第22話 感情を増やす(1)

「御子柴の手記 2017.07.16 ”はじめに”」


ミユキさんは、東京都世田谷区で生まれたらしい。(正確な場所は分からない)


ミユキさんの父親は世田谷区で開業医を営んでいて、奥さんはそのクリニックの運営を手伝っていた。母親は父親よりも3つほど年上だった。ミユキさんが高校生にあがるころには50歳だったように思う。年を重ねていっても母親はいつまでも美しいとミユキさんは思っていた。

「自分のお金で外で飲んだことは、あなたを産んだ後でも一度もないかもしれないわね」

と、大学生になったミユキさんさんに母親は教えた。ミユキさんはいつまでも美しい母親のことを誇らしく思っていた。


僕も小さい頃に何度か見たことがあって、とてもきれいなお姉さんみたいな人だ、と思っていた。自分の母親はなぜこの人のようでないのか、とも思った。


ミユキさんもまた美しい少女だった。その美しさは単なる造形的なものでも、いたいけさでもない。可愛らしい、でもない。明確に美しさだった。

「授業参観にきた他の子供の祖父母たちが、あなたの顔を覗き込んではざわついていたのよ。幼稚園のときによ」とミユキさんは両親に教えてもらった。


ミユキさんが小学生になる時には既に、彼女の美しさはほとんど完成されていた。

ミユキさんは物心ついたときから、自分が美しいということをごく自然に理解できていた。

しかし年を経るごとに、彼女は自分の美しさをどのように御せばいいのかがわからなくなっていった。ミユキさんの美しさは長い間、彼女の手に余るものだった。


ミユキさんはずっと共学だったけれど、小学校から高校までの間、特にクラスの人気者というわけではなかった。しかし、ミユキさんと話す時は、男子であっても女子であっても、誰もが緊張した。それが彼女が醸し出す不安定感によるものなのか、ある種の不気味さからくるものなのかは分からないが、とにかく、すごくモテて多くの人から愛の告白を受けるということはなかった。誰かを振り回すということもなかった。ミユキさんもそういうことにはあまり興味を持たなかった。


教師もまた、ミユキさんと話すときには緊張していたように思う。ミユキさんは誰もが一目置く存在だったけれど、何かトラブルに巻き込まれるということもなかった。

ミユキさんの前で思慮の浅いことを言ったり、筋の通らないことをするのは、とても恥ずかしいことであるように周りにいた人たちは感じ取っていた。


それでも時折、ミユキさんに恋する人がいた。あるときは男子で、あるときは女子だった。もしくは、あるときは後輩で、あるときは教師だった。


ミユキさんに恋した人は、例外なくミユキさんについて、「この世のものではない気がする」という感想を持った。表現に多少の違いがあれど、「ミユキさんの立つ空間、歩いている場所はこの世からはすこし違う、どこか別の空間から来ているようだった」「彼女の背中は、いつも天から光が差して、美しく照らされていた」というようなことを皆が言った。


ミユキさんは慶應大学文学部に進学した。そしてミユキさんは大学生の時に、突然ごく平均的な大学生となった。ミユキさんを幼少の頃から知るものは、そのあまりのぶりに驚いた。ミユキさんは大学生になってもとても綺麗だったけれど、大学の友人や大学時代の恋人は、ミユキさんにそれ以上の美しさを見出すことはなかった。なぜそのような変化が突然訪れたのかは僕にはわからなかった。また、僕は大学は地方の方へ行ったので、そのことについて探りようもなかった。


ミユキさんはごく普通に酒を飲み、旅行へ行き、夜は化粧をして街へ繰り出して、恋をして、初体験をして、失恋をした。そして何度かそのようなことを繰り返した。


だから、このままいけば、ミユキさんの大学時代について、特筆すべきことはでてこないと思っていた。しかし、結果的にはそうはならなかった。


大学を卒業する直前に、ミユキさんは初めて恋をする。その恋はミユキさんに不可逆の喪失をもたらした。文字通りの物理的に空いた穴を残したのだ。ミユキさんの胸の部分には、直径10cmほどの穴が空いた。

穴からは向こう側の景色が見えた。ミユキさんはそれ以来、深く呼吸することができなくなってしまった。父親は娘に穴が空いたのを初めて見たときに失神した。母親は娘のためにクリニックの手伝いを辞めて、しばらくの間ミユキさんと軽井沢の別荘で過ごした。


それは「ただの身体に空いた穴」だったが、そこには何か異常な雰囲気があった。

僕はその穴に自分の手を通してみたことだってある。間近でその穴を見ると、それは広い空間に突如現れるブラックホール、もしくはダムの水を容赦なく抜く巨大な排水口を想起させた。ミユキさんはその穴を治療するために多くの時間を要した。


僕はその穴を塞ぐ方法をずっと探していたけれど、彼女自身は穴のことなんて全然気にしていないようにも見えた。僕は定期的に軽井沢を訪れて、彼女の治療を手伝った。結果的に言えば、彼女の穴は空いたままだったけれど、彼女は治癒した。この手記はそのことについてなるべく詳細に、できるだけセンチメンタルにならないように(そんなことは原理的にできないことだけど)、できる限り丁寧にクロノジカルに記録してあるものだ。

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