大司教さまは執務室に帰りたくない

小野じゅん

プロローグ

◆プロローグ◆

「あれ」

 中庭の隅、小さな池のそばで、はたと足を止めた。 

 なんとなく広げた手に、トンボが止まったからだ。


 ケヴィンは、うつむいて落ちてきた長い前髪を片手でかきあげ、どうしたものかと思案する。

「そうだよなあ、お前だって、ちょろっと休んでみたいよな」

 ぶつぶつと呟いていると、背後から声が飛んできた。

「あ! 見つけましたよ大司教!」

 どきりとして、首だけ振り返る。

「またこんなところで油を売って……さっきの書類、早く取り掛からないと、晩餐に間に合いませんよ」


 小言を引っさげてきたのは、警護隊長のラスターだ。

 早足にそばへ寄りケヴィンの横に並ぶと、ぷん、とトンボは飛んだ。

「あ、ほら。トンボ見てたんだ。秋だなって感じだろ?」

 ふたりは、トンボの行く末を見送る。

「たしかに。ここのところ急に、過ごしやすくなりましたからね」


 礼拝堂の上の大きな鐘がリンゴンと鳴り、昼下がりの時を告げる。

「お、時間だ。じゃあ、次のトンボを……」

「だめです、そんなことで逃げられるわけないでしょう」

「あう」

 ラスターがぎゅうぎゅうと背中を押す。それでもケヴィンはめげない。

「あ、急にお祈りしなきゃいけない気がしてきた! 終わったら執務室に帰るから、ありがとな! じゃ!」

「え! ちょっと!」

 逃げ足早く、中庭を抜けた。




 勝手口の錠前を上げ、礼拝堂へ足を踏み入れる。

 観音開きのドアをぱっと開けると、ステンドグラスの神聖な光が目に眩しい。

 くっと目を細めるこの瞬間が、ケヴィンは好きだ。


 ゴブレット教の聖地である『聖大教会』には、毎日、たくさんの参拝者が訪れる。

 赤いベルベットを進んでいくと、何人かの参拝者が、ケヴィンの存在に気づいた。

「あっ、大司教さまだ」

 小声で話す子供の横を、にっこりと微笑みすり抜けてゆく。

 何人かが立ち上がったが、説教をするわけでもないので、左手をそっと前に出し、そのままでかまいませんよと声をかけた。


 祭壇の前に立つと、カラフルな原色の光が、ケヴィンの肩に落ちてくる。

 オフホワイトの生地に細かな金糸の刺繍を施された祭服と、白に近い金の艶やかな髪が、鮮やかに彩られる。

 その美しい立ち姿に、参拝者たちは息を飲んだ。



――天にまします我らの父よ、その御心のままに、この実り豊かな季節の恵みと歓びを、我々にお与えください。そして、自然の小さな気付きを、示してください。




 目を伏せながら、ふいに、記憶が蘇った。

 大司教の命を受けた、2年前のあの日。

 訳が分からぬまま洗礼の儀式を終えた後、教王とふたり、石畳の上を歩いた。


『猊下、どうしてわたしなのですか』

『ほほほ』


 普段、居室となっている別館から滅多に出ない――出たとしても、必ず一段高い台にいる――教王と肩を並べて歩くのは、なんとなくむず痒い気持ちになったのを、よく覚えている。


『理由を知りたいかね?』

『はい。誰も教えてくれないのです』


 教王は立ち止まり、しわくちゃの目元を月のように細めた。

『ケヴィンは、アレを、躊躇なくできるであろう』

『あれ、といいますと……?』


――アレだよ、ケヴィンや。


 あの時の、細い目の奥で、全てを見透かされたような感覚。

 何度思い出しても、驚きと共に何かがせり上がる奇妙な気分になるのは、何故だろう。



 ……ゆっくりと目を開いた。

 そして、胸の前で、杯字を切る。

 大きくUの字を描き、横棒1本、縦に1本貫き、最後に小さな横棒で留める。

 手を組んで祈りを捧げた。




 元来た道へ戻ろうと歩き出すと、先ほどの子供が目に留まった。

「そこの君、怪我をしているのではありませんか?」

 やや屈んで、目線を合わせる。

 子供は顔を紅潮させて、こくこくと頷く。

「は、はい。右手をくじいてしまいました」

 さっと腕まくりをすると、白く細い手首に、痛々しく包帯が巻かれていた。


 右手をかざすと、患部が緑色の光に包まれる。

 そして、そっと触れて、じんわり温かくなっていることを確認する。

「傷の治りが早くなる呪文を唱えておきました。あしたには動かせるようになりますよ」

 柔らかく微笑むと、子供は耳まで真っ赤にし、隣にいた母親は、子供の頭を押さえつけながらぺこぺこと礼をした。




 中庭に出ると、再び現実が押し寄せてきた。

 数分後に、執務室のデスクに突っ伏している自分が目に浮かぶ。

「あーあーやだなー、めんどくせえなー」

 他に外でやるべきことがなかったか、必死で思い返してみるが、何も無い。

 そろそろ戻らないと、またラスターに怒られるだろう。

「そうだ! 今日の晩餐のメニューを聞いてから帰ろう!」

 ひらめいたケヴィンは、いそいそと、調理室へ向かう。


 大司教さまは、どうしても、執務室に帰りたくないのだ。

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