第52話

 席に着いた結子ユイコは、思いついたことを明日香アスカに話した。


 明日香は思いきり顔をしかめると、


「何でそういうことを口にするの? 信じられないんだけど」


 言った。結子は小首を傾げた。


「別にいいじゃん。女同士だし。わたしとアスカちゃんの仲でしょ」


「どんな仲よ?」


「顔見知り以上、恋人未満」


「そんなの、出会ったほとんどの人に当てはまるでしょ。あなたは今言ったようなことを出会った人のほとんどに言っちゃうわけ?」


 明日香が言う。結子は感嘆の色を顔に現した。それを見た明日香が、


「なに?」


 じろりとした目を向けてくる。


「やー、アスカちゃんって結構つっこむなあ、と思って」


 明日香は瞳を大きくすると、「帰る」とつっけんどんに言って、席を立った。結子は、そばをすり抜けて出口に向かおうとする明日香の手を慌てて取った。


「もうちょっとだけだから、アスカちゃん。もう一杯どう? ミルクティ?」


 明日香は結子の手を払うようにすると、憮然とした表情ながら席に戻った。結子は、空になっている明日香のティカップにミルクを少し入れてその後にポットから紅茶を注ぎ、ミルクティを作ってやった。


「どうぞ、お嬢様」


 明日香が気を取り直したようにミルクティを飲み始めたところで、 


「でさあ、アスカちゃんはもうヤマトとキスした?」


 結子がさらりと言うと、途端にむせるような音がして、咳を向けないよう礼儀正しく横を向く明日香の顔が見えた。カップをソーサーに戻した明日香は、思わず開きかけた口を閉じて、心を落ち着かせるように深呼吸したあと、突然何てことを訊いてくるのか、と押さえた口調で尋ねた。


「え、でも、そういう流れでしょ?」


「そんなことあなたに言う必要無い」


「必要は無くても、アスカちゃんなら教えてくれるな。今そういうことになりました」


「勝手に決めないで、そんなこと。それよりも、その『アスカちゃん』っていうのやめてくれない。バカにされてるみたいでイライラする」


「アスカちゃん。話、変えようとしてない?」


「もう一回、ちゃん付けしたら、帰るから」


「りょーかい。じゃあ、『アスカ』でいいね」


「あなたの頭の中には、『片桐さん』っていう選択肢は無いの?」


「無いよ。だって呼びにくいでしょ」


 結子はきっぱりとした口調で言うと、明日香は諦めたようなため息をついた。それから、結子は、


「わたしのこともユイコでいいからね」


 と言って、話を元に戻そうとしたところ、


「そもそもよく意味が分からないんだけど、どうして本田くんに……その、キスするっていう話になるの?」


 明日香に先手を打たれた。


 結子は驚いた様子を見せた。


「だって、そうしろって、アスカちゃん……じゃない、アスカが言ったじゃん」


「そんなこと言ってない」


「でも、他の人にしてないことをされたら嬉しいんでしょ、恋人に。アスカが嬉しいってことはキョウスケも嬉しいってことだから――なにせ二人は同じ立場だからね――他の人にしてないことをしようと思ったんだけど」


 結子は、数学の証明問題を解くときのように理路整然と説明した。さきほど思いついた考えというのがこれだった。恭介キョウスケにキスをする。よくよく考えてみれば、恭介とは五カ月付き合っているのに、手をつなぐところから関係が発展していない。親に紹介するよりもその方がよっぽど先に踏むべきステップだったのではないか、と結子は今さらながらに思うのだった。


「もちろん、ヤマトとはしたことないし」


「当たり前でしょ!」


 どん、と明日香の細い腕がテーブルに打ち付けられて、店内の静かな空気を揺らした。カップの中に入っていたミルクティが少しソーサーとテーブルにこぼれた。ハッとした明日香は、自分がした粗相にいたたまれないような顔をしたあと、席を立った。


「もう本当に帰るから」


 さすがに悪質な冗談だったかと反省しきりの結子に、カバンを肩から斜めに下げた明日香が言う。


「別にどうでもいいけど、個人的にはどうかと思う」


「え、何が?」


「好きだってことを信じてもらうためにキスするなんて」


「どこがおかしいの?」


「普通ならおかしくない。でも、あなたはそこまで本田くんのこと好きなわけじゃないんでしょ?」


「そこまでって……まあ、確かにアスカがヤマトのことを想うほどじゃないかもしれないけど、好きは好きだよ、もちろん」


「本田くんはあなたに、あなたがヤマトを想うよりも自分のことを強く想って欲しいと思ってるわけでしょ。それがうまくできないからって、そういうことしようと思うのって変」


 それだけ言うと、明日香は背中を見せた。


 立ち去る明日香から目を離した結子は、何とはなしにおしぼりでテーブルを拭きながら、彼女の言い残したことを考えた。何かおかしいだろうか。


 恭介のことが好きだということを、彼に伝えたい。


 その「好き」は大和ヤマトに向ける気持ちとは質的に全く違うものである。


 それを表現するために、大和には決してしないことをする。


 この流れの何がおかしいのだろう。


 結子は、おかしくない、と結論づけた。


 問題は、具体的にどうやってキスまで持っていくかということである。


――しかも、わたし、初めてだし。


 想像すると首元が熱くなるのを感じた結子は、とにかく計画が必要だなあ、と思いながら店を出た。

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