第34話
夕闇にはまだ早い明るい空の下、家の門の前で、
遠い平安の昔、その頃の結婚形態は「通い婚」というのが一般的で、男性が女性のもとに夜に通って来るのであるが、その男性が朝になると帰る。その帰りの別れのことを
「やれやれ、にわとりの声がしたよ。そろそろ帰らなきゃいけないようだ、ハニー」
言うと、女性が、
「ダーリン、また近いうちに来てくださるの?」
憂いを含んだ目で尋ねる。
「もちろんだよ、ハニー。キミと離れているのは本当に辛いんだ。どのくらい辛いかって言うとね、キミと離れている間にボクが流した涙は川を作って、その川の水で服の袖がびしょびしょに濡れてしまうほどなんだ」
うまいこと言ったぞ、と内心ニヤリとする男性に、女性が切り返す。
「まあ、憎らしいわ」
「え、どういうことだい?」
「だって、袖が濡れるくらいの量しか泣いてくれないってことでしょ。流した涙であなたのその身が流されてしまうくらい、そのくらい泣いてくれるのだとしたら、あなたのこと信頼できるのに。わたしのことなんて、袖が濡れるくらいにしか思ってくれてないのね」
「ああ、ハニー、キミは何て
「ダーリン。そのシャレ、寒いわ」
そういう典雅なことを言い合ったあとに、男性はおもむろに去る。今度はいつ来てくれるか分からないという不安の中で見送る女性。
結子はつくづくそんな時代に生まれていなくて良かったと思いながら、立ち去る
「家に帰ったら、わたしのために和歌を書いてね!」
声をかけると、彼は振り返らずに手を上げた。和歌はともかく、おやすみメールくらいはくれるだろう。恭介の背が回り角に消えるまで見送った結子は、うーん、と小さくうなってみた。
――また、逃げられちゃった。
これもまたいつもの通り、家の近くにまで来たときに、「寄ってって、コーヒーでも淹れるから」と誘ってみたのだが、柔らかく断られた。付き合ってもう五カ月になるのに、一度も家に来てくれないという事実はそれなりに結子をへこませていた。どうして家に来てくれないのか。家族に会ってくれないのか。
――家族公認になるのが嫌なのかなあ。
という想像をするとますますへこむのであまりしないようにしているが、他にカノジョの家族に会いたくない理由があるだろうか。単に恥ずかしいからという可能性もあるが、恭介に限ってそれは無い、と結子は断言できる。自分の気持ちを言い訳にして、為すべきを為さないような子ではない。もちろん、カノジョの家族に会うということが為すべきことに入るのかどうかは、疑問の余地はあるけれど。
「何で家族に会ってくれないの? わたしのことそこまで好きじゃないのね、プン」
などということを
「お母さんが、わたしが付き合っている人がどんな人か興味があるみたいなんだあ」
それに対する恭介の答えは、
「手土産が無いから」
とか、
「正装してないから」
という冗談から始まって、
「時が来たらね」
という、よく分からないものまであった。さすがに、「時が来たらね」などというミステリアスなことを言われたときには、結子は、「時って何だよ!」と突っ込みたい気持ちに大いになったわけだが、それを抑えて、
「時ね、なるほど」
と、さもあなたの気持ちは分かっていますと言わんばかりの口調で答えて、いい格好をしてしまったのは、今考えるとちょっと失敗だったような気もする。変なことを言い出した彼のその存念を多少無理してもちゃんと聞いておくべきだったろうか。いや、と結子は首を横に振る。
とはいえ、全くの受け身的態度で何かを純粋に待つというのは結子の気性ではなかった。打てる手は打つべきである。カレシと次のステップに進むために!
「どうしたの、ユイちゃん。握り拳なんか作って」
溢れるほどのやる気をリビングにまで持ち込んだ結子は、ソファで優雅にお茶をしていた母から怪訝な顔をされた。結子はカバンを下ろすと、参考までに母に、初めてカレシを家族に紹介したいと思ったときに、どういう風にカレシを家に誘い込んだか訊いてみた。
「『次の日曜日に、制服を着て、菓子折りを持って、駅前広場で待ってて』って言ったの。で、その通りにしてくれたから、それを家まで引っ張って来て、家族に紹介したわけ」
母はニコリとして答えた。
結子は、母のDNAを半分しか受け継いでいないことが悲しかった。とてもそんなことはできそうにない。どうやら、慎み深さという美徳は父から受け継いだものらしい。
何の参考にもならないアドバイスを受けたあと、結子はその日は寝るまで、どうやったらカレシを家族に会わせることができるか考えていた。しかも、なるべくエレガントな方法で。あまりに真剣に考えすぎたせいで、普段使わない脳がオーバーヒートを起こしたのか、寝る間際にはズキズキと頭痛を感じるようになった。
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