異変のはじまり

第15話 嵐の足音は静かに近づいて来る

 



 ――雪芽が倒れた。




 そう聞かされたのはデスティニーランドから帰って来て2日経った8月17日の昼下がりだった。

 誰から聞いたのか、もう覚えていない。母さんだったか、晴奈だったか。

 どちらでも良かった。



 話を聞いて、俺と晴奈は急いで雪芽の家に向かった。

 そこでは鉄信さんが待っていて、病院まで連れて行ってくれるとことになった。



 俺たちは終始無言で鉄信さんの運転する車に揺られている。


 外は近頃晴れていたのが嘘のように雲に覆われていた。

 たしか台風が近いとテレビで言っていた気がする。



 雪芽が倒れたなんて嘘なんじゃないか、たちの悪いドッキリなんじゃないか。

 そんな考えだけが頭の中をぐるぐるまわっていて。でも、唇を真一文字に引き結ぶ鉄信さんの顔からは事の重大さが伝わってきた。


「あの……」


 晴奈が小さな声で呼びかける。

 それに鉄信さんは何も返さない。


「雪芽さんはどうして……?」


 晴奈も考えがまとまっていないのだろう。言葉には戸惑いが色濃く現れていた。




「…………白血病だそうだ」




 そうして、鉄信さんはポツリポツリと話し始めた。


 雪芽は白血病という血液癌けつえきがんの一種にかかり、今それが急速に進行しているらしい。

 体が弱かったりしたのも、その病気の影響だそうで、今こうして急速に進行しているいる原因は不明だという。



「……俺はな、陽介君。君を殴ってやろうかと思っていたんだ。君が雪芽を連れまわしたせいであの子の病気が進行したんじゃないかってね。でも医者は違うっていうし、雪芽もやめてくれと言うんだ」

「……」

「だから俺が君をどうこうするつもりはない。ただ、あの子の前ではいつもと変わらずに振る舞ってやってくれ」


 鉄信さんは震える声でそう言った。

 ハンドルを握るその手は、白く、小刻みに震えている。


 俺は、返事をすることができなかった。

 ただ俯いて、拳を握ることしか、できなかったのだ。





 ――――





「あっ、あなた……。それに、陽介君と晴奈ちゃんね。来てくれてありがとう」


 静江さんは静かにそう言うと、笑みを浮かべた。

 しかし、その笑みは嬉しさや、楽しさからくるものではなく、ただ単にそうしなくてはいけないから笑顔を浮かべているだけのように見えた。

 瞳に、所作に。そういったものを総合した雰囲気に、辛さ、心配や悲しさといったものがにじみ出ていた。


「ほら、雪芽。陽介君たちが来てくれたわよ」


 そういうと、静江さんは席を立つ。


「こんにちは静江おばさん、雪芽さんは……?」


 静江さんは晴奈の問いかけには答えず、カーテンに隠されたベットの方に目をやると、再び悲しそうに微笑むのだった。


「じゃあ、おばさんたちは少し売店に行ってくるから、それまで雪芽をお願いね」

「はい……」


 そう言って病室を出ていく雪芽の両親の背中は、以前よりずっと小さく見えた。



 それを見送り、晴奈がカーテンをくぐり、中に入る。

 すると、息をのむような音が聞こえてきた。


「雪芽さん、晴奈です。わかりますか?」


 しかし、その次には落ち着いた声で雪芽に呼びかけていた。


 俺も意を決してカーテンをくぐる。




「……!」




 カーテンをくぐった先には、変わり果てた雪芽がベッドに横たわっていた。


 もともと白かった肌は、いっそ白を通り越して青白く、腕から伸びた管はベッドの隣に立っている点滴台につながれていて、そこからぽたぽたと点滴液が落ちている。



 晴奈の声に今ようやく目をあけた雪芽は、ボーっとしていた。

 焦点が合っていないのか、晴奈と俺を認識するまで少し時間を要する。




「……あぁ、晴奈ちゃん、陽介。来てくれたんだ」




 笑みを浮かべようとしたのだろう。雪芽は口の端を少し持ち上げたが、それ以上表情の変化はなかった。


 晴奈はその痛ましさに顔を歪めるが、すぐに取り繕ってベッドの脇へ向かう。

 雪芽のすぐ隣まで移動した晴奈は、そっと、壊れ物に触れる様に雪芽の手を取った。


「ええ、ええ、晴奈です。今日は雪芽さんが倒れたって聞いたので慌ててきたんですよ?」

「……ごめんね。私、急に熱が出て、それでちょっと動いただけでもふらふらして、息が切れちゃって。……そしたら次気が付いたときこうなってた」


 申し訳なさそうに眉尻を下げる雪芽。


 ……あぁ、本当だったんだ。雪芽が倒れたっていうのは。

 今の今までそんなはずがないって、きっと大したことじゃないって、そう思ってた。

 でもこうして目の前で、かつてのように笑えなくなってしまった雪芽を目にして、ようやく俺は実感したんだ。



「ほら、お兄ちゃんも」


 晴奈が黙ったままの俺を見て戸惑いを浮かべる。

 俺も、何か声をかけよう。雪芽に元気になってもらいたいから。


「……っあ」


 だが、口を開いて出てきたやっとの言葉は、言葉ではなく、音だった。


 何を言えばいいんだろう。こんな状態の雪芽に、何を言ったらかつてのように笑ってくれるだろう。


 そう思うと、言葉は形を保てず、俺の口から音としてこぼれ落ちていくだけだった。

 俺は自分の不甲斐なさに唇をかむ。

 そうして感じる痛みも、どこか遠い。


「陽介、すごい顔してる。大丈夫?」

「……ああ」


 この中で一番大丈夫ではないであろう雪芽に心配されて初めて、俺は言葉を発した。

 なんて情けないのだろう。余計な心労をかけてどうする……!



「雪芽こそ、体調はどうなんだ?」


 ようやくまともに紡げた言葉は、それでも掠れていた。


 雪芽は相変わらずか細い声で続ける。


「熱があってね、ちょっとボーっとしてるの。後は眩暈とか、だるさがあるくらいかな」


 確かにそういう雪芽は全体的にぼんやりしている。

 言葉や表情、そういったものの動きが少なく曖昧だ。


 まるで今にも消えてしまいそうな幻のように――。



「雪芽さん、治るんですよね? 大丈夫なんですよね……?」

「うーん、どうなのかな。お医者さんも、まだよく分かってないみたいだったから、私にも分かんないや」


 晴奈の悲痛な問いかけに、雪芽は晴奈が期待したものをは違う答えを返した。

 大丈夫だと、大したことないと、また前のように笑って過ごせると、そう言って欲しかった。


「でも、よく分からないってことは、大丈夫かもしれないってことだろ? じゃあきっと大丈夫だよ」

「……うん、そうだね。陽介が言うなら大丈夫な気がする」




 何を言ってるんだ、俺は。


 そんな上っ面の言葉を言いたかったわけじゃないのに。気休めを言うつもりなんてなかったのに。


 俺が言いたかったのは――




「陽介君、晴奈ちゃん」


 俺が言葉を探しているうちに、雪芽の両親が帰ってきた。

 後ろには看護師さんらしき人もいる。


「ごめんなさいね。雪芽はこれから処置があるんですって。だから今日はこれ以上雪芽とお話しできないの」

「……そうですか」

「そっか、残念。陽介、晴奈ちゃん、またね」

「…………ああ」


 小さく手を振る雪芽に、最後に小さく笑いかけ、俺たちは病室を後にした。


 病室を出てすぐ、鉄信さんが俺たちを送ってくれると言った。

 そうして帰る道すがら、俺たちはやはり無言だった。



 しかし、雪芽の家のそばまで来たあたりで、鉄信さんはミラー越しに俺たちに話しかけた。


「今日はありがとう。雪芽も元気になったと思う。また会いに来てやってほしい」

「はい、もちろんです」

「今度から君たちだけで面会できるように病院の人に言っておくから、連絡をくれれば面会できるようにしておこう」

「……ありがとうございます」



 そうして雪芽の家に到着し、車から降りた時に晴奈がためらいがちに鉄信さんに問いかけた。


「あの、雪芽さんはよくなるんですよね……?」

「ああ、きっとよくなるさ。今はまだ治療が本格的に始まってないからあんな感じだが、きっとね」

「そうですか」

「医者も決して治らない病気ではないと言っているし、きっとそこまで心配しなくてもいいはずだ」


 そういう鉄信さんは疲れをにじませた笑顔を俺たちに向けた。

 きっと大変だったんだろう。急に雪芽が倒れて、心配で、元気だった雪芽があんな姿になってしまって。


「大丈夫、ですよね……! きっとよくなりますよね!」

「ああ、そうだね。きっとよくなる、きっと」


 その言葉は俺たちに言ったのだろうか。それとも自分に言い聞かせたのだろうか。

 そのどちらでもいい。その言葉が本当になるのなら。

 また以前のように雪芽が笑ってくれるのなら、どっちだって。


 それから、鉄信さんが別れ際に見せた顔は、病院に行く前よりもいくらか明るいように見えた。



 俺たちは家に帰ると、母さんに雪芽の様子を伝えた。

 母さんは驚いたり心配したり忙しそうだったが、最後には鉄信さんや晴奈と同じく、大丈夫、きっとよくなると言っていた。



 それから俺は白血病について少し調べることにした。

 雪芽のかかった病気がどんなものか知りたかったし、安心したかったというのもある。


 結果として白血病は確実に死に至るような病ではないということが分かった。

 ただ完治は難しいらしく、長く治療を続けていかなくてはいけないとのことだった。


 白血病とは血液の癌のようなものらしい。調べたサイトだと、骨髄という血液を作るところに癌ができてしまうイメージだと書かれていた。

 そうして正常な血液が作られず、免疫力が低下したり、貧血を起こしたりする症状が出るという。



 あぁ、よかった。すぐに死んでしまうような重大な病気じゃなくて。治る希望がある病気で。

 でも、高校には行けないかもな。治療には結構時間がかかるっていうし、入院期間も長いみたいだから。


 そうしたら俺が雪芽に勉強を教えてやればいい。夏希や隆平も連れて行って、みんなで勉強会をしてもいい。

 そうすれば雪芽が退院して、学校に来たときにすぐなじめるだろうし。


 そうだよ、悪い事ばかり考えてたって仕方ないんだ。この先にあるいいことを考えていこう!


 俺は少しだけ気分が晴れた気がした。

 倒れたっていうから、もうだめなのかと思っていたけど、快復の見込みがあるとわかって安心したのだ。



 そうだ、明日も予定が合えばお見舞いに行こう。夏希も呼べば来るだろうし。

 そうしたら何かお見舞いの品をもっていかなくちゃな! たしか雪芽は辛いものが好きだって言ってたけど、病人に辛いものはだめだろうな……。

 ま、妥当にフルーツとかかな。


 俺はそう思い立ってすぐ買い物に出かけることにした。

 つい昨日直ったばかりの俺の自転車にまたがって、俺はスーパーへ向けてペダルをこぎだした。



 俺の気分が晴れても、空は相変わらず鈍色でおおわれていた。

 台風が、刻一刻と近づいているのだろう。


 たしか台風が上陸するのは5日後だったはずだ。

 台風が来るまでの間、できれば毎日お見舞いに行ってやろう。そう思うのだった。

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