてきた。
彼はやっと沓子を見つけたんだ、と僕に言った。
沓子は新宿駅の雑踏の中にいたということだ。僕はそうか、と言って適当に話を合わせた。
それからも、しばらくの間沓子の目撃証言は続いた。優子との思い出の場所でよく沓子を目撃していたようだ。その話を何度も聞くたびに僕も辛い気持ちになった。もう優子は死んだんだよ、雨宮。それは優子でも沓子でもない。
雨宮が沓子を見かけるものの、中々捕まえることが出来ない日々はそこから一年も続いた。その間に僕も転職をしたりして、自分の状況は変わっていった。雨宮からの目撃報告は少しずつ減っていったが、月に一度はその報告があった。
8月16日。
雨宮から電話があった。
彼は、ついに沓子を見つけたんだ、やっと抱きしめることができた。やっと僕は満たされた。と言っていた。
そうか、時間の経過とともに、雨宮の妄想、統合失調症だろうか、はもう取り返しのつかないレベルまで来てしまったのだなあと思った。そろそろ、親友として、彼に全てを打ち明けようと思った。雨宮、そんな女は存在しない。優子が死んだんだ。その記憶を誰か別の人に貼り付けてるだけだ。はやく目を覚ませと。
しばらく放っておいた方がいいという医者の友人の忠告を守ってきたが、もう限界まできている気がした。はやく真実を話して説得しないと、雨宮は本当にダメになってしまう。事実、1年間全く改善の余地が見られないじゃないか。
僕が雨宮に向かってそれを言おうとしたら、雨宮は沓子に変わるよ、と言った。
このパターンはいつもそうだ。そこには誰もいない無音が続くのだ。
しばらくの無音が続いた後で、雨宮が通話に戻ってくる。ほら、沓子だろう?と雨宮は言う。
女は存在しない。
僕は通話を切った。今度会って話そう。少しずつ時間をかけて、彼の気持ちや感情を回復させていくしかないんだ。
その時に電話がなった。
知らない電話番号からだった。僕は電話をとった。
「もしもし、沓子です。さっき言い忘れたことがあって...」
(終)
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