パッチェ
二日。
ヴァッヘンを出てからそれだけの時間が経てば、周囲の景色が変わってくる。
既に生態系が壊れたご時世だ。ゆっくりとした植生の変化などは起こらず、植物は、景色は一瞬で色を変える。
目的地であるパッチェまであと二日。
そこまで来た時、銃座に取り付き、外に出ていたケイジが思わず顔を歪めた。
嫌な匂いがしたのだ。それはイキモノが死んで、引きずり込まれて、泥の中で腐った匂いだった。
ここは水が腐っている。
堆積したヘドロが水の流れを殺しているせいだろう。そして駄目押しと言わんばかりに水源付近に暴走機械の工場でも有るのか、油で虹色にテカテカと光っていた。
とてもでは無いが、生物が居そうにもない。居そうにもないが、残念なことにしっかりと人に敵対的な生物が居る。
フロッグマン。
ぬめぬめとしたカエル人間は変異生物から亜人へと移り変わった経歴を持つ
だからと言って昼が安全と言うわけでもない。
腐った水を吸って育つ木々に葉は無く、木肌は泥沼と同じ色に染まっており、酷く不気味だ。
日の光で温められた腐った沼はガスを発しており、ソレが有毒であることを示す様に外傷の無い大ネズミの死骸が転がって居たりする。
そしてその大ネズミの飼い主、悪食のゴブ共はこんな環境でも生きられる。フロッグマンとも友好関係を築いており、昼間動きが鈍る彼等の代わりに――と、言うか隙を突いて狩りをしている。
昼はガスとゴブ。夜はフロッグマン。そして所により暴走機械。更に水陸空の全てに対応してみせた変異生物である中型犬程度の大きさのアメンボ、ストライダーも元気に群れで行動し、得物に飛び掛かり体液を吸いつくしている。
つまりはここも人には優しくない土地だった。機械のレサトは兎も角、ただの人間であるケイジは呼吸をするだけで消耗していく。
「ガララ」
鼻で呼吸をして慣らすとかそう言う段階ではない。そもそも有毒なので吸い込んではいけない。袖口で口と鼻を抑え、
『どうしたの? 敵?』
慌てた叩き方だったからだろうか? それなりの緊張感を孕んだ声が返って来た。
「いや、ちげぇ。ガスが想像以上にきちぃわ。一回停めてくれ。アンナに
『ヤァ、前に見える大型トレーラーの影で止まるよ。……寧ろリコに代わったら?』
「あー……リコかぁ」
「アイツ、夜番」
『……寝たばっかだね』
「そう言うこった」
つーわけで、俺が頑張るしかねぇーんですわ、とケイジ。未だ交代して三時間しか経って居ない。リコはアンナと一緒に後部キャビンで毛布の中で丸くなっている。
不意に、肩を落とすケイジをレサトがちょいちょいと突いて来た。何だよ? 袖で口を押えたまま振り返ると、アレを見ろと尻尾が進行方向の道路を指す。停止予定の大型トレーラーよりも先の道にソレは落ちていた。「?」もっとしっかり見ようとワンショルダーバッグから双眼鏡を取り出し、覗き込む。ソレが何か分かった。分かったからケイジは袖で口を隠すことも忘れて声を出した。
「ガララ、停車やめ。進行方向、道路のど真ん中に人――多分だが人間だ」
『ロイです。こっちでも確認しやした』
『ガララ、同じく。ケイジ、後ろに連絡付けられる?』
普通なら運転席から呼びかけられるが、今は大量のアンモボックスが邪魔をしている。
「ちょい待て。――レサト!」
ケイジの呼びかけに、応、と鋏を掲げ走行中の車の上でも代わらない安定性で、かしょかしょとレサトが後ろに移動して、ガンガンと容赦なく天井をぶっ叩いた。
『――――なぁに?』
眠そうなアンナの声。
「緊急事態だ。リコ起こして何かに捕まれ」
『……アンナ、良いわ』
『リコ、おっけー』
余裕の無いケイジの声に直ぐに寝起きの二人が応じた。レサトも寄って来たかと思えば、銃座の中に入り込んでケイジの背中を守る様にしがみついて来た。
「ケイジだ。良いぜ」
レバーを回し銃座のロックを緩め、銃座が回転できるようにする。そうしてから、しっかりと機銃を構えケイジも『準備完了』をガララに伝える。
助手席のロイもしっかり捕まったのだろう。
『それじゃ行くね』
ともすれば気が抜けた様にも聞こえる声でガララが宣言すると、装甲車が一気に加速した。路面状況は良くない。凹凸に足を取られ、跳ねる様にしながらも六つの独立車輪は常に路面を掴み続け、加速して行く。ケイジの耳朶を風が打つ。速さで狭くなった視界の中、景色が迫ってくる。
――ぜってぇゴーグル買う。
ケイジはそんなことを考えた。
眼を閉じることが許されないが、有毒ガスに眼球が撃たれると言う状況は絶対に身体によくない。
そんなことを考えているケイジを他所に、一切の躊躇なく、ガララが倒れている人を轢いた。
蹴って銃座を回し、背後に機銃を向ける。そのまま、レバーを無理矢理回して固定、そうして過ぎ去った背後に機銃を向けてみれば――
「ボブか」
罠に掛からなかった獲物を見送るゴブリンの一団と、その中心にいる二メートル越えの大柄な上位種、テンガロンハットをかぶったボブゴブリンが見えた。
鼻が曲がりそうだ。
と、言ってもその匂いは沼のもの では無い。
その沼の匂いを誤魔化す為に街中で大量に焚かれた香のせいだ。
銀貨三十枚を支払って、一応街が管理している駐車場に車を置く。念のため、レサトを警備に残し、沼地の街、パッチェの門を潜ったケイジの嗅覚を何とも言えない匂いが襲った。
いや、それはケイジだけではない。
ガララも、リコも、アンナも、ロイも――もっと言ってしまえば街中の全員がその匂いを認識して居るのだろう。老若男女を問わず、顔の下半分をベールの様なモノで覆っていた。
門に近い屋台横の壁際でそんな風貌の道行く人を見るでもなく見ながら、ケイジは金属製のカップに入った果実水を口に含んだ。「……」鼻腔に抜けるその香りでマシになるかと思ったが、匂いが混じって逆効果だった。正直、吐きそうだ。
「出すなら下からにしてね」
だが「はい、おかわり」と次のカップを持っているアンナが許してくれない。持って居る分を煽る様に一気に呑み、カップを交換すると、アンナは直ぐに横の屋台で果実水のお代わりを買う。
「……ヘェィ、もう腹がタプタプしてんデスガー?」
カンカンカン、カップを爪で叩きながら抗議するケイジ。
「仕方ないでしょ? アンタ、毒吸い過ぎてるんだから。
「……」
だからと言ってこんなに甘い果実水ばかり飲んでいたら別の病気になってしまうのではないだろうか? 水が高く、腐った沼でも育つ変異植物の果実のジュースの方が安いと言うのは分かるが、せめて同じ味ではなく、違う味にすることは出来ないのか?
そんな諸々の疑問をケイジは同じ味の果実水で流し込んだ。
「仕方ないからこれで一旦最後にしたげる。飲んだらトイレ行って、それから買い物ね」
「あぁ。いい加減、動いとかねぇとガララ達待たせちまうからな」
アンナは元より、ケイジは毒で弱っていたから戦力外通告を喰らってしまったので、ヘビーバレルからの積荷はガララ達三人が担当している。
その間に必要物資を買い集めるのがアンナとケイジの仕事だ。
「メモ見せて」とアンナが言ったので、「ほれ」とケイジは尻のポケットから紙切れを取り出し、再度手渡されたカップに口を付けた。
「……ガスマスクは一個くらいヴァッヘンで買っといた方が良かったんじゃない?」
「しゃーねぇべ。パッチェで買った方が安くて性能が良いもんが買えんだからよ」
特に中古が安い。ここで開拓者をやるにはガスマスクが必要で、開拓者は良く死ぬからだ。
だが、そんな理由でガスマスクを買わなかった結果、体調を崩したケイジが言うと何の説得力も無い。「ん」アンナが笑顔を浮かべながら追加の果実水を差し出してきた。
「……オーケイ。俺が悪かった。今後は少し見積もりを厳しくすることにするぜ」
「よろしい」
追加の果実水に口を付けながらアンナ。
「後は何だっけ?」
そんなアンナに買い物メモを奪われてしまったので、確認する様にケイジ。
「後は水――って言うか、飲み物ね」
「弾は?」
「ここよりヴァッヘンの方が安いから買い溜めしといたはずよ?」
「そうかよ。そんじゃ後は掘り出し物が有れば――って感じで良いか?」
「あ、それで思い出した。ケイジ、あたしグレネードランチャーが欲しいわ」
「GL? あー……手動式の小型のなら悪くねぇかもな」
「そ。アンタの
「うし、そんじゃマスク、GLの順番で――」
行くか。
ケイジがそう続けようとした所、門の方が不意に騒がしくなった。
どうやら怪我をした奴が駆けこんで来たらしい。
それ自体は別段、珍しいことではない。残念ながら良くあることだ。問題は、その駆けこんで来た奴が――
「助けてくれ! 仲間が、仲間が捕まったんだ!」
と誰彼構わず縋り付いて叫んでいる点だ。
当然、無視される。突き飛ばされる。当たり前だ。金が貰えるなら兎も角、そうでないなら見知らぬ誰かなど助ける理由がない。本当に彼が仲間を助けたければ報酬の話と一緒にするべきだ。だが、その頭が無いのか、どうやら彼は人の善性に縋る頼み方しかしていない。
どれだけ頭がお目出度い奴なんだ? そんな好奇心で、ひょい、と覗いてみると――
「……」
血塗れの
「あぁ、そう」
それを見たアンナが――
「車の代金、支払うことになったのね」
悲しそうにそう呟いたことが印象深かった。
あとがき
ケイジの「ヤァ」は英語のyeahなので、肯定からテンションの上下など様々な場面で使われる。
ガララの「ヤァ」はドイツ語のjaなので、肯定のみに使われる。
そう言う違い。
……俺、一部が終了したらガララの「ヤァ」を「ヤ」か「ヤー」に直すんだ。紛らわしいから。(あと三話くらいで一部終了です。お付き合いよろしくです。)
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