第55話カワイイ俺のカワイイ危機感④

『……ユウちゃんは、優しいね』

『へ? いや、優しいのはカイさんですって。普通、大事な私服を客に渡したりしませんよ。特に"こういう"お仕事では』


 どんな類にしろ、直前まで"好意"を寄せる相手が着用していた服に変わりはない。あまり考えたくはないが、"良からぬコト"に使われる可能性だってあるだろう。

 勿論、俺は断じてやましいことは一切していない。可能性論の話だ。相手が俺で良かったと、つくづく思う。


 気をつけないと、と渋い顔で忠告した俺に、カイさんは儚げな笑顔のまま「うん」と頷いた。

 なんだろう。なんか、違和感。その理由を明確にする前に、俺は口を開いていた。


『……本気で、心配してるんですからね』

『ユウちゃん?』

『カイさんが嫌な目にあうの、絶対に嫌ですから』


 よくもまあどの口が言えたもんだと、自分で自分に呆れた。

 けれどもこれは間違いなく俺の真意で、きっとこれからも同じ事を思い続けるのだろう。

 カイさんにとっては"只の客"の、駄々をこねる子供のような理不尽な我儘だったに違いない。


 空から降り注ぐ柔らかな光をたっぷりと取り込んだ黒い瞳には、困惑と驚愕が交互に揺れ動いていた。

 程なくして緩んだ頬。うっすらと、紅を乗せて。


『……やっぱり、ユウちゃんは優しいね』


 ふわりとしたその笑顔は間違いなく、"カイ"ではなく"彼女"のものだった。

 けれども、俺は見逃さなかった。その瞳の奥にはほんの僅かながら、憂いの色が潜んでいた。


 その日も、その次のエスコート中も、カイさんは変わらず"いつも通り"だった。

 いや。いつも通りを、"演じて"いた。


 例えば何気ない会話の最中。例えば、ミルクと砂糖をたっぷりと注いだカップを傾ける刹那。例えば、名残惜しい別れ際の『またね』の笑み。

 ふとした瞬間に、カイさんの瞳に複雑な色が覗くようになっていた。


 多分それは、あの時"彼女"が抱えた、"何か"だ。

 だから俺は後悔していたのだ。余計な事を言ってしまったと。


 正直な所、俺の言葉なんて、彼女を悩ませる程の効力なんて持たないと思っていた。けれども俺の知る限り、変化の始まりは間違いなくあの瞬間で、真偽を尋ねられない以上、『関係ない』とは言い切れない。


 どうしたのだろう。あの時、一体なにを感じたのだろう。俺は、彼女を傷つけたのだろうか。


 知りたいと思った。もっともっと、"彼女"自身を。

 だが俺に許されているのは"その他大勢"のひとりとして、強固に張られた境界線の外から、霞の中に佇むその後ろ姿を見つめ続ける事だけだ。

 何も出来ない無力さが歯がゆくて、悔しかった。


「……嬉しそうに、されてましたか」


 気の抜けた声が出た。拓さんは笑顔のまま、静かに首肯する。

 よかった。本当に、安心した。彼女を傷つけた訳ではなかった。

 張り詰めていた懺悔が、解けていく感覚。


「まったく、ユウちゃんにそんな顔させるなんて、カイも罪なヤツだねぇ」

「まだ勤務中なんですから、泣いたらダメですよセンパイー」

「ゆう、ちゃん、大丈夫? あ、ティッシュあるよ!」

「いらない。泣かないし」


 確かにちょっと危なかった。眼の奥がじんとする。

 感覚を逃すように目を閉じて、気を引き締めてから開いた。


 成長した親戚の子供を見るような、温かな眼差しの拓さん。心配顔の時成がスマフォを握りしめているのは、あわよくば俺の泣き顔を収めようとしていたのだろう。


 俊哉はいらないと言ったのに、鞄から取り出したポケットティッシュを握りしめながら、眉尻を下げている。


(……なんだかなぁー)


 大抵の事は、一人で乗り越えられると思っていた。

 それはこうして"装う"ようになってからの、意地でもあった。

 仕草も言動も、想像し得る"カワイイ"を磨いて、わかりやすい成果を見せつける。

 理解は求めない。ただ、黙らせるのだ。手っ取り早い力技。


 そのハズだったのに。


(気がついたら、こんなに)


「……センパイ、やっぱり泣いておきますかー?」

「泣かないって言ってるだろ」


 フイと背中を向けて、パントリーへと歩を進める。

 少し長居をしすぎた。別に、あれ以上あの場にいたら、せり上がる感傷に負けそうだったからじゃない。

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