第55話

 自分の教室に帰ってくると、大和ヤマトに会った。


 大和はニヤニヤしている。


 カレシと軽く危機的状況にある結子ユイコは、現在、他人の笑顔に対してあんまり寛容ではいられない。それが大和であると、もうこれは全く許容できないと言ってよい。


「今すぐそのニヤニヤをやめなかったら、グーで殴るからね」


 結子は冷たく言ったが、大和は、


「やめるもなにも、これがオレの素顔だからさ」


 と取り合わない。結子は拳を握ったが、それを振るうことはできなかった。少し前に、教室内で大和の頭をガンとやったことがあって、それからクラスメートの間で、「ハンマー・ユイコ」という、ファンタジー漫画あたりでは絶対にやられキャラにしかつけられないような二つ名が、ひそかにささやかれていることをつい最近知ったばかりである。ここで、大和の顔をバチコーンとやってしまったら今度はどんなあだ名をつけられるか分かったものではない。恥には多少耐性があるが、漆器に塗るうるしではあるまいし、望んで上塗りするようなものではない。


 結子は席につくと、放りっぱなしにしておいたカバンから教科書を取り出して、机の中に納めた。


「アスカと何を話してたんだよ」


 大和の明るい声が頭上から降る。結子は、立っている彼に向かって、なぜ明日香と話していたのを知っているのかを逆に訊いた。


「あんた、なに? わたしのストーカーなの?」


「お前のストーキングなんかして何が面白いんだよ。さっき、お前とアスカが話してるのを見てたの。今日はアスカと一緒に登校して、教室の前まではアスカと一緒だったから。そのときお前の姿が見えたんだよ。手を振ったんだけどな」


「ゴメン。わたしの目にはアスカしか映ってなかったから。あんたのことは眼中に無かった」


 それを聞いた大和は大げさにショックを受けたように頭を抱えた。結子は、教室にかかっている時計を確認すると、早く朝のホームルームの予鈴がならないかなあ、と思った。


「そうすれば、そういうバカみたいな演技を見なくて済むからね」


「いや、そういうことは心の中だけで思えよ」


「それで?」


「ありがとな」


 大和は透明な声を出した。


 結子は首を傾げた。特別、礼を言われることをした覚えは無い。


「アスカと付き合ってくれてるだろ」


 大和は、分かっているぞと言わんばかりの顔で大きくうなずいてみせた。


 結子は、それは自分の為であって彼女の為ではない、とはっきりと言った。勝手に善人に仕立て上げてもらっては困る。それでもニヤケ面をやめない大和を見て、結子は声高に自分が自己中心的であることを主張するのもバカバカしいと思い、それ以上は続けなかった。代わりに、


「アスカから何か聞いた?」


 話題を変えた。


「何かって何を?」


 大和が言う。その声には何かを隠しているような調子は無い。どうやら明日香アスカは、結子が相談した件について口外していないようだ。結子は自分の人を見る目の確かさに満足した。もっとも、仮に明日香が大和に話していたとしても、痛くもかゆくもない結子である。大和に知られても別に構わないという気持ちがある。


 予鈴が鳴った。大和は離れ際に、


「アスカの口から自分以外の子の話が出るのを初めて聞いた。その調子で頼む、ユイコ。仲良くしてやってくれ」


 とまるで保護者然としたことを言ってから、自分の席へと歩いていった。


 結子はカバンを教室の後ろにあるロッカーへ置きにいった。「その調子」というのがどういう調子であるかは分からないけれど、言われなくても、特に明日香への対応を変える気は無かった。


――わたしのために役に立ってもらおう!


 そんなことを考える結子は明らかに善人ではない。しかし、この中学校という魔窟に善人などがいたら見てみたいものだ、と結子は思う。そうして、思った途端に頭の中に、爽やかな容姿をした少年の姿が浮かんだ。むろんのこと、恭介キョウスケのものである。


 その恭介に対して、結子は少し距離を取るようにした。その日の放課後、また翌日の行き帰り、更に次の日も一緒に彼と通学したわけだけれど、言葉少なにしていた。結子としては、けじめをつける必要を感じており、それをする前にダラダラと元の関係に戻ることを嫌ったのである。それは恭介に対して失礼だという気がしていた。おそらく恭介もそうなのではないか、と結子は思っていた。自分の告白に対するレスポンスを待っているのではないか。そんな気がする。確信は持てないけれど。


「じゃあ、日曜日ね。楽しみだなあ、『アクアパーク』。寝坊しないようにね、キョウスケ。風邪にも気をつけて」


 そう言って、家の門前でカレシを微苦笑させて別れた金曜日の夕べをやり過ごすと、土曜日である。


 それは翌日のデートの為の装備を整える大切な日。


 勇んで駅前広場に行くと、約束の十分前だというのに既に明日香が待っていた。「感心、感心」と上から目線で彼女を見た結子は、すぐその隣に男の子の姿があったのでギョッとした。それが、十年慣れ親しんだ顔であったので、なおさら結子は驚いたのだった。

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