第75話 いじめの傍観は共犯になる

 階段を下りようとしたその時、あたしは足を滑らせた。

 びっくりして目を開けると、目の前にはミミズがった後のような筆跡を残したノートが一冊。どうやら寝ていたらしい。


 未だかすむ目を何とか見開き顔を上げると、黒板にはあたしの記憶より多くの数字が書かれていた。

 ノートと見比べてみても、内容がまるで違う。どうやらあたしは結構な時間寝ていたみたいだ。

 まだ写していない所も消されてしまったみたいだから、今度由美に頼んで写させてもらおう。



 チラリと由美に目をやると、由美はちゃんと起きてノートをとっていた。

 あいつはチャラそうに見えてそういうところは真面目だし、テストの結果だってあたしよりずっといい。

 でも、黒板に延々書かれた数式を書き写すだけの作業なんてさ、眠くなって然るべきなんだよ。


 ひそひそ聞こえる喋り声は、昨日のテレビや誰かの噂話など、授業と全く関係ない内容ばかりで、あたしばかりが授業を退屈に思っているわけではないと知って少し安心する。

 由美も友達の未可子さんに話しかけられたりしているけど、軽く流してノートをとっている。



 ぼんやりと見上げた天井には、もう役目を果たした扇風機があたしを見下ろしている。

 黙ったままピクリともしない扇風機は、さっきまで寝ていたあたしを責めたてているように見えた。


 ……悪かったって、もう寝ないよ。

 心の中でそう謝っておいて、あたしは黒板を写す作業に戻った。

 それでもだんだんペンの進みは遅くなっていって、気が付くとあたしの顔とノートの距離はどんどん近づいて、いつしか視界は真っ暗になっていった。


 そうして次に目を覚ますと、授業はすっかり終わった後だったのだ。



 給食を食べ終わって昼休みになった教室は賑わい、あたしには居心地の悪い空間になる。

 あたしはそっと席を立って図書館へ向かった。


 図書館にはあたしの好きなタイプじゃないにしろ漫画が置いてあって、こうして暇な昼休みを潰すにはちょうどいい空間だった。

 中学になってからはもっぱら図書館に通い詰めている。きっと図書委員の人に顔覚えられてるだろうな。



「おい」


 そうして図書館へ向かう渡り廊下を歩いていると、誰かに声をかけられた。

 しかしその声に聞き覚えがあった上に、あまり会いたくない部類の奴の声だったので、あたしは無視して進むことにした。


「おい、おいって! にゃに無視してんだよ! ちょ待ってくださいっ、お願いします!」

「……なに」


 ついて来ようとしたので、仕方なく止まって振り返ってやると、エロ猫は表情を明るくして嬉しそうだ。


 しかし、その後すぐに済ました顔になって、偉そうにふんぞり返る。


「にゃにしに来たのかって? 晴にゃの学校がどんにゃところか見に来たんだよ」

「別に聞いてないし。適当に見て回ったら帰って」

「にゃんだよ冷たいにゃぁ。もうちょっと新鮮にゃ反応を期待してたのに」


 本当に何しに来たんだ、このエロ猫は。



 あたしはさっさとここから立ち去るべく、再び歩き出す。

 こんなところを誰かに見られでもしたら、あたしが猫を学校に連れ込んだみたいじゃん。それで怒られるのは心外だ。


 しかし、渡り廊下を渡り切るころになっても、後ろについて来る小さな気配はいなくならなかった。


「ちょっと、ついてこないでよ」


 ぴったり後ろについてきているエロ猫に、あたしは振り返って文句を言った。

 それを意に介さず、エロ猫は純粋な好奇の目をあたしに向けてきた。


「にゃあ、晴にゃはこれからどこ行くんだ?」

「図書館。だからついてこないで」

「由美と遊んだりしにゃいのか?」

「由美は忙しい奴なの。それにエロ猫には関係ないじゃん」

「じゃあ他の友達とは遊ばにゃいのか?」


 エロ猫の質問は、あたしにとってあまり愉快なものではなかった。

 それでも悪気があって言っているわけじゃないことは分かる。でも、あたしは少しずつイライラを募らせていった。


「あんたには関係ないって言ってるでしょ」


 そうして逃げる様に校舎に入る。


「にゃあってば」


 それでもついて来るエロ猫に、あたしはカッとなって勢いよく振り返る。




「ついてこないでよっ!」




 思わず叫んだ声は、あたしが思っていたより校舎によく響いて、周りにいた生徒の何人かが何事かと振り向いた。


 やばっ、ちょっと声大きすぎた……。

 このまま注目を浴び続ければ、あたしは校舎に猫を連れ込んだ上に、その猫と会話している寂しい奴になっちゃう。早くここから離れないと。


「ちょっとこっち来て」

「にゃんだよ、ついて来るにゃと言ったりついて来いと言ったり」

「いいからはやく」



 そうしてあたしはエロ猫を引き連れて、体育館前にやってきた。

 ここは校門を目前にした屋外で、昼休みはほとんど人がいない。

 グランドや体育館という遊ぶスペースがあるのに、わざわざこの狭いところで遊ぶ理由がないのだろう。


「それでなに? 用事があるならさっさと済ませてよ」

「……どうした晴にゃ? にゃんか今日機嫌悪いみたいだけど」

「誰のせいだと思ってんのさ」


 体育館から外へと続く階段に腰掛け、あたしはため息をつく。

 なんだか今日はいつもよりエロ猫が鬱陶うっとうしい。まぁ、普段からだいぶ鬱陶しいんだけどさ。



「それで、晴にゃは学校じゃいつもこうにゃのか?」

「だったらなに?」

「由美とは一緒にいにゃいのか? 親友にゃんだろ?」


 親友。たしかにあたしと由美の関係はそう表現するのがしっくりくる。

 でも、親友だからっていつでもどこでも四六時中一緒にいるわけじゃない。由美には由美の、あたしにはあたしの事情っていうのがあるんだし。


「……言ったでしょ、由美は忙しいんだよ」

「そうにゃのか。他の友達は?」

「いない」

「ふーん、そうにゃのか」


 自分で聞いてきたくせに興味なさそうなエロ猫に、あたしは少しムッとする。

 だから何か言わせてやろうと思ったのか、あたしはいらないことまでしゃべり始めた。



 あたしは別に誰とも話さない訳じゃない。委員会の仕事とか、授業で話さなきゃいけないときはちゃんと話をする。

 でも、親しくおしゃべりをするような友達はいない。


 由美は同じクラスだけど、あいつは人気者だから学校ではあまり話をしない。

 中1の時はよく一緒につるんでいたけど、次第にあたしの方から離れていくようになった。


 あたしは由美が仲のいい未可子さんや男子たちと一緒にいるのは疲れるし、そのせいで由美の交友関係まで壊したくない。

 だから、あたしは休み時間になると一人で図書館に行って、由美から物理的に距離を取るんだ。


 そのことをエロ猫に話しても、こいつは表情を変えずに、


「そうか」


 と言うだけだった。


「何も言わないの? 独りぼっちで寂しい奴だなとか」

「にゃんで? 独りが悪いことだとは思わにゃい。一緒にいて楽しいって思える友達がいにゃいにゃら、無理して誰かとつるむ必要はにゃい。俺はそう思うにゃ」


 そう言い切ったエロ猫に、あたしは少し面食らう。

 こいつがこんな真面目なこと言うなんて、思いもしなかった。いつもエロいことしか考えてないと思ってたのに。



 あたしは自分を肯定してもらえたからか、なんだか少しだけ穏やかな気持ちになれた。

 独りでいることはおかしい。そんなことが普通の学校という社会で、それはおかしなことじゃないって言われて嬉しかったんだ。


「あんたは猫だもんね。人間だとみんながみんなあんたみたいには考えられないんだよ」

「そうにゃのか? 人間ってめんどくさいんだにゃぁ」


 そう言うエロ猫は、臭いものでも嗅いだような顔をして、尻尾をぱたりと動かした。



「だけど、由美は晴にゃと学校でもにゃか良くしようとしているんだろ?」

「それはそうだけど……」

「じゃあ由美と遊べばいいじゃにゃいか。晴にゃは由美の交友関係を心配しているみたいだけど、それを決めるのは由美自身だ。晴にゃじゃにゃい」

「そうかもしれないけど、それじゃダメなんだよ」


 あたしの言葉にエロ猫は不思議そうに首をかしげる。


 由美にはきっと今の方が幸せなはず。ボッチのあたしに関われば、由美はまた小学校の時のようにいじめられちゃうかもしれない。

 そこまでいかなくても、奇異な目で見られるようにはなってしまう。悪い意味で目立ってしまう。それは嫌なんだ。


 だからあたしは空気のように、そこにいても気が付かれないような、そんな存在でいるんだ。

 由美が一番大変だったときに、何もできずにただ見ていただけのあたしにできるのは、それくらいだから。

 本当は親友だと名乗ることだって――。



 その時のことを思い出してあたしが俯くと、同時にチャイムが鳴った。もう休み時間も終わりだ。


「じゃあね。あたしもう教室に戻るから、エロ猫ももう帰りなよ」

「いや、もう少しここにいるよ」

「……あっそ、好きにすれば」


 あたしは制服についた砂を落として、エロ猫の元を後にする。

 少しだけ、教室に戻りたくないと、そう思いながら。





 ――――





 昼過ぎの社会の授業で、クラスの半数は思い思いにこうべを垂れて、夢と現の間をさまよっている。

 あたしは黒板に書かれたことをノートに写しつつ、ぼんやりと昔のことを思い出していた。



 まだあたしと由美が小学校2年生で、お兄ちゃんが同じ小学校の5年生だった時のこと。由美はクラスの子たちからいじめを受けていた。


 最初はよく漫画で見るような、殴られたり蹴られたり、水をかけられたり机にひどい落書きをされたりするような、凄惨せいさんなものではなかった。

 ただ陰でひそひそと無視をしたり、ハブられたり、ばい菌扱いされたりするような、そんなものだった。


 原因は何だったかよく覚えていない。しいてあげるとするなら、大人しい子だったということくらい。

 いじめというのは往々にしてそういうもので、いつの間にか誰かが誰かの標的にされる。

 それは次第にクラスに伝播していって、それをかばうことは反逆ととらえられる。そういった同調圧力があった。


 それでも、その段階ではまだあたしは由美の友達でいられた。無視やハブられるだけなら、あたしみたいな目立たない子が一緒にいても問題視されなかったから。



 でも、しばらくしていじめは次第にエスカレートしていった。

 面と向かって悪口を言われるようになり、あっちにいけと石を投げられたりもしていた。

 由美はその度に口をつぐんで、何かをこらえるような表情で去っていく。あたしはただその後ろ姿を見ていることしかできなかった。


 あたしは由美に石を投げることはなかったけど、投げられた石を跳ね返すことも、流れる血を拭ってあげることもなかった。

 今度はあたしに向かって石が飛んでくるのが怖くて、ただ少し遠くから眺めていただけだったんだ。



 そんなことが3ヵ月も続いたある日、由美は学校を休んだ。

 次の日も、その次の日も。待てども待てども由美が姿を見せることはなく、そうして1週間が経った。


 そんなある日の学活で、先生は神妙な面持ちで由美のことを話した。


 由美はいじめを受けていて、心に大きな傷を負ったから学校には来れない。しばらくお休みしますと。

 いじめというのはこんなにひどいことで、された相手はこんなに悲しんだ。いじめをした人も悪いけど、ただ黙って見ていた人も共犯です、と。


 それから犯人探しが始まった。

 いじめていた人は手を上げてください。そう先生が言っても、手を上げる生徒は誰もいなかった。


 そうして学活が終わり放課後になると、教室の隅でいじめの主犯たちがひそひそと話をしていた。

 あんなのでいじめなんて大げさだとか、あれはいじめじゃないから私たちのせいじゃないとか、そんな言い訳を真剣な表情で話し合っていた。



 次の日、先生は犯人が名乗り出ないので、知っている人がいたら話してくださいと言った。それでも話に行く人は誰もいなかった。


 みんな怖かったのだ。そうして主犯の子たちの名前を上げることで、今度は自分が標的にされることが。



 その次の日、先生は一人一人を職員室に呼び出し、誰がやったのか、誰にも言わないから知っていたら話してくれと問いかけ始めた。


 しかし、すでにいじめの主犯の子たちはクラスの皆に、自分たちはちょっとふざけていただけで、別に本気でいじめていたわけじゃないと言って回っていた。

 そう言って回ることで、自分たちは犯人ではない。もし犯人だと言ったなら分かっているだろうと牽制していたのだ。

 それだから、先生たちの犯人捜しは難航した。


 先生の尋問を受けて帰ってきた生徒は、逐一ちくいちいじめの主犯の子たちに取り調べを受けていた。

 話していないだろうなと詰問きつもんする姿は、脅しているようにも見えたし、焦っているようにも見えた。



 そしてあたしの番が回って来た。

 先生はすがるような瞳であたしに問いかける。もう何度も同じことを問いかけて、その度に知らないと言われてきたのだろう。随分と疲れた顔をしていた。


 あたしは初め、おとなしく黙っていようと思った。自分の身を守るために。あたしが言わなくても他の誰かが言うだろうと思って。


 でもその時、寂しそうな由美の背中が頭をよぎり、あたしは胸が痛むのを感じた。




 ――ただ黙って見ていた人も共犯。




 その言葉があたしを罪悪感で満たしていった。


 そうしてあたしは主犯の子たちの名前を挙げた。

 由美を救うためではなく、ただ耐え切れなくなって。自分の罪悪感を取り除くためだけに、懺悔ざんげしたんだ。


 そんなあたしに先生は、ありがとうと言ったのだった。



 それから、いじめの主犯の子たちは先生たちに怒られたのだろう。職員室に呼ばれたのを見たから間違いない。


 彼らの処分がどうなったのか、あたしには分からなかった。ただ、不満げな顔をしていたのは覚えている。



 やがて先生は、由美に学校に来てもらえるよう、様々な提案をしてはクラスメイト達に色紙を作らせたり、手紙を書かせたりした。

 しかしそのどれもがあまり効果を発揮しなかったらしく、別の手段に出始めた。


 由美と仲のよかった子に、由美が学校に来るよう説得してもらおうとしたのだ。

 そうして白羽の矢が立ったのが、あたしだった。



 あたしは先生に呼び出され、由美の様子を見てくるようお願いしてきた。

 あたしはそれを受けたけど、独りで行くのには抵抗があった。

 確かにあたしは由美と仲が良かったし、様子を見に行くくらいなら何の問題もないはずなのに、顔を合わせるのが怖かった。


 傍観者も共犯。その言葉はまさにあたしのことだと思った。ただ見ていただけで、手を差し伸べることも、声をかけることもなかったあたしのことだと。

 だから由美に合わせる顔がなかった。あたしは共犯者。いじめの犯人なんだから。


 それでも、お願いを受けてしまった以上、行かなくてはいけない。

 だからあたしはお兄ちゃんを頼ったんだ。



 お兄ちゃんはこの時すでに由美と面識があったし、由美が不登校になってしまったことも知っていた。


 小学生にとって、学校という世間は狭いようでいて広い。5年生と2年生では校舎も違うし、ほとんど接点がないためか、お兄ちゃんは由美がいじめられていたことを知らなかったようで、不登校になったという話をあたしやお母さんから聞いて心配していた。

 だからお兄ちゃんもいれば由美も喜ぶと言って、ついてきてほしいと頼み込んだのだ。



 そこまで思い出したところで、授業の終了を知らせるチャイムが鳴った。

 寝ていた生徒たちも起きだして、教室はかつての賑やかさを取り戻す。


 そんな賑やかさの中にあっても、あたしの心は深く沈んでいて。

 その思いを閉じ込めるように、あたしはそっとノートを閉じた。

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