第2話 - 後 - 2
森に入ってから、十分経ったか。それとも、十五分は越しただろうか。人が歩いて踏み固めただけの道に、泥の足跡を付ける。
何度、枯れ枝枝を踏み折る音を聞いただろうか。何度、草が風で揺れる音に驚いただろうか。だが、確実に近づいている、という感覚は心が悲鳴をあげるくらいに響いていた。
そして──。
「ここね、ここが現場ね」
「ああ。……って、まさか」
私は、頷くことで答えた。
依頼者ら三人に、持っていた旅行鞄とランタンを渡して、私から十分に下がるよう手で合図をした後、私は、泣き続ける一人の少女に声をかけた。
「貴方が如月安奈さん、間違い無いわね?」
少女は、驚いて顔を上げた。
「見えて……、いるのですか?」
「見えているわよ、はっきりと」
赤く腫れた目元を拭いて、安奈さんは涙で潤んだ目で私を見た。
そして突然、抱きつこうと飛びついてきた。
しかし、安奈さんはやはり死んでいた。
その体は霧を全身で掴もうとするかのように私の体をすり抜けて、そして地面へと飛び込んでいった。
「……そう、ですよね」
私は、うつ伏せの安奈さんに何も言うことができなかった。それを慰められるような、気の利いた言葉の一つも持ち合わせてはいなかった。勿論、地面にうつ伏せになったままの安奈さんに手を貸すことさえもできなかった。
ただ、
「……ごめんなさい」
泥さえも付くことのない体を立たせながら、安奈さんは言った。
「何を謝るのよ。何も悪いことしてないじゃない」
「いえ、ただ、思うんです。今いるのは、罪人のための独房なんじゃないかって思うんです。私という狂った罪人を閉じ込めておくための。
死ぬときに一緒だった筈のアイツは、目が覚めたら居ませんでした。……可笑しいですよね、アイツが首に包丁を突きつけてきたとき、私、やっと死ねるって、やっと楽になれるって、嬉しかったんです」
「……首に包丁?」
私の背中の方で、安奈さんの母が悲鳴を上げた。
「ええ。狂ってますよね」
自分をあざ笑うかのごとく、安奈さんは笑った。
「その日のこと、もう少しだけ聞いてもいい?」
少し悩んだ後、安奈さんは壊れたように笑った。
「良いですよ。どこからがいいですか?」
「そうね……、ここに来るまでのこと、とか」
「大したこと、話せませんよ?」
「いいわ。貴方の口から聞きたいだけだもの」
「あの日は、いつものようにアイツの車に乗りました。いつも、仕事が終わると迎えに来るんです。きっとさぞ喜んでいたんでしょうね、周りが持て囃すのを。それから、私はいつものように寝てしまって──、その日は珍しく、いつものアイツの不潔なキス無しで目が覚めたんです。目が覚めたときには、車は見覚えのない場所を走っていたんです。周りを幾台かの車が走り抜けて……、ふと、修学旅行のバスで見た景色に似ていると思ったんです。まだ、アイツと出会う前の。お菓子を交換したりして、はしゃぎまくった、あの時の。そして……、気付きました。いえ、気付きたくなかっただけなんです。
私は、反射的にスマホを取り出そうとズボンのポケットに手を突っ込みました。しかし、見つかりませんでした。そして、鞄の中、それに胸ポケット、果てまた普段使わない上着のポケットの中も探しましたが、スマホは見つかりませんでした。
どこに向かっているのか、私はアイツに聞きました。返事は返ってきませんでした。その時、何となく思ったんです。『殺されるんだ』って。そう思った瞬間、全てが楽になったんです。あぁ、終わるんだ、って。
そしてそれを理解したとき、同時に何故か悲しくなったんです。今までの努力は何だったんだろうって。逃げよう、逃げようと証拠を纏めて、アイツ以外の誰も悲しまないように繕って、繕って。積み上げたものが、アイツに一瞬でかき消されるような、悲しくなったんです。だから、もう一度鞄の中を漁ったんです。ボイスレコーダーが入っているか、って」
「ボイスレコーダー……?」
「ずっと前、アイツの態度がおかしくなってきた頃、まだ友達と自由に会えた頃に、友達に相談したことがあって。その時に言われたんです、証拠は持っといた方がいい、って。それで、買ってくれたんです。ペン型のボイスレコーダーを。これなら、ペンケースに隠しておけばバレないだろうって。ずっと隠し持っていたんです、そして……、私は、殺される前にアイツに『トイレに行きたい』って頼んだんです。『逃げられないのも、助けを呼べないのも、分かっているんでしょ?』と聞いたら、アイツはやっと首を縦に振りました。
そして、車は駐車場に着きました。公衆トイレの明かりを除いたら、ほぼ真っ暗でした。降りようとドアレバーを引いても、ドアは開きませんでした。外からしか鍵が開かないようになっていたんだと思います。アイツに連れられて降りて、トイレに入って。個室に入った振りをして、私は窓からボイスレコーダーを投げようとました。
その時、ふと思ったんです。修学旅行で友達と一緒に買った鳥を括り付けたら、守ってくれるかなって。子供じみてますよね、私って。でも、縋りたかったんです、そんなものでも。そして、私はそれを投げ捨てました。森の中に。その時やっと、全てを終えられるような、そんな気がしたんです。
トイレから出ると、アイツは包丁を首に突きつけてきました。刃の冷たさに、一瞬、ひやっとしました。ただ、とても気持ちよかった。全てを終わらせてくれるような、そんな気がしました。そして、私はアイツに従って、ただ歩きました。
気がつくと、池の前に来ていました。ここが死に場所か、そう思うと何とも言えない感情が込み上げてきました。例えるなら、寂しさでしょうか。池に突き落とされるのを待っていると、アイツは鞄を引ったくって、池に投げました。そして、自分の鞄も。私はただ、それをぼーっと見てました。暫く浮いて、ただ沈んで行く様を。
再び、私は首に包丁を突きつけられ、歩かされました。ずっと歩いて、気がつくと来た道を戻っていました。もしかしたら、歩き過ぎて元の道がどれだか分からなくなっていただけかもしれませんが。
そして、私は座るように言われました。アイツは、私を抱きしめた後、私を──」
言いかけたところで、安奈さんはガクガクと音を立てながら震えだした。
「どうしたの、大丈夫?」
「アイツは私の胸を、力一杯刺して──、あぁ、思い出した。アイツは最後に言ったんだ、『これで一緒だね』って。
一緒ならどれだけ良かったか、アイツが泣き叫ぶまで張り倒して、しばき倒して、殴って──。目が覚めた時にはアイツはいなかった。ずっと、ずっと一人だった。一人で、一人で、ひとりで──、だから思ったの。壊して、壊して、コワシテ、コワシテ、コワシテ、コワシテ、コワシテ──」
「安奈さん!」
「スベテ、スベテ縛リツケテシマエバイイ! ココニ、コノ場所ニ!」
安奈さんから、黒いオーラのようなものが発せられる。そしてそれは、全てを飲み込もうとするかのように渦を巻き始めた。
もし、本能というのがあるならば、こういう感覚をいうのだろうか。頭の中では、壊れたサイレンのように、逃げろ、逃げろ、という声だけが鳴り響いていた。
そして、安奈さんは、怒りで鬼のような形相をした安奈さんは、私に向かって飛びかかってきた。
「殺シテヤ──」
──安奈さんは、それを言い切ることはなかった。
糸を切られた操り人形のように、彼女の全身から力が抜ける。その重さが、私の手に握られた、薔薇の模様の入った銀の簪に伝わる。
そしてその簪は、短剣のように安奈さんの首を貫いていた。
貫かれたところを中心に、安奈さんの身体が光の粒に変わる。そしてそれは──、崩れゆく砂の城をスローで見てるかのように地面へと崩れ始めた。
「ごめんなさい、これが仕事なの」
使い古された謝罪の言葉を投げかける。所詮、罪悪感を紛らわせるだけでしか無いということは分かっていても、言うしかなかった。
「オ──、さん」
「……えっ?」
「──かあ、さん」
虚ろな目で、安奈さんが呟いた。
「──さい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさ──」
そして、全てが光の粒に変わり、地面へと沈んでいった。
後には、何も無いただの泥道が残っていた。
簪をハンカチで拭いて、ポケットに突っ込む。
貴方の分まで、頑張るから。
重たい気持ちを吐き出すように、その場で深呼吸した。
そして、今まで聞いた情報を伝えるために、後ろに下がらせておいた三人の方を振り向いた。
「五里警部、聞いた内容を……」
「いや、真白。ちょっと待って欲しい」
五里警部は、安奈さんの母の方を心配そうに見ながら言った。
安奈さんの母は、泣いていた。
正確に言うならば、無感情な顔を、涙が伝っていた。
「どうかしたの?」
私は、努めて平静を装いながら聞いた。
「よく分からないんです。ただ、悲しくて。……何故だか分からないけど、娘を今、この世から完全に失ってしまったような気がするんです」
「……そう」
私は、静かに返事を返した。
「貴方は、悪くない。私がやったのよ。私が、やったのよ」
慰めるように、私は言った。
──汚れるのは、私だけで十分だから。
*
後日、自宅のテーブルに、二人。私と従弟の崇之が向かい合うようにして座っていた。
テーブルの上には、紅茶とお土産のシュークリームが並んでいる。そして崇之はそれを美味しそうに頬張っていた。
「んで、どうなったの? その後」
口一杯のシュークリームを紅茶で流し込みながら、崇之は聞いた。
「まぁ、そうね。安奈さんのお母様が落ち着くまで待った後、聞き出した情報を元に警部が部下と合流して探索を始めたわね。民間人が触るとマズイから、とかいう理由で最初は私らは駐車場で待たされたけど、
「昔から得意だもんね、そういうの」
「……あんたが無くしすぎなだけよ」
「あーはい、そーっすねー」
この前は、仕事のUSBメモリを忘れて帰ったじゃない。……全く。
「んで、ここから先は弁護士さんから聞いた話なんだけど、ボイスレコーダーの中身は無事、鑑識の方で確認されて、そのデータを元に裁判の用意を進めているらしいわよ。あんまし詳しいことは聞いていないけど、DVがあったという事実を証明できるだけの証拠だったらしいわ」
「ふーん」
「それと、ここからは五里警部から聞いた話だけど、どうも警察の方が機能不全に陥っていたらしいわね。金を積んだんだか、弱みを握られたんだかは詳しくは分からないけど、高速を走っていた時の映像とか、重要な証拠が握り潰されていたらしいわ。ま、探せば出てくるところに眠っていただけらしいけどね」
「へー」
興味なさそうに、
「んで、今回は儲かった?」
「……結局その話になるのね」
紅茶を口に含んでから、小さく溜め息をついた。
「今回はかなり特殊でね。依頼者の方からは上乗せしてないの。
依頼を受けるに当たって、今回のような依頼は特に地権者の方に了承を取るんだけど、その時の条件が、『事件以降に現場周辺で出る幽霊の除霊』だったのよ。要するに、安奈さんの霊の除霊。それが条件だったのよ。
当初の依頼内容は、『霊から証拠を聞き出す』だけだったし、それ以上のことをやる予定もなかった。流石にこの分のお代を依頼者に上乗せする訳にもいかなかったから、地権者から取ろうとしたの。頑なに拒否したから、『一帯を立ち入り禁止テープで囲ってやる』って脅したら、『それは困る』って。仕方ないから、少しだけ値引きしたわ」
「……よっぽど困っていたんだ」
「まぁ、らしいわね。あの一帯で知らない声が聞こえたりして、キャンプに来た客が不気味がって来なくなったりしたらしいわ。実際に面白半分で近づいてみた人も居たらしいけど、『呪われる』って叫びながら帰っていったそうよ」
「ふーん、商売上がったりだね」
ご馳走さま、と崇之は手を合わせた。
「そうね、ただ……、安奈さんは悪くないの。
想像してみて。誰からも話しかけられず、通りがかった人さえも素通り。どんなに声を出しても誰にも認識されず、ただ耳に入るのは自分に関係のない音のみ。
あの森の中じゃ、下手すれば人が通れば良い方だわ。極端かもしれないけど、誰も居ない部屋に閉じ込められたのと、同じくらい寂しかったはずよ。特に安奈さんは、生前は人気のある歌い手だったらしいしね。人に囲まれた生活から、急に放り込まれたのよ。きっと寂しかったはずだわ、きっと、想像もできないくらいに。
証拠となるかは分からないけど、聞いた話では、泣き声が聞こえるようになるまでは、『歌声』が聞こえていたそうよ。それも、綺麗な。そのせいで迷った人も居たらしいけど、伝えたかったんじゃないかしら、『ここにいる』って。気付いて欲しかったんじゃないかしら、自分の存在に。だから、私をあそこに縛り付けようとしたんじゃないかしら、きっと」
冷えた手を温めようと、ティーカップに手を伸ばす。
「除霊するにしても、もっと良いやり方もあったはずなの。私は、あの子に向き合う気がなかったのよ、きっと。浄化させてあげる事だって、出来たはずなのに。私は……、向き合うことすら出来なかった。自分の罪悪感を埋めるためだけに、あの子の辛い記憶を思い出させて、わざと発狂させて。向き合う気すらなかったのよ、きっと」
依頼者に安奈さんの除霊の許可を取るとき、決めたのに。私が、全てを背負うって。
「辛かった?」
窓の外を見ながら、崇之がボソッと言った。
「姉さん、昔からそうだから。何かあっても、ずっと一人で抱え込んで。責任感強いっていうか、何というか。そういうところ、昔から変わってないよね」
一呼吸置いて、崇之は言った。
「それと。幸せだったと思うよ、安奈さん。最後に話せたのが、姉さんで」
崇之は、いつもそう。どんな時でも、一番欲しい言葉をくれる。昔から、ずっとそうだった。
「ありがと」
「えっ?」
崇之が、ニヤニヤしながら聞き返した。
……くそう。
「……なんでもない」
その様子を、時計の脇に座ったウサギのぬいぐるみが楽しそうに見ていた。
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