第29話 決闘は保護者付きで
目覚ましが鳴る前に、手でペシッと叩いて止めた。招き猫をかたどった目覚ましが、奇妙な声で挨拶しながら鳴くのをやめる。
「はーあ、あんまり眠れなかったわ~」
スミレは大あくびしながらベッドから起き上がった。寝ぐせだらけになっている気配を察して、手櫛で整えながらも、これだけでは身支度は整わないと知っているお年頃、洗面台へと急ぐ。
朝が早い父と会わないかと、ひやひやしながら、歯磨き洗顔、髪もしっかりブラシで
「お父さんは反対してたけど、やっぱり、宴にはケガしてほしくないわ。傷口に人間用の消毒液をかけても、大丈夫かしらねぇ」
無人の台所の棚から救急箱を取ってテーブルに置き、キャラ物の布鞄に、思いつく限りの医療用品を入れてゆく。
「……よし、こんなものかしら。重くもないし、走っても大丈夫ね」
「おはよう、スミちゃん」
母の声に、スミレはビクリと振り向いた。台所の戸口から、母がパジャマの上半身をのぞかせていた。
「お、お母さん……」
「城山に行くのね」
「うん……あの、絶対にいろいろ気を付けるから、行かせてほしいの。いい? ダメ?」
「お父さんがね、助っ人を付けてくれたのよ。外で待ってくれてるわ」
母はそう言って台所の窓に、優しい視線を向けた。スミレもちょっと警戒しながら、そちらを見やると、遠目からでもわかる、和服姿の不機嫌そうな美青年が、突っ立っていた。
「ええ!? 千里眼の店員さんじゃない!?」
「ふふふ」
「すごく機嫌悪そう。なんでお父さんはあんな人を呼ぶの~?」
「一番信頼しているからじゃないかしら」
「ええ!? いくら一番弟子だからって、信頼し過ぎよぉ、わたしあの人好きじゃないわ〜」
しかも店員が同行すると、宴と肋介が人間でないと気付かれる。絶対に。なんとか説得して、帰ってもらわなければとスミレはあたふたした。
朝っぱらから待たせている人を、スミレは無視できる性格ではなかった。朝は昨日のシチューをレンジでチンして、急いで口にかきこみ、ついいつもの黒っぽい服を着ていこうとして母に止められ、カーキ色のレトロなワンピースを着せてもらった。
「この服、見たことないわ。いつ買ったの?」
「ふふ、お母さんのおさがり」
「ええ!? そう見えない! すっごく可愛いわ」
「昨日の夜に急いで洗濯したから、防虫剤の臭いはしないと思うけど、気になったらごめんなさいね」
返事の代わりに、スミレは笑顔で首を横に。昨日の父の態度にはショックを受けたけど、母はいつでも親身になってくれて、それは今日この日も、変わらなかった。
しかし、千里眼の店員を招き入れる母の一面には、閉口する。あの店員のことだ、母の前では愛想良く朝の挨拶を済ませたのだろうと思うと、スミレは足が重たくなった。
「おはようございまぁす……」
「おはよう。うわ……あー、えっとー、おしゃれだね、その、からし色の服、似合ってるよ。昭和なレトロ感がただよってる」
「からし色って……カーキですぅ」
「ああ、うん、そのカーキ、すごいいいね」
適当感ただよう称賛ついでに、大あくびされた。
「娘の彼氏が山でケンカするから、その審判をやれって電話で叩き起こされたよ。今日は休みだから昼まで寝てようと思ってたのに」
「父がすみません……」
スミレは今すぐ父に文句を言ってやりたくなっていたが、どういうわけか家の中に父の姿はなかった。逃げたのだと、スミレは思う。
「あの、えっと、せっかく来ていただいてアレなんですが、しんぱんを付けるほどじゃないかもしれないっていうか、夕紅寺の和尚さんも来てくれますし、お兄さんは、そのー、あのー、家で寝ていてください、今日はお休みなんでしょう?」
「気を遣わなくてけっこうだよ。宴くんも昨日の人魚も、人間じゃないんだろ?」
……スミレは返事に困ってしまった。沈黙は時に、肯定とみなされてしまう。
「黙ってて悪かったよ。僕もそういうのと会えるタチなんで」
「……じゃぁ、昨日は宴を見てすぐに気づいたってことですか?」
「うん、まぁ。店の外にたくさん人がいたから、騒ぎになっても困るなぁと思って、黙ってたんだけど、人魚にまで遭遇するとは思わなかったよ」
「そうですかぁ……」
スミレはまだ状況が飲み込めきれず、おろおろ。店員から、集合場所と待ち合わせ時間を淡々と確認され、こくこくとうなずく。
思わぬ同行者兼保護者が付いた。まだ時間があるけれど、とりあえず夕紅寺へ行こうと提案され、スミレはおとなしく従うことにした。
(吐きそうだわ……。いったい、なにをしゃべったらいいの……)
聞きたいことはたくさんあるけれど、どれも口にしたくないスミレは、すぐそこに屋根が見える近所のお寺が、三キロくらいに思えたのだった。
勝負の開催場所は城山のてっぺん。集合時間は朝九時。けれども、まだ時間までかなりあるので、スミレは和尚さんを迎えに夕紅寺へと足を運んだ。
和尚さんと、それから椿がいなければ、スミレはだんだんと宴の姿が見えなくなってしまう。椿と宴は、共に過ごせば過ごすほど、姿が安定してくるのではとスミレは考えていた。
昨日のように、石階段を上って山門へ。
「あ、すみれ、おはよう」
スミレの気配に気づくなり、宴がすぐに振り向いた。
宴のとなりには、いつも寺で雑務をこなしているあの少年が立っていた。今日も作務衣を着ていて、スミレと店員にお辞儀した。
「おはようございます」
おはようございます、とスミレもつられて深々と頭を下げた。
「おはよう、宴。どうしたの? 何かあった?」
スミレは小首を傾げたが、下がり眉毛で苦笑する宴の様子で、すぐに察した。
「ああ、城山のてっぺんまでの道が、わかんないのね」
「う……そうなのだ。今、
そこへ、厚みのある上着を着ながら、和尚さんがやってきた。
「おはよう〜、みんな早いね。今日は少し寒くないかい?」
「あら、そう言えば、ちょっと寒いかも。どうしよう、わたしスカートだわ」
「気温は、これから上がるみたいですよ」
作務衣の少年、百瀬がそう告げた。彼はまだ寺の仕事があるからと、一礼してその場を去っていった。
和尚さんは、片手に椿を持っていた。それをスミレに託す。寒いのを見越してか、椿の首には小さなマフラーが巻いてあったが、おそらく膝を全部覆うくらい長めの毛糸の靴下だと思われた。
「それじゃ宴、いっしょに行きましょうか。城山のてっぺんなら、わたしも案内できるわ。あ、それと、今日はこの人もいっしょなの。お父さんのお節介でね」
「……どうも」
眠そうな目が、なかなか威圧的な店員の挨拶にも、宴は元気に「おはようございます」と挨拶。さらに、昨日いただいた資料がとても面白かった、勉強になったと、感謝と感想を述べている。
「きみ、今日はずいぶんと真っ白なんだね。色はどこに置いてきたの」
「これから頂くのだ」
宴はそう言って、和尚さんが常に手入れを欠かさない庭を眺めた。
「私はこれから一勝負行ってくる。もしも勝てたら、私もこの土地の一員に迎えられるのだ。祝ってくれるだろうか?」
宴は庭全体の生き物たちに話しかけていた。すると、それに応えるかのように、宴の身体がいろいろな濃淡の緑に染まり始めた。
「和尚様が、私を心配しているようなのだ。日頃から和尚様が大事に育てている植物たちも、一緒になって私の安全を願ってくれているらしい」
宴が色を吸収したと言うよりかは、自然と宴の着物や体を、染めていった。優しい木漏れ日を作り出す、数多の葉の重なりを表現した淡い色彩の生地には、枝葉がくっきりと描かれていて、宴の髪の毛には濃淡さまざまな翡翠色のメッシュが入り、肌には、寺に咲く花々の
夕紅寺の加護にすっかり染まった宴は、目を輝かせて自身の体をあちこち眺めた。
「今日は
「
「おお、言い得て妙なのだ」
からしだの、蓬餅だの、スミレは宴のように無邪気に笑えなくて無言になっていた。
「私は武器となるモノを、現地調達する。この翠の縁が、我々を護ってくれると善いな」
「宴、わたしとの縁も使って」
宴がびっくりしていた。スミレの真剣な瞳に射抜かれて、さらにびっくりしている。
「わたしの縁は、きっと宴をケガから守るわ」
スミレは自ら片手を差し出した。以前、薄紫色のきれいな蝶を生み出した際は、こうして宴と、手をつないだ。
目をぱちくりしていた宴は、表情を硬くして、スミレの手を取った。
スミレの右手と、宴の右手が重なり合う。宴の右腕の袖に、小さな菫の花がいっぱいに散りばめられた。
「できることなら、使いたくないな」
「えんりょしないでね」
スミレは約束をこぎつけるように、ゆっくりとした動作で手を離した。相変わらず宴の肌は、雪を触っていたかのように冷たかったが、スミレの縁を受け取った瞬間、人間のような温もりに変わった。
そんな二人の様子を、店員が冷めた目で眺めていた。
「わー、蓬餅にカビが生えたー」
「店員さん、次にカビって言ったら、足けるわね」
「さっきのは何だい? きみは縁なんてあげちゃって、大丈夫なの?」
その質問は、スミレと宴の両方に向けられていた。店員を安心させるために、宴が返答役を買って出る。
「このぐらいの量ならば、すみれから採取しても何の問題もないぞ」
宴はおもむろに、自身の着物の袂に人差し指を引っ掛けて、ぐいっと下に引っ張った。とても小さな椿の花が一輪。
「ちなみに、手を握った時よりも量は少ないが、店員からももらったのだ〜」
「ああ! なにしてんの、料金取るよ」
「無賃乗車なのだ」
「言葉の使いどころがめちゃくちゃだよ。僕はタクシーじゃないから」
十歩ほど軽く宴を追い回した店員。しかし本気で走って逃げる宴に、返却の意思は見られなかった。
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