第29話 感情を増やす(5)
夏が終わって、なかなか軽井沢の別荘にはいけなくなっていった。
その時は、試験勉強やバイトでそこそこ忙しい日々を送っていたように思う。もう秋から冬になろうとしていた。
11月のある日、僕は彼女の別荘へ向かった。コイケさんはいつもどおり、少し疲れた表情をしつつも、僕の方を見て少し笑って、部屋の中へと促した。
暖炉には火が灯っていた。僕は紅茶を飲みながら、暫くその暖炉を見ていた。彼女はずっと部屋に引きこもっているようだった。「まだ寝ているかもしれない」とコイケさんは言った。時計は午後3時を指していた。
その日は寒かった。曇っていて、雨、ひょっとしたら雪が降りそうだった。僕は暖炉のそばに近寄って、体育座りになりながら大きな窓から見える庭を見ていた。
まだ3時なのに、外は薄暗かった。僕はこういう空の様子が、小さいころから苦手だった。どこか、とてもあたたかいところへ逃げたくなるのだ。安心感のあるどこかへ。
小さい頃、ピアノを習っていた。家からはそれほど遠くないところ、多分600mくらいだろう。でもまだ小学校にも上がっていない子どもの感覚だと、それは感覚的には遠かった。
16時くらいにいって、18時くらいに帰る。夏は明るいが、秋から冬にかけては薄暗くなる。僕は耐えられなくなって、ピアノの教室と自分の家の間にある友人の家のベルを鳴らす。友人は勢いよくこちらへ駆け寄ってくれる。僕はあがって、友人とゲームをしたり、なにかじゃれあったりする。友人のお母さんは僕をかわいがってくれる。ご飯を食べていく?と僕に言う。多分だけど、その友人のお母さんはシングル・マザーだった。頻繁に友人のもとへ遊びに行く僕のことを煩わしいと思わず、かなり可愛がってくれていたように思う。
僕は友人のお母さんの料理を食べる。例えばカレーだ。
僕は暫くそれを食べる。そしてそのうちにたまらなく家が恋しくなってくる。
僕は途中から慌てて食べて、じゃあさよなら、と友人と友人のお母さんに言って、殆ど泣きそうになりながら家へ到着する。
そんなことを、暖炉にあたりながら考えていた。
ふと目をやると、床に無造作に日記が落ちていた。夏からは猫殺しの日記も無かったし、相変わらず一行しかない日記が続いていたので、僕はもうほとんど日記のことは忘れていた。
日記を手にとって開いてみた。ぱらぱらとめくっていると、びっしりと文字が詰まったページがあった。
猫殺しの日記だ。それは1番最新の、昨日の日記だった。
それは、猫のしっぽを掴んで振り回して、木の幹にぶつけて殺したということが書いてあった。淡々とした、まるで小学生のような文章で。僕はこれは夢なのだろう、と思った。やはり、彼女が猫を殺すなどおかしな話だ。そんな事ができる体力があるとも思えない。
僕は何度もその日記を読んだ。
そのうちに、少しずつ違和感を覚えてきた。それは描写の不自然さ、違和感だった。
やはり創作だからだろうか、リアリティにかけると思われるくだりや、拙い表現が散見される。それほど長くもない文章だが、僕はどうしてもそれが気になってしょうがなかった。
僕はペンを手にとって、その日記の次のページに、彼女の猫殺しの日記を推敲して書き直して上げた。きっと今の彼女ならこう殺すだろう、こう殺して、このように感じるだろう、そして猫はこの様に息絶えて、この様な亡骸の形態となるだろう.....。
どのくらい文章を書いたり消したりしただろうか。
おそらく一時間くらいかけて書き直して、それは完璧な文章となった。
いままで生きてきた中でも、こんな達成感はないというくらい、素晴らしい文章に仕上がり、僕はとても満足な気分になった。
もう外は暗くなっていた。彼女はまだ部屋からは出てこなかった。
ずっと眠っているみたいだった。
翌日になっても、彼女は起きてこなかった。
コイケさんは心配になって彼女の部屋を見に行った。彼女は安らかな顔で眠っていた。少し揺らすと彼女は目をさまして「もう少しだけ眠りたい」とコイケさんに言った。そうして彼女はまた深い眠りに入りはじめた。
僕は予定があったので別荘を後にした。
彼女は、その翌朝に目を覚ましてリビングにやってきた。それは彼女の胸に穴が空いて、別荘で休養しはじめてたら、初めてのことだった。
彼女は自分から、お腹が空いたので何か作って欲しい、といった。それも初めてのことだった。
彼女の胸は空いたままだったけれど、そこからの彼女の回復はめざましいものだったらしく、次の春学期から彼女は大学に戻った。胸の穴は形成外科でうまいことしたらしい。
その話を聞いた時、僕はとても嬉しかった。でも、そのように回復した後、彼女は二度と僕のことを思い出すことはなかった。
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