第19話 嵐の後は涙に濡れて

 俺はその日、夏休みの宿題をやっていた。


 今日、8月21日は夏休みの終わりを目前に控えた、夏休み終了の2日前。

 徹夜をして宿題を終わらせれば、最終日までは遊んで過ごすことができる。そして晴れ晴れとした心持ちで新学期を迎えられるのだ。


 実際のところは他にやることもなかったからやっているというのが大きい。

 外は少し早めに上陸した台風の影響で大雨。風も強くてまともに外に出れない状況だった。


 あと3日遅れてきてくれればもう1日夏休みが続いたというのに、残念だ。


 あーあ、夏休みがずっと続けばいいのに。そうしたら宿題なんてやらないで遊んでいられるのにさ。



 俺はだんだんと集中が途切れてきたので、いったん休憩がてら麦茶でも飲もうと席を立った。


 台所に向かうと、晴奈がジュースを飲んでいるところだった。

 どうやら晴奈も宿題をやっているようだったので、休憩かもしれない。


 あまり砂糖の多いジュースばかり飲むのはよくないと注意しようとしたところで、晴奈のスマホから軽快な音楽が流れ始めた。

 どうやら着信のようだ。



「はい、もしもし晴奈です。……あっ、静江おばさんですか、こんにちは」


 どうやら電話の相手は静江さんのようだ。


 しかしいったい何の用だろうか。

 あれかな? 今日の雪芽の容体の話かな?


 だとしたら気になるので、俺は麦茶をグラスに注ぎながら耳をそばだてる。


「あの、どうしたんですか? なにか――、え?」


 初め、戸惑いを浮かべていた晴奈の声は、驚きに変わった。

 いや、驚きとは少し違うのかもしれない。信じられないものを聞いた、たちの悪い冗談を聞いた、そんな雰囲気だった。


「はい、はい……。わかりました。はい、それじゃあ……」


 おそらく電話は切れたのだろう。それでも晴奈はスマホを耳に当てたまま、少しの間立ちすくんでいた。


「おい、どうした?」


 様子がおかしいので、心配して声をかけると、晴奈はようやく電話が切れていることに気が付いた様子でスマホを降ろす。

 しかし、その動きはどこか雑で、勢いよく降ろされた手からスマホが滑り落ちた。


 カタンッ、と音を立て、スマホは台所の床に転がる。


 スマホの液晶にはホームの壁紙が映し出されていた。

 ディスティニーランドで撮影した集合写真だ。皆楽しそうに笑っている。




「お兄ちゃん、雪芽さんが……」




 ようやく口を開いた晴奈は、ゆっくりと俺を振り向く。

 その目は虚ろで、あらゆる感情が無くなってしまったかのようだった。


 その様子に俺の背筋は凍り付く。

 まるで背骨に冷たいつららを差し込まれたような、そんな冷たさが全身を駆け巡った。


 そして晴奈は震える口を開き、言葉の続きを口にした。




「今朝、亡くなったって……」




 …………え? 今何て?


 その言葉の意味を、俺は理解できなかった。


 いや、言葉の意味は理解できるのだろう。

 だが俺の頭はそれを拒んだ。理解することを拒否した。



 晴奈は俺に伝えるべきことを伝えた後、その瞳に感情の光を宿した。

 それは希望ではない。悲しみの光、涙の輝きだった。


 晴奈の両の目からは、次から次へと涙があふれ出している。

 心に、理解が追い付いていないのだ。



 そしてようやく理解が追い付いたとき、晴奈は俺の胸に飛び込んできて、泣いた。

 でも俺は、そんな晴奈を抱きしめてやることも、慰めの言葉をかけることもできなかった。


 晴奈が飛び込んできた拍子に、持っていたグラスが手から滑り落ち、床に麦茶をぶちまけた。

 素足にじっとりと、こぼれた麦茶がまとわりついてきて、うっとおしい。



 ……雪芽が、亡くなった?


 なくなったってなんだ? どういうことだ?


 なにが、どうなくなったんだ?


 誰が、何をなくしたんだ?


 雪芽が、なにを、なくしたんだ……?




 ……雪芽が、死んでしまったということなのか?




「な、なあ、嘘だよな? 雪芽が死んだなんて、嘘だよなぁ? なぁ!?」

「分かんないよぉ!! うぐっ、だって、静江おばさんが、ひぐっ、そう言ってっ……」

「…………うそだ」

「お兄ちゃん……?」



 うそだ、うそだうそだうそだ。


 そんなの、だって、あんなに、最後だって笑ってて……。

 だから、大丈夫だって思って、それで。

 学校だってまだなのに、そんなのうそだ。




「嘘だ!!」


「お兄ちゃん!!」




 気が付けば俺は走り出していた。

 途中廊下で滑って転んでも、俺は立ち上がって走る。


 どこへ向かうのか? 雪芽のところだ。

 きっと雪芽は無事だ。顔を見ればかつてのように微笑みを浮かべてくれる。びっくりしたでしょって、いたずらっぽく笑ってくれるはずなんだ。


 だからっ……!



「あ、陽介、ちょうどいいところに――って、なにしてるの!?」


 玄関を開けて外に飛び出すと、何かが俺の前に立ちふさがった。

 しかし、俺はそれにかまわず外へ進む。


 外は暴風雨だが、そんなことはどうでもいい。

 俺は一刻も早く雪芽の元へ行かなくてはいけないのだから。


「待ちなさいっ! あんたこんな天気の中どこに行くっていうの!?」


 何かが、俺の腕を引っ張った。

 邪魔だと思って見てみると、母さんだった。

 母さんが俺の腕をつかんで離さない。


「離せ!! 俺は、俺は雪芽のところに行かなくちゃいけないんだ!!」

「あんた何言って――」


「ダメッ! お兄ちゃん!!」


 新たに俺の腰に巻き付く何か。

 見れば晴奈が、がっしりと俺の腰に手を回し、離れない。


 あぁ、邪魔だ。邪魔だ邪魔だ邪魔だ邪魔だ……!!




「離せ! 離せよ! 離せぇぇえええ!!」




 ただ力のままに暴れた。

 腕を振り回して、体をゆすって、でも足だけは常に前に進もうとした。

 それでも俺を阻むものは強情で、なかなか俺を離してくれない。


「あんた、落ち着きなさい!」


 うるさいうるさいうるさい!

 母さんの声も、晴奈の泣き声も、地に打ち付ける雨音も、風が揺らす木々の音も全部!

 俺は雪芽に会いに行かなきゃ、無事を確認しなきゃいけないんだっ! だからっ――



「やだやだっ、このままじゃお兄ちゃんも死んじゃうよ! お兄ちゃんまであたしを置いて行かないでっ!」


 しかし、そんなうるさい音たちの中で、晴奈の悲痛な叫びが聞こえた。


 ハッとして腰にまとわりつく晴奈を見る。

 顔は涙と雨でぐちゃぐちゃで、額からは血を流していた。


 それを見て我に返る。


 晴奈に傷をつけてしまった。

 俺は自分の妹に、怪我を……?


「あ、あぁ、あぁっ! 俺は、おれは――」


 俺は動きをとめた。

 それでも晴奈はきつく腰に抱き着いていて、必死に訴えかけている。

 行かないでくれ、一人にしないでくれ、これ以上悲しいことは起きてほしくない、と。



 俺は腕を押さえつけていた母さんにもう大丈夫だと伝える。

 母さんは俺の拘束を解いてくれて、俺は自由になった腕で晴奈の頭を撫でる。


「ごめん、ごめんなぁ。もうどこにもいかないから、もうどこにも。晴奈を一人にはしないから」


 晴奈を抱きしめて、俺は泣いた。

 晴奈も声をあげて泣いていた。


 このときばかりは今が台風でよかったと思った。

 風や雨の音が声をかき消し、雨が涙を隠してくれたから。



 その時、そっと俺たちを包むものがあった。

 それは暖かくて、懐かしくて、不思議な安心感があるものだった。


「何があったかは後で聞く。だから今は思う存分に泣きなさい。ここには私たち家族しかいないんだから」


 母さんだ。

 俺たち二人を抱きしめる母さんから、温もりが伝わってくる。



 そして俺たちは泣き続けた。

 大声を上げて、涙をこれでもかと流しながら。

 それでも涙は枯れなくて、悲しみは消えなくて。


 そうして心が落ち着くまで、母さんは俺たちを抱きしめ続けてくれたのだった。





 ――――





 次の日の午後6時から執り行われた通夜は、未だ去らない台風の中、粛々と行われた。


 受付をしていたのは雪芽の祖父母だそうで、挨拶を済まし、葬儀場の中へと入る。


 車で10分程度の距離にある葬儀場には、既に何人かの人が集まっていた。

 そのほとんどは見ない顔で、俺たちと同じ年の頃の子供は一人も見かけなかった。


 しかし、その中に一人見知った顔があった。

 夏希だ。



 夏希は俺の顔を見ると、ゆっくりと近づいてきて、そして泣き出した。

 膝から崩れ落ちそうになった夏希を支えながら、俺は夏希の背を撫でる。


 その様子を見ていた晴奈も泣き出し、俺は晴奈も抱き寄せてしばらくの間彼女らを慰めていた。


 俺も泣きたかった。

 でも、俺まで一緒になって泣いていたら、雪芽に怒られる気がして。

 だから雪芽と別れるまで、俺は泣かない。そう決めていた。



 夏希と晴奈がようやく泣き止んだ時、今まで忙しくしていた静江さんが、俺たちに元へやってきて言った。


「陽介君、みんなも、雪芽の顔を見てあげてくれないかしら」


 静かに、でも今にも泣きそうに微笑む静江さんの態度は、悲しみの中にあっても毅然と振る舞う大人のそれだった。


 母さんがどうするかと俺に尋ねる。

 もちろん、俺の答えは決まっている。




「ぜひ、お別れを言わせてください」




 布団の上に安置された雪芽の遺体は、死装束をまとっていて、初めて出会ったときのように白く、雪の妖精のようだと思った。

 静江さんが雪芽の顔に掛かった布を外すと、そこには穏やかに眠る雪芽の顔があった。


 最後に会ったときと変わらない、白く透き通った綺麗な顔だ。

 まるで寝ているだけのように、穏やかで、声をかければ今にも起き上がってくるんじゃないかと思えた。



「雪芽、今日はお別れを言いに来たよ。あんまり急だったからいい言葉が見つからないけど」


 ……あぁ、やっぱり起き上がってはくれないんだな。

 本当に、雪芽はこの世を去ってしまったんだ。


 そう思うと目頭が熱くなって、こみ上げてくるものがあるが、それをぐっと飲みこんで静江さんに向き合う。


「本当に穏やかで、眠っているようですね」


 静江さんは小さく頷くと、そっと目元に手をやった。



 それから通夜はつつがなく進行していった。

 雪芽の遺影はディスティニーランドで撮られたものだった。

 満面の笑みだ。それを見ると少し泣きそうになる。



 お坊さんがお経を読み、順番に焼香を行い、お坊さんがお話をしたのち退場すると、鉄信さんが前に立った。


 参列者に挨拶をする鉄信さんの声は震えていた。

 散々泣いのだろう。目は赤く腫れていて、今も潤んだ瞳から悲しみが伝わってくる。


 嗚咽をかみ殺した挨拶は、参列者の心を揺さぶり、何人かはハンカチを目に当てていた。



 その後振る舞われた食事も、俺にはどれも食感だけで味が薄く感じた。

 他の参拝者は笑顔を浮かべて談笑したりしている。

 それに酌をする静江さんと鉄信さんも、笑顔を浮かべていた。


 しかし、その笑みは心からのものではなく、顔の表面に張り付いたテクスチャのように感じた。





 ――――





 次の日の葬儀は、台風が過ぎ去った後の快晴の中執り行われた。


 俺たちは葬儀に参列し、昨日と同じようにお坊さんの読経、焼香を済ませると、お別れの儀が始まった。

 それは雪芽の家族、親族と、俺たち雪芽の友人たちのみで行われた。



 綺麗に化粧を施された雪芽は、昨日と変わらない姿で、棺桶に納められていた。

 そこに綺麗な花を一つ一つ入れていく。

 花に囲まれた雪芽は、やっぱり美しかった。


 花と一緒に晴奈のお守り、夏希の折り鶴を入れ、それぞれが書いてきた手紙を添えて棺桶は閉められた。


 棺の搬出の際、俺も手伝ったが、思っていたより軽く、それがまた悲しかった。



 長い長いクラクションの後、雪芽を乗せた車は火葬場へとむけて出発した。


 火葬場で最後に雪芽の顔を見ると、俺はまた泣きそうになってしまったが、それをぐっとこらえて、さようならとだけ言った。



 1時間程度控室で待っていると、火葬が終わったと連絡があった。

 俺たちは静江さんの提案で収骨に参列することになり、炉前にて雪芽の遺骨の説明を聞いた。


 茶色く変色した骨は、白血病に侵されていた骨だという。

 それはほぼ全身に伝播していて、こんなになるまで雪芽は耐えていたのかと考えると、辛い気持ちになった。


 そして晴奈と共に骨を拾い、雪芽との別れは終わりを告げた。



 今日は8月23日。夏休みの終わりだ。


 夏休みの始まりと同時に始まった俺たちの関係は、夏休みの終わりと同時に終わった。

 それが喧嘩や引っ越しだったらどれだけよかっただろうか。

 雪芽とまた笑顔で出会える可能性が少しでも残っていたら、どれだけよかっただろうか。



 火葬場から出て、見上げた空は綺麗に晴れていて。

 その青さは俺の目に沁みて、少しだけ涙がこぼれた。



 その日の夜、俺は星を見上げながら、雪芽はどこにいるのだろうかと思いをはせていた。

 故人は星になる。そんな話をどこかで聞いたのを思い出したからだ。



 そういえば雪芽とは天体観測とかできなかったな。せっかくの夏休みだったのに、俺は補習に遅刻するばかりで、雪芽とまともに遊んだのはデスティニーランドくらいのものだ。

 そう思うと、もっといろいろなところに行っておけばよかったと後悔が募る。


 こんなことになるって分かっていたら、俺は雪芽ともっと早く友達になって、いろんな所に遊びに行ったのに。

 花火大会や夏祭りも、海も、キャンプも、バーベキューも、まだ何もやってない。

 雪芽と俺は友達のはずなのに、友達として一緒に何かをしたことが少なすぎる。




 ……親友にも、なれていない。




 そうだ、俺はまだ雪芽の親友になれていなかったんだ。

 4回会って友達にはなったけど、その先の親友には、まだなれていなかったんだ。


 でも、俺は一生雪芽の友達のままだ。

 親友には、もうなれない。

 これからどう頑張ったって、雪芽との関係を変えていくことはできない。

 だって雪芽は、死んでしまったのだから。


 そう思うと涙が流れた。

 我慢していたはずのそれは、次から次へと流れだして、とまらなかった。



 雪芽。俺はもっとお前といろんなところに行きたかった。

 楽しそうに笑うお前を見ていると、俺も楽しくなれたから。


 学校にも一緒に行きたかった。

 1時間に1本しか電車が来ないあの駅から、二人で一緒に。


 きっと雪芽と過ごす学校生活は楽しかっただろうなぁ。

 文化祭を楽しんだり、定期テストで一緒に勉強会をしたり。

 雪芽は部活に入ったのかな? もし入ったなら俺も一緒に始めたのかな?


 他にも、いろいろ、俺たちにはできることがあったのに。

 これからの未来は楽しいものだったのに……。




「雪芽ぇ……、なんでだよ? なんで何も言わずに逝っちまったんだよぉ……」




 会いたいよ、雪芽。


 お前の笑顔が見れるなら、俺は何だってするよ。


 だから雪芽、そんな遠いところに行かないで。

 俺たちのいるところに帰って来てくれ。




 そうして俺はいつまでも泣き続けた。

 嗚咽を噛み殺して、涙で枕を濡らし続けて。


 そうして俺はいつの間にか、深い深い眠りについたのだった。

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